2013年12月23日月曜日

<5>家紋の怪 ~抱き茗荷は二つある~

 「そういえば、えらい大事なことを忘れていた!」

 それを思い出したのは、福岡旅行から帰ってしばらくのことであった。そういえば、かねてより父親から聞いてはいたのだが、これまた漠然と右の耳から左の耳に抜けていただけで、改まって意識したことのない、でも大切なポイントである。

 そう、それは我が家の家紋についてであった。

 父親によれは、うちの家紋は、

「抱き茗荷」

であるという。

 ところが、言葉では知っていたものの、それがどんな紋であるのかは、インターネットを見て後から知ったくらいで、ああ、お恥ずかしい限りである。

 それもそのはずで、うちの父親はすでに実家を出て何年も経っているので、だいたい家紋の入った何かを持っているはずもなく、今時正装する機会もなければ、末っ子の父だから紋付を持っているわけでもない。

 正規の家紋がついた所持品が何一つないわけだから、僕らが見たことがないのも当然と言わざるを得ない。

 そこで、僕の中では、「うちの家紋は抱き茗荷」という言葉だけが記憶に残ることになり、そしてこの言葉によって、結構苦しめられちゃうことになるのである。

 そう、「抱き茗荷」は歴史上稀に見るややこしい家紋でもあるのだ。


 抱き茗荷とは、こんな家紋である。

 

(引用元 ウィキペディアより http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Japanese_crest_daki_Myouga.svg

 「抱き茗荷」紋は日本の十大家紋に入っているので、メジャーなほうの家紋らしいのだが、実はこれにそっくりな紋がもう一つあって、よくその紋と混同されることが多い。


 それが「抱き杏葉」紋であり、そっちはこんなデザインになっている。

 

(引用元 ウィキペディアより 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Japanese_Crest_Daki_hana_Gyouyou.svg


 調べていくと、この「抱き茗荷・抱き杏葉」はどんどん深みに入っていくようなややこしさを持っている家紋だということがわかってきた。

 まず、形が似ているので、「抱き杏葉」の家紋を持っている家でも、その呼び名を「抱き茗荷」だということがあるという。

 
 このあたり、わかりやすい説明をしてくれているのが、前回登場した柳川藩当主「立花家」のサイトである。


 立花家十七代が語る立花宗茂と柳川 「杏葉紋のこと」
http://www.muneshige.com/column/05.html


 この説明によると、もともと杏葉紋は豊後の戦国大名「大友家」が用いており、そこから肥前佐賀「鍋島家」が用いるようになった、という。

 そして、大友家軍団は、大友家からこの紋を用いる許可を与えられたので、(それを同紋衆というらしい)、柳川の「立花家」でも杏葉紋を用いるようになったとのこと。

 ついでに江戸時代を通じて、杏葉紋なのに「抱き茗荷」だと混同する例も多く、ややこしいなあ、と率直に思わざるを得ないのである。



 このあたりから、僕は当初大きな誤解をしてしまう。この誤った推測というのはこうだ。


「大塚家も、もしかしたら大友家の支配下にあって、それゆえに抱き茗荷紋を使うようになったのではないか?だとすれば、そもそも柳川藩の支配地域であったこととも繋がってくる。大友-立花-の流れと大塚家の関係性があるのではないか?」

 そんな仮説から追っていったルーツ探しだったが、結果としてはNOだった。


 なぜか?!それは、後に一発で覆される仮説だったからである。





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