2014年12月28日日曜日

<日常> 官兵衛の湯へ行ってきました

 先週で「軍師官兵衛」が終わってしまったので、ゆっくり残り香を楽しんでいる今日このごろ(笑)

 今日は、某所にある「官兵衛の湯」へ行ってきました。


 一見すると、なんともまあ「大河に乗っかりやがったなwww」的な施設なのですが、実はここ、少し前まで別の温浴施設として営業しておりまして、今回新たにリニューアルしてのオープンだそうです。

 このお風呂、簡単にいえば温泉ではなくスーパー銭湯です。

 でもでも、スーパー銭湯といえば、お値段もスーパーなところが増えている中、質素・倹約をモットーにしていた官兵衛(?)だけあって、


 500円(大人1名)


で楽しめます!!


 それでいて、サウナは2系統あるし、露天風呂は4系統あるし、 打たせ湯・泡風呂・寝湯なんかもひととおりちゃんとあって、楽しめます。


 そして、特筆すべきは何がすごいって?!


 お風呂の床が全部畳!!たたみですよたたみ!

 という驚きの官兵衛仕様です(どこが笑)

 
  なんということでしょう!レベルです。想像してみてください。畳にお湯をじゃばっとかけるわけです。畳の上を濡れながら歩きまわるのです。

 かなりおかんに怒られそうな気分に最初なりますが、そのうち慣れます。


 秘密は、専用仕様になっている防水畳(というよりプラ畳)で、でも堅いわけじゃなく感触はふわふわの畳の上を歩いているのとおんなじです。

 子どもや老人にとっては、万一転んだりしても安全なので、ある意味よくできたしくみなのですが、メンテナンスはどうなのでしょう。


 さて、どうやらこの畳、お風呂専用の特殊畳のようで、極東産機さんというところで作られているようです。

 極東産機さんでは「ひらかたパークのプール」にも特殊畳を納めておられるようで、ひらパーも耐水畳仕様なのでしょう。


 ここで、関西在住の当ブログファンはにやりとしたに違いありません!!!


 なんでニヤリなのか知りたい方は下のリンク


 http://www.hirakatapark.co.jp/hirapar_niisan/


をクリックしてくださいね!。


 変なサイトに飛んだりしません。大真面目に大ギャグぶっ放してます(笑)


 そう!ひらかたパーク、ひらパー、ひらパー兄さん!!!今年はひらパー園長?!


  やるな、さすが官兵衛の湯・・・・。そういうつながりがあったとは。


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 おみやげは、おわんにしました。おわんおわん。

たいへんに良く出来た美味しい和菓子です(^^




  黒田一族の出身地においでくださった際はぜひ、お土産にどうぞ~。



2014年12月22日月曜日

<完結>信長協奏曲も終わってしまいますた!

 昨日の大河ドラマ軍師官兵衛ちゃんに引き続き、月9戦国ドラマでヒットしていた「信長協奏曲」も終わってしまいました(涙)

 まあ、こちらのほうは、フィクションですので、それほど本気で見てなくても大丈夫だったのですが、なんと今日は


 浅井一生長政の切腹シーン


が良かった!!!!昨日に続いて九郎衛門グッジョーーーーブ!!!!


 いやあ、高橋さん、どちらも気合入っていて良かったです。ね!恒ちゃん!


 それに引き換えといえば可哀相ですが、脱糞大名、岳ちゃんも世間の評価を度外視した名演技(迷?)でした。こちらもお疲れ様でした。


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 さて、信長協奏曲、どこまでやるのかと思ったら、とりあえず浅井軍との戦いを終えていったん幕引き、つづきは来年冬の映画で!という告知でした。

 あろうことか竹中半兵衛が信長と秀吉に謀殺されたところで話が終わってしまい、約1年も


気になるやんけーーーーー!


状態が続く模様です。


 さあ、現在業績低迷中のフジテレビが、踊る大走査線以来のヒット映画化できるか、という試金石になりそうな「信長協奏曲映画版」を楽しみに待つことにしましょう。



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<告知です>

500円でなんでも頼めるココナラにおいて「苗字・名字の由来と先祖探しのアドバイスをします」というサービスを開始しました。

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みなさんの「名字・苗字のルーツ調べ」をさくっとお手軽にお手伝いいたします。

詳しいサービス内容は上記リンクをご参照ください。


既に何件かサポートさせていただきましたが、喜んでいただいております(^^


あなたも歴史ミステリーの扉を開いてみませんか?!



2014年12月21日日曜日

<完結>NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」ちゃん 最終回スペシャル!!

 

 お疲れ様でございました!



 長い期間に渡ってお届けしてきた「軍師官兵衛ちゃん」レポートもいよいよ今回が最終回!今日は60分拡大版の「軍師官兵衛」涙の最終回スペシャル!でした。


 今日のみどころは満載すぎて説明しきれない!ほどの黒田エピソード詰め込み教育だったわけですが、いくつかの視点からご解説申し上げます!




<テーマ1> 岡田くんも!高橋君も!これぞ演技合戦やりたい放題スペシャル!

 「残り3回は好き放題やる!」と公言していた岡田官兵衛。輿に乗ってのスタイルなども、岡田君の提案から採用された演出だったそうですが、なんと最終回は

「輿の上で、足を組みながらふんぞり返りながら登場」

という新しすぎる映像で度肝を抜かれました。 そうなんです!岡田官兵衛は、お椀をかぶりながら、リクライニング状態で登場。まさかの大胆不敵な絵面で、最終回はスタートしたわけで(笑)



 一方の高橋九郎衛門も、最初から岡田君と同級生(タメ)ということもあり、主役とサブではありながら、お互い気を抜かずに演技に全力を掛けてきただけあって、

「鼻水全開で垂らしながらの、死に行く如水見送りシーン」(どアップ)

で本気度が伝わります。

 横で頑張ろうとしているけれど、頑張りきれていない「もこみち太兵衛」との対比をお楽しみ下さい(^^



<テーマ2>これでもか!の黒田エピソード満載特集!

 エピソード系では、残り全部ぶちこんでくるという大判振る舞い!


☆ 罪人の石田三成に上着をかけてやる長政ちゃんの話。

☆ お前の左手は何しとったんじゃー!の話。

☆ 息子じゃなくて、あえて栗山岳ちゃんにお椀兜を与える話。

☆ 又兵衛、大阪城にて討死すの話。


  もう、これで最後なので思い残すことなく、全て語り切ります。戦国エピソードファンの方も、これで「すっきり!」なこと間違いなしですね。




<テーマ3>絶賛すべし!大河脚本の相変わらずのすばらしさ!

  毎回、脚本の「よくできてる」ところを絶賛し続けてきた当ブログですが、今回もやはりしてやられました。

 そもそも、最終回近くになってから俄然「官兵衛が、あえて九州から天下を狙いに行く」説を採っていた今回の大河脚本だったのですが、 それをやりすぎると家康と対立構造になってしまい、史実のニュアンスと離れていってしまいます。

 ここは描くのが難しいところだったのですが、なんとこれまたある意味「裏ワザ」を用いながら解決してしまったのです!!!


 それはどんな方法か!なんとなんと、関が原が終わってから、官兵衛ちゃんが家康に会いに行くのですが、なななんと


「家康にケンカ腰!!!」


で喋るのです。うっひょー!!

  家康も家康で「ジョスイてめえ、九州で変な動きしやがって」みたいな感じで睨み付けているし、官兵衛ちゃんも「俺もお前も天下を狙った身だろーがこのやろう」みたいなオーラで対峙するわけで、下手したら歴史が変わってしまうようなガチんこ勝負になるところなのに、そこは脚本の妙!!

官兵衛「家康さまは、どんな世をつくるつもりなのですか」

家康「・・・天下は、1人のモノではない。わしが死んだ後も、争いが起きないような、真の平和な世の中を作りたい」

という展開で、


「・・・わかった、それならあんたに任せよう」<心の声>


とこれまでの敵意を一切なくして納得する、という話にしています。

 これで、当初からの官兵衛ちゃんのテーマである「戦無き世」「乱世を終わらせる」という信念が、家康の天下によって成ることを追認する、ということで解決するわけです。

 この描き方で、これまでのいろんなもやもやがこれまたスッキリ!しますね。よく出来ています。



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  もう一つ、「賢い父」に対して、「バカ息子長政」というやっかいな対立構造がずっとあったのですが、これもうまく脚本で解決。

 ギリギリまで「家康に褒められてただ喜んでるなんて、お前はアホか!左手は何しとったんじゃー!」と長政をマヌケ呼ばわりしていたのですが、これも家康との対談の中でヒントを貰いながら、解決に向かいます。

 つまり、関が原で長政の活躍により「たった一日で戦が終わってしまって、九州殲滅作戦もこれまでやんけー!」と官兵衛ちゃんははじめ苦々しく思っていたのですが、 後から振り返ってみれば


長政が家康側につき、長政のおかげもあって早期に決着がついたことそのものが、「黒田家のその後を安泰に導いた」わけで、それはすなわち=長政なりのやり方で、父を越え、黒田家を守ったということに気がついた



わけで、父と子のわだかまりもこれにて一件落着、というお話になっています。




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 ・・・こうして、全体を通して積み残していた課題もなんとか解決し、官兵衛ちゃんは逝き、ついでに「大阪城」が落ちます。

(昨日はプリンセス・トヨトミを地上派でやってましたが、ワザとぶつけてますねwww)


 ラストシーン。ベタですが泣けます。思わず泣いてしまうのは、岡田くんがカッコ良過ぎるからではないと思います。


 そう!黒田官兵衛の生き様がカッコ良過ぎるから泣けてくるのだと思います。




 というわけで、かなりの長きに渡り当ブログの本来のテーマを奪い去った「今週の黒田官兵衛ちゃん」のコーナーも今回にて終了。ご愛読ありがとうございましたm(_ _)m
 

2014年12月17日水曜日

<コラム>家を継ぐとはどういうことか ~法律上、家を継ぐ事は存在しない~

 苗字や家系について調べていると、どうしても「家」というものに着目せざるを得ないことが多々あるのですが、ちょっと面白いことを思いついたのでせっかくの機会なのでお話しておこうと思います。


「家を継ぐ」


という言葉を、みなさんは耳にしたり使ったりしているはずですが、実は「家を継ぐ」ということは現在の日本には存在しないのを知ってますか?!



 これを聞いて「はあ?」と思う方も少なくないかもしれません。


「え?だってうちの兄貴は家を継いでおやじの家に住んでいるよ」


とか


「あたしは女子1人なので、親が『家を継ぐのに養子をもらえ』みたいなことを言ってるよ」


とか、そんな事例は山ほどあるので、「家を継ぐということが存在しない」ということについてはピンとこないかもしれません。




 しかし、はっきり言っておくと「家を継ぐ」ということは、みなさんの意識の中の慣習としては残っているのですが、実際には法的には全く存在しない出来事なのです。



 というわけで、今日はそのへんをズバリ解説してみましょう。



 戦前までの家父長制度では、「家」というものが存在しており、それを継ぐという行為もきっちり決まっていました。

 ところが、戦後民法が改正され、私たちは法律上「家を継ぐ」ということを失っています。


 ここまでが「語句と規定」上のお話。


 実際問題として、私たちのこころには「家を継ぐ」という行為がイメージとして残っていますよね?



 それは、具体的には、


①父親の家屋敷を、長男が相続してそのまま代が代わっても住み続ける。

②女の子ばかりのこどもの時、父親の姓を残すために、娘の夫の苗字を変えてもらう。

③長男が都会に出てしまったので、次男のほうが実家に残っておかんや家族を養う。


なんてことが多々あると思います。もう少し詳しく言えば、「お墓を誰が守るのか」とか、「地域との繋がりを誰が受け継ぐのか」とか「神社の氏子として誰が参加するのか」といった付随事項もたくさんありますが、基本的には


「実家を誰か子供が継ぎ、苗字を受け継ぐ」


という行為を「家を継ぐ」と認定していることと思います。


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 ところが、現在の民法の規定上は、たとえば家屋敷などは

「おかん2分の1と子供で等分割して分けっこしなさい」

というのが正式な規定ですから、「誰かが受け継ぐ」という発想はありません。


 厳密に運用するならば、実家は売ってしまって代金を山分けすべきだというのが民法の規定なわけです。


 ところが、そうすると実家が無くなってしまうので、長男などの「誰か」にまるごと相続させて保全し、それ以外の人は別の形で取り分を考えようね、ということが実際として行われていることになります。


 また、苗字についても、わたしは大塚なので大塚で考えますが、「『大塚ひろし』の長男の『大塚しんのすけ』」という人物がいるとすれば、イメージとして

「大塚の家を、息子が継いでいる」

と思いがちですが、民法では違う解釈をしていて、


「大塚ひろしの家」から分裂して新設された「大塚しんのすけの家」が登場!


ということになっているわけです。継いでいるのではなく、「新しく別の大塚家が出来た」ということに過ぎません。



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 古い戸籍を見ているとよくわかるのですが、家父長制の時の戸籍は、「大塚家」という大きな枠の中に



「戸主(いちばんえらいひと)」を筆頭として

「息子」「息子の嫁」「戸主のおかん」「娘」「弟」「姪っ子」「戸主のおじさんのおっさん」



などがみんなその「家という箱」の中に入れられているように書かれているのです。

 現代の戸籍なら、息子に嫁ができた時点で


「戸主の戸籍」には戸主と娘だけが書かれ、

「息子の戸籍」には息子と嫁が書かれ、

「戸主の弟の戸籍」には弟とその娘(姪っ子)が書かれ、

「戸主のおじの戸籍」には戸主のおじが書かれ、

「戸主のおとんの戸籍」には死んだおとんに×印とおかんの名前が書かれているわけです。



 つまり、旧来の家制度では「大塚家」とかかれた大きな箱を誰が受け継ぐのかということが重視されていたので「家を継ぐ」という発想が生まれていました。

 だから、上の例でいえば、


「戸主のところが息子の名前」になり、かつ「戸主の父」「息子の嫁」「おばあちゃん」「おねえちゃん」「おじさん」「いとこ」「遠い親戚のおっさん」


が記入されるから、「ああ、たしかにこれはあの大きな箱を子供の名前で受け継いだんだな」とわかることになったのです。


 これが「家を継ぐ」ということで、戸主から息子の代になったのにまだ生きているから「隠居」という立場も生じたことになるのです。




 しかし、現代の戸籍では、それぞれの箱が「夫婦と未婚のこども」でしか構成されませんので、「こどもが結婚しておとんもおかんも死んだ」となると、


 
 箱はだれにも継承されずに蓋をして閉じる


ことになります。(閉鎖された戸籍)


 そう!だから家を継ぐという行為が存在しないのです。


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 じゃあ、現在みんながわーわー言っている「家を継ぐ」というのは、どういうことなのでしょうか?

 まずひとつ言えるのは、


①先祖から受け継いだ土地や家業を、誰かがそっくり継承する。


という行為でしょう。これは主に長男に課せられた使命になっています。ただ、これは正式には、「お兄ちゃんが、たくさんぶん取っていったことをみんなが納得した」ということに過ぎません。


そして、次にあるのが


②お父さんとおなじ苗字を持つものが、次の世代にいる。


ということになります。子供が男子の時はあまり誰も意識しませんが、子供が女子だとわーわー言いたくなるやつです。


 しかし、法的には、「大塚さんの娘さんである「大塚ひまわり」さんが、野原みさおくんという青年と結婚した場合」を考えると


「みさおくんとひまわりさんが、合意の上で『大塚姓を選択する』(夫の姓を称する)」


ことに過ぎません。別に家は継いでいないわけです。


 なので、よく行われるのは、ただ夫婦の姓が大塚だけなのはなんとなくきもち悪いため、


「みさおくんを大塚の家の養子に縁組して、本来の姓を”大塚みさお”にしてから娘と結婚させる」


という裏ワザを使っていることが多く、これを「婿養子」と呼んでいることになります。


 これだと、戸籍上は息子と娘が結婚するので近親相姦になってまずいのですが、民法的には、まーしゃーないなと許されています。

 

 なぜか?ここが大事!


 「養子として大塚父の子供として認定されると、法定相続人になれる」


からです!!! そうしないと、苗字が大塚になっただけでは、お父さんの財産は娘にしかいかず、あくまでもみさお君は横から見ているだけの人になってしまうので、名実ともに資産を継承させるために婿養子システムは便利だということになるのです。


 このシステムを使えば、①と②が比較的容易に実現可能だというわけです。



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 しかし、こうしたシステムは、先祖代々の土地があってはじめて成立するので、都会の賃貸マンション暮らしで貯金もない一家の場合は、「家を継ぐもくそもない」わけで。

 その場合は、女の子だけしかいなければ、「せめて苗字が残ってくれたらなあ」みたいに思うのかもしれません。

(あとは、実家のお墓の面倒を誰が見てくれるねん、的な話は出るかも)












 





 


2014年12月15日月曜日

<話題> 小栗旬!信長協奏曲もいよいよあと1話!今日は「サブローばれちゃいました」の段

 いやー、月曜日のお楽しみだった「信長協奏曲」もいよいよ次週で最終回だそうです。

 奇しくも選挙のせいで、大河と連チャンで最終回を迎えることになりますが、今日は


 恒ちゃんに正体がバレた



 おゆきちゃんが亡くなった



 秀吉が入れ替わっていることがバレた


り、大変な一日でした。


 フィクションだとわかっていても「ついつい引き込まれて」しまう信長協奏曲も終わっちゃうなんて!来週以降は腑抜けになりそうです(笑)


 さて、本日サブロー信長が名づけた『年号』が戦国時代を代表する


天正


だったのですが、実はこの年号でワタクシ悩んでいることがあるのです。 信長とも大塚とも関係ありませんが、ちょっとばかりミステリーなので紹介しておきましょう。



 とある墓石を調査中なのですが、そのお墓はどうやら江戸時代に子孫が先祖を偲んで立てた碑のようで


『元祖■■□□の墓』


と書いてあります。

 で、裏面に


『 天正十一癸酉年 ■月■日没

 通称 ほにゃらら

 戒名 なんとか

  明治十四辛巳年 ■月■日  なんとかかんとか

                     同なんたらかんたら

                     同なんたらかんたら』


みたいな刻印があるのですが、読めないところが多いわけで。


 さて、この墓碑を私は「子孫たち一同が、明治十四年に建てたもので、祀られているのは天正十一年になくなった先祖のだれそれ」だと認識しているのですが、おかしいところが一箇所あるのです。


 それは”天正十一癸酉” のところ。

 天正十一年は”癸未”のはずなんですね。だから干支がずれているのです。


 もしや!と思って「大正十一年」の誤りの可能性もあるので、一応確認してみたら、


大正十一年は”壬戌”なので、これはやっぱり違う!


(そもそも、大正十一年に死んだ人のことを明治十四年に追悼できないので、やっぱりもとの年号は天正であってると思うのですが)



ちなみに問題の画像はこれ




ね?天正十一癸酉年って書いてあるでしょ?


 やっぱりこれは墓碑を作った人たちが間違えたのかなあ、と思うのですが真実はわかりません。


 ちょっともやっとしております(笑)



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 このブログのおなじみさんには、あまりたいしたニュースではないのですが、500円でいろんなちょっとしたサービスが受けられるという

 ココナラ

に”苗字・名字の由来調べます”サービスを登録しました。


 ココナラさんより
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 ご先祖様調べや家系図作成は、ものすごいお金がかかる、というイメージですが、ワンステップごとに自分に必要なヒントをお伝えするだけなら安価でできるなあ、ということでこんなサービスを提案しています。

 基本、ネット・文献・資料と「地縁血縁解析」を組み合わせながら「ご先祖さま探しのヒント・アドバイス」をお送りする予定です。


 当ブログをお読みの方で、もうちょっと自分の家・一族に近寄ったことを知りたい!と思っておられた方は軽くお試しください。





2014年12月14日日曜日

<話題>今日は無いのよ軍師官兵衛ちゃん 播磨官兵衛ツアーでGO!

 今日は衆議院選挙のため、われらがNHK大河ドラマ「軍師官兵衛ちゃん」はお預け状態になっています。


 というわけで、一週間もフラストレーションが溜まっているみなさんのために、なんとリアル官兵衛ちゃんツアーを決行!して参りました。


  基本的に貝原益軒説をとらない当ブログのひねくれたスタンスでお送りしますので、もちろん行くところは


 播磨黒田氏ゆかりの場所


でございます(笑)

 
 それでは、最終回直前ミニツアーのはじまりはじまり。


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 黒田氏播磨出自説によれば、黒田一族は現在の西脇市黒田庄町の出身だとされています。この町に「黒田城」という小さな城があり、赤松一族の諸流としてこの北播磨の地を守っていたとか。


 黒田庄町には現在「本黒田」と呼ばれる地域があり、その一角の山城が「黒田城跡」だとされています。





 現在ちいさな稲荷神社が祀られているこの山の上が、黒田城あと。付近には、







 今回の大河ドラマにあわせて地元の人が気合を入れて作った

「黒田官兵衛生誕の里」

の碑が!

 ついでに、山の麓は家臣たちの邸宅や館が集合されていたとされ、ちょうど山の真下あたりに

「官兵衛が生まれた屋敷」

の伝承が残っている地名の場所があったりします。


 「姥が懐」なる地名が残されており、そこが官兵衛の生まれた屋敷があったとされる場所!ここにも気合の入った碑が立っております。


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 さて、ここからはミステリー不思議発見!ひとし君人形が飛び出しそうなエピソードですが、この黒田一族がいたかもしれない地域に、なんと


キリシタンの遺物


が残っているのです。

 官兵衛の真実に近づくには、けして避けて通れないキリシタンの道。


 そう!この地に「キリシタン大名の影響があった」と推測できる遺物が、「背中に十字架を背負った地蔵像(江戸期)」なのです。


 この背面に十字架がある地蔵は、長い間当地でも発見されていなかったそうです。


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 さて、播磨黒田氏最大とも言える遺跡が、これ!


 さきほどの本黒田から少し南に下った地区にある、「兵主神社」はなんと県の文化財になっています。
 
 何がいったい文化財なのかと言えば、聞いて驚け見て笑え、




 この茅葺の拝殿が、


なんと天正19年棟上


だという棟札が屋根裏についているのです!!!

 つまり、戦国時代からの現存築建物だというわけ!

 
 地域の伝承では、「三木攻めに当たって、秀吉が黒田官兵衛に代参させて勝利を祈ったのがこの神社である」ということですが、天正19年といえば、既に官兵衛はジョスイとして隠居していますので、ちょっと時代が違いますね。

 しかし、「勝利を祈った」ということと、「実際に拝殿を寄進した」ということを切り離して考えれば、このエリアが、秀吉や官兵衛ゆかりの場所であることは全然不思議なことではありません。


 むしろ、黒田氏が当地出身だからこそ、この場所での祈願や、拝殿の寄進が可能になるわけだと考えれば、


「近江の薬売りの子孫がなんでこんなとこで?」


という説より、よっぽど信憑性があると想うのですが、どうでしょう?!



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 さて、実は今日はこの場所からそれほど離れていないとある場所で、うちの母方の先祖の研究を進めてきました。

 そこではおなじ天正時代にかかわる


「大きな謎」


に遭遇してしまったのですが、それはまた別のお話。


 では、来週の黒田官兵衛ちゃん最終回スペシャルでお会いしましょう!





2014年12月10日水曜日

<話題>日本人の名字マップ 立命館大文学部地理学専攻

 立命館大学の文学部地理学専攻で

「名字マップ」

なるものを作成したらしく話題になっています(^^



日本人の名字マップ(立命館大学)
 http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/asp/research/geo/surname/surname_map_in_japan.html


 
<ニュース>
私の名前どこに多い?(日本経済新聞さんより)
http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG03H0V_V01C14A2000000/


あなたの名字はある?(ITメディアニュースさんより)
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1412/05/news126.html




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 いやあ、楽しそうですね。ごく一部だけに特化した名字研究家である大塚某もドキワクです(^^


 立命館大学さんでは、人々の移動・交流の歴史を追うために名字に着目したそうですが、大塚某の研究も


苗字を通じて、政治・歴史・文化そして国家の在りようを深く追求する


ということを壮大なテーマとしてやっております(笑)



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 さて、今回の名字マップ、立命館大学の文学部&アートリサーチセンターが主になってまとめておられるようですが、


(ちなみに、執筆者の矢野桂司さんは、文学部教授兼アートリサーチセンター長だそうです)


立命館アートリサーチセンターといえば


うちの師匠の絡んでる研究所じゃないけーーーーー!!!


・・・はあはあ。思わず取り乱しました。




 はいそうです。大塚某の大学時代の指導教官は、現在上記施設で「浮世絵を全部デジタルにしてアーカイブする」みたいなプロジェクトをやっている人です。

 ということはすなわち、


「日本文学・日本文化をデジタルな手法で科学する。それも片っ端から」


という立命館大文学部とアートリサーチセンターの基本技法は、立派に弟子である大塚某にも受け継がれているというわけで(^^;;;;;


(私が大学生の時には、そんな施設はまだなかったけどね)



 私は残念ながら、文学研究のほうには進まずに、いち会社員として「好き勝手やっている」わけですが、いつか大塚研究では第一人者になってみせましょう(笑)



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 さて、そんなワタクシの昔話は置いといて、名字データを「大塚研究者」の視点から切り込んでみたいと思います。


①ローマ字表記なのはなぜか


 ・・・日本語は「おと」で判別する言語です。”おおた”さんでも太田だけとは限りません。”おおつか”でも大塚と大束の表記が可能です。”こが”姓は古賀もあれば空閑もあります。

 なので、漢字の字面よりも「おと」を尊重しながら調査したほうが良いのです。

 今回の地図がローマ字表記なのは、そのあたりに関係します。


②大塚氏はどこにいるのか


 ・・・鈴木や佐藤といったビッグネームで埋め尽くされているこの地図ですが、一見マイナーに思える名字が突出して現れる地域があるので面白いですね。

 そこに歴史のミステリーが隠れているというわけです。


 ちなみに大塚氏について言えば、大半は埋もれてしまっているものの「北関東に2点」出現しています。

 これは、当方の「大塚調査」とも概ね合致しており、だいたいどこの系統の大塚さんか判定可能です。


③九州のビッグネームは意外にも?!

 ・・・北部九州のビッグネーム「古賀」姓。田中や山口といった「ありふれた」名前のなかに突如現れる「地域性の高い名字」でもあります。

 九州南部では「黒木」姓もガツンと登場。これも興味深い名前です。


 個人的には少弐系統と思われる「吉田」氏が佐賀周辺に展開していることも気になりますが、九州らしい分布としては「中島」氏がいたり、北九州の「石橋」ブリジストンさんも面白そう。



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 というわけで、私も名字研究を通じて日本の歴史をもっと明らかにしてまいります!よろしくね。





2014年12月9日火曜日

<話題>キターッ!九鬼家関連の「信長」「秀吉」書状が出た!

 今日も戦国関連で面白そうなニュースが出ていました。



民家に信長の書状=秀吉も、九鬼家宛て―神戸
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20141208-00000132-jij-soci



元ネタは時事通信さんです。


 話の概要は、神戸の民家で「信長から九鬼家」「秀吉から九鬼家」あての手紙が見つかった、とのことで、所有者は九鬼家から流出したものを持っておられたようです。


 いやいや、さすが九鬼(くき)家!現在はニュータウンが広がる兵庫県三田(さんだ)市の三田藩主の家柄です。


 もちろん、当ブログにも大いに関係のある「三田藩と九鬼家」!今日はそこらへんをおさらいしておきましょう。


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 まず、私が今の会社に入った時、関係先として「九鬼さん」という方がおられました。九鬼氏の拠点は当然摂津三田だったのですが、ちょっと違う別の地に九鬼一族が住んでおり、その地の方とお聞きしています。

 おそらく三田九鬼家とは分家筋だったのでしょう。


 現在、その「九鬼さん」は引退なさっているとのこと。




 さて、三田市の九鬼家については


 旧九鬼家住宅資料館
 http://www.jalan.net/kankou/spt_28219ae2180119485/



が公開されていますので、お好きな方はどうぞ。



 さて、その九鬼氏が治めた三田藩、もともとは我らが赤松有馬氏の居城です。そう!久留米藩に移動した有馬氏は、もともと三田も治めていたというわけ。


 なので、ここから面白いのですが、


 現在、三田藩のお城「三田城」跡には有馬高校が建って


おります。


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 ところが、歴史ファンのみなさんには九鬼氏は「水軍」として知られています。


ウィキペディアより 九鬼氏
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E9%AC%BC%E6%B0%8F


 そうなんです。もともとは志摩スペイン村パルケエスパーニャ!の志摩国が拠点なので


 海の男


だったわけ。


 織田信長に従った九鬼水軍とそれに抗する毛利水軍は有名ですね。しかし、関が原以降の平和な時代には水軍は不要となり、九鬼氏も否応なしに陸に上げられてしまいます。


 九鬼氏の船にはお風呂もついていたとか。家臣への指示の手紙に風呂の寸法まで載っているらしいです(笑)





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 さて、最初の話に出てきた「九鬼さん」という方。実は彼の住んでいるところには「九頭神社」なるものが鎮座しています。


九鬼氏はそもそもは和歌山の熊野大社の神官の末裔とされており、そこから志摩国へ移動し海沿いに展開した一族が海賊になったといいます。


 九頭神を祀っていることからも、この集落に住む「九鬼氏」がガチな九鬼系だとわかるのですが、藩主一族ではなく、何かの理由で流れ着いた別の一団の可能性もあります。


 このあたりは私も流石に調査していませんが、詳しく調べると何かわかりそうな予感がします。





 クズの神を祀る神社 さんのサイトより
 http://kamnavi.jp/jm/kuzukami.htm


 わらじ祭り公式ホームページ さんより
 http://www.warajimatsuri.jp/saijin/iyagongen.html




あたりを参考にすると、どうやら九鬼氏は「くずの神」を祀っていたらしく、どうやら「くずの神信仰」は


ダイダラボッチ


と関係があるらしい!さあ、ここからは



もののけ姫


の世界ですね(^^


 ・・・だんだんと脱線しそうなので、今日はこのへんで。
 

 





2014年12月7日日曜日

<話題>今日の軍師官兵衛ちゃん 兜(カブト)祭りじゃー!

 いよいよ最終回まであとちょっと!今年一年を楽しませてくれた「NHK大河ドラマ軍師官兵衛ちゃん」の第49回でございます。


 物語は関が原へ至るまでの両軍&九州のピリピリした様子を「じらしながら」ネットリと描く


 前夜祭


でした(^^


 今回の見所は、主に3つ!


【1】井上九郎衛門一生のカッコイイ男(おとこ)祭り!

  前回は岳ちゃんの見せ場でしたが、今回は高橋九郎衛門の泣けるエピソードです。

 これまたカッコよすぎで涙なしでは見られません。

 的場浩司演じる吉弘統幸との一戦は、胸に迫るものが!




【2】これぞ戦国ドラマ!あれやこれやのカブト祭り!

  なんでいままで隠していたのかというくらい「あれやこれや、百花繚乱の兜」が登場します。

  如水の「おわん」は元より、長政の「F1ウイング」も出るし、マニアがよろこぶ「サザエのツボ焼き」から、三成の「デカ(角)つの乱髪(らんぱつ)兜」、九郎衛門の「ネズミミ?ミッキー兜」、善助の「蛾の頭?ゲジ眉兜」など、みどころ満載です。

 (いずれも正式名称は知りませんので、ご興味のある方は調べてね)



【3】九州といえば!大友「抱き杏葉」祭り!

  いやいや、大河であの大友の名紋「大友杏葉」が見られるとは!

 さすがは鍋島信生が「あれ、ほちい!」と言った戦国のシャネル「茗荷丸」です。

  いろんな意味で、当家大塚家の家紋「抱き茗荷」のルーツにもなった「大いに関係のある家紋」ですので、九州大友氏子孫・家臣だけでなく、鍋島系佐賀人も必見の回になりました。


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 というわけで、本来なら来週最終回のはずでしたが、


現代の関が原こと、衆院選


のため一週間おあずけ!最終回も楽しみです!





2014年12月3日水曜日

<調査中> 福岡・大分にまたがる大塚さん 旧豊前国を中心にして

 九州地方に「大塚姓」がたくさん存在することはよく知られていますが、そのルーツはおなじ九州でも地域によってかなり系統が異なるように思います。


 当ブログでもこれまで九州地方の「大塚姓」についてかなり詳細な調査をしてきましたが、調べれば調べるほどその内容の多様さに驚かされます。


 特に私の出自である「福岡県」に存在する大塚氏については、「筑前」「筑後」「豊前」という旧国名での分布を検討する必要があります。それに、隣接する「肥前」や「豊後」についての流入がないかを調べることで、ずいぶんと明らかになってきたことが増えてきました。


 さて、今回は、おなじ福岡県でも深く切り込めていなかった「豊前」地域を概観したいと思います。


 現在放映中の大河ドラマ軍師官兵衛でもおなじみの通り、のちに福岡藩となる黒田氏は、はじめ豊前中津より九州時代をスタートさせます。

 そのため、福岡藩に属する大塚氏のルーツについて

①播磨由来の者

②もともと豊前にいた者

③どこかから豊前に来た者

など、多用な出自を想定しなくてはならない状況でした。


 たしかに、南北朝時代から戦国時代にかけて、もともと筑前「太宰府」を中心に活動した少弐子孫の大塚氏が存在していることから、彼らが北部九州一帯に分布していることは想定可能です。


 しかし、個人的には「なーんかひっかかる」という思いが強くあります。


 これまた、当ブログの読者であればご存知の通り、少弐氏は当初こそ筑前太宰府近くにいますが、どんどんと肥前佐賀方面へと拠点を移します。

 地図で言えば、左へ左へ本隊が移動している中、豊前と言う右側に「大塚氏」が残るというのが「ひっかかる」理由です。

 

 久留米藩の系譜から推測すると、「豊後日田」地方には財津氏・日田氏系統の大塚氏が存在していることがわかっており、そのことから類推しても


 豊前に別の系統の大塚氏がいたのではないか?


と見ることは不自然ではありません。


 というわけで、今日はこの仮説を元にしながらデータを読み解いてゆきましょう。


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■ 伊予宇都宮氏と大塚氏


 ご先祖探しデータベース さんのサイト
http://blog.livedoor.jp/popothan-3915/archives/1009166892.html


 に面白いことが載っていました。

 現在愛媛県の伊予国を治めた宇都宮氏は豊前宇都宮氏が伊予守護を任ぜられたことにはじまるという話です。

 そして、筑前国大木にいた宇都宮氏も、養子にいくことでこの流れを継承します。

 同サイトには家臣団の名前として


 大塚嵐之助
 大塚助兵衛
 大塚新兵衛

の名前が挙がっていますが、彼らがいつの年代の人物かは明示されていません。



 この大塚氏が豊前系なのか、筑前系なのか、まだこの段階ではよくわからないので一旦保留にしておきましょう。




■ 豊前小倉藩と大塚氏


 豊前小倉藩十五万石 さんのサイト
 http://kokurahan.seesaa.net/


にも興味深いデータがあります。


 明治4年の知行帳・切米帳からの名簿がアップされていますが、


大塚鶴之助(後に英治)   250石 中士

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大束庫太郎         17石銀2枚5人
              干城隊正衛半隊司令士
大束可右衛門(後に可平)  13石3人 准中士 下等
大束今右衛門(後に今衛)   6石金2歩3人 差紙方


の名前がありました。石高でもらっている大塚氏は「大塚」、切米でもらっているほうは「大束」を名乗っているようですので、本家筋・分家筋・家格ランクで苗字を変えている可能性が想像できます。


 ただ、この名簿は近代のものになるため、その出自についてはまったくもって不明と言わざる得ません。




■ 豊前大塚氏の古い記録


 これは以前当ブログで取り上げたものです。
http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2014/07/blog-post_2.html


 豊前宇佐八幡あるいはその周辺に1363年(室町時代)に大塚氏が存在した記録です。


 この記事を書いているときから、この大塚氏が「少弐系」なのかそうではないのか、ということはずっと引っかかっています。





■ 秋月氏から大塚氏になった者が!


 今回一番の発見はこれ!ちょっと興味深い記事を見つけました。


 かわけんブログ さんの記事から
http://blogs.yahoo.co.jp/kawasakikennkyuukai/12088381.html



 なんと!豊前と筑前の境である「木城」地区。この地域を治めていた秋月蔵人種正の子、大膳守政時が大塚姓を称したらしいのです。


 ネタ元は「豊前大鑑」だそうで、リンク元には引用文も載っています。


 秋月氏本体は秀吉に負けて日向に飛ばされますが、大塚氏の子孫は豊前のこの地で帰農して庄屋になっているとのこと。



 ちょっと大塚の出現時期としては「最近」過ぎるので、近隣の戦国大名に「この大塚氏のうちの誰か」が召抱えられることはあるでしょうが、どこまでメインストリームをぶっちぎれるかは微妙なところ。


 豊前大塚氏の中核にはなれなさそうです・・・。




■ 黒田官兵衛 中津にて兵を集める。


 最後もなかなかの大ネタです。


 ちょっと引用元が不明なので、アレですが、私が調べきれてないだけです。ちょうど前回の「軍師官兵衛」ちゃんの放送でやっていたとこですが、


慶長5年(1600)に黒田如水、中津にて浪人を集めまくる


ということをやってます。


 この時、豊前の地侍とか浪人とか素人みたいのとかを召抱えまくるのですが、


荒牧軍兵衛・小城源兵衛・大塚角太夫・樋口山城・中間喜兵衛


などのメンバーも参入します。

(原典未確認のため、確認次第引用元明記します)


となると、福岡藩士「大塚氏」に豊前メンバーがいた、ということが立証されそうです。



 












2014年11月30日日曜日

<話題>今日の軍師官兵衛ちゃん 今日の岳ちゃん、明日の岳ちゃん

 いよいよ残り数話となり、終了間際のNHK大河ドラマ軍師官兵衛ちゃんですが、むしろ「今から始まり?」のような盛り上がり方になっています。

 にっくき石田三成がついに挙兵、家康も動き出します。

 そんな中、大名の妻たちを人質として大阪城へ集める石田方に対して

 栗山善助に扮する「濱田岳ちゃん」

が、大活躍でみごと官兵衛と長政の妻を脱出させることに成功します。



 ふだんは童顔であんまり威厳のなさそうな岳ちゃんですが、今回ばかりは石田方の使者に対して


「てめえら、なめてんじゃねえぞこら!」

的なカッコよさを発揮して、一喝してしまいます。

 いやー、カッコいいなあ!このカッコ良さを脳裏に焼き付けておいてください。


 あした、おなじ岳ちゃんが家康に扮して「信長協奏曲」でどんだけ変態な台詞を言いまくるか!その対比を楽しむ回なんですから!(笑)


 井上九郎衛門の高橋一生くんの場合は、信長協奏曲でも落ち着いた好青年=浅井長政を演じていますのであんまりギャップはないのですが、岳ちゃんは最高!です。



(ちなみに、前回は「おなごのうなじ、おなごの胸、・・・おなごのことしか考えてない」とアホなことしか言ってなかった濱田家康でした(苦笑))



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 さて、今回のNHK大河の見解では、官兵衛ちゃんは家康にも三成にも、最初それっぽい・どっちつかずなことを言いながら、実は勝手に


天下を狙ってる


説で行くようです。


 官兵衛ちゃんと、栗山・井上・母里トリオの密談では、


「で、その時がきたら(家康に付いている)長政はどうするの?」


的な話もやっぱり出るのですが、官兵衛ちゃんは


「わしは、長政を信じている」


と答えます。


 ・・・個人的には、このへんは奥深いものがありそうで、にやにやしてしまうところ。

 真実はきっと官兵衛ちゃんの胸の中だけにあるのでしょう。




 ついでに来週はいよいよ


 おわんをかぶった官兵衛ちゃん


が見られそうです。最後の方までひっぱるなあ!


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 さて、今回のちょびっとキーマンである『大友義統』さん。そう、上條恒彦=宗麟パパの息子です。ちょっと、前に話を戻しますが、大友氏は、秀吉が九州平定する直前に島津に追い込まれており、ほとんど瀕死状態でした。

 ところが、秀吉のおかげで「豊後と豊前の一部」を所領にもらいます。


 ところが、朝鮮出兵の折、小西行長が戦死したと勘違いして応援に行かず、そのことが原因で秀吉の怒りを買ってほぼクビ状態になります。

 他家に居候状態で幽閉されてしまった大友氏ですが、秀吉の死で何とか許され、今回の話のように


「てめえら、黒田に勝ったら大友所領復活させたるわ!」


と三成に焚き付けられる、という展開に。


 構図は簡単です。九州北部の血統書つきサラブレッドこと「大友氏」は少弐氏とともに九州を治めてきた歴史と自負があります。

 それが、戦国時代を経ての天下統一で、「黒田氏」などのよそ者に所領を奪われた形になり、恨んでいるわけです。


 播磨から九州にやってきた「黒田氏」、そして、おなじく丹後から九州に飛び地があった「細川氏」(もともとは光秀の親類・細川ガラシャさんのあの細川) 連合軍VSもとジモティの大友軍というのが、わかりやすい対立構造です。


 結果は、現代に続く通りで、福岡に「黒田藩」、熊本に「細川藩」が出来上がる、というのはこのときの名残ですね。


 細川護煕が、のちに総理大臣になるのも、こんな歴史があったわけです。














2014年11月27日木曜日

<98>その時、歴史が動いた! ~ 三潴大塚氏確認編 ~

 最近は、NHK大河ドラマ軍師官兵衛ちゃんのネタばかり書いているので


 そもそもこのブログが何のブログか忘れてしまっている


人も多いことだろうと思う。


 そう、このブログは「全国の大塚さんのルーツを探る」ための研究成果を書き連ねているものである。

 しかし、おっそろしいことに、既に「大塚さんネタ」よりも、官兵衛ちゃんネタのほうがアクセスが多い状況になっているため、たまーに「大塚さん情報」を新たに載っけてもほとんどスルーされているような気がする(^^;;



 というわけで、もう一度声を大にして言っておこう。


 このブログは、三潴地方に存在する「大塚」という苗字のルーツを探りつつ、かつ全国の「大塚」姓の由来をも(ついでに)調べようというスペクタクルな大河ブログ


なのである!


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 というわけで、三潴地方に存在する当家大塚氏の状況について、おおまかなことは既に明らかになっているが、より詳しい部分でハッキリ証明できていない点もいくつかある。


 久しぶりなのでまとめよう。



 ① うちのご先祖さまは、どうやら少弐氏から分れ出た「大塚」氏らしい。


 ② 少弐氏から分かれた大塚氏について、判明しているものは3系統ある。ひとつは、『歴代鎮西志』に記載のもの、ひとつは佐賀の『大塚系譜』(大塚四郎家)に記載のもの、そして『肥前旧事続編料』記載の「本庄神社と千布氏」経由のもの。


 ③ 天正時代にうちの村に龍造寺氏の家臣である「隠岐」なる人物がやってきたことが江戸時代の記録に残っていること。


 ④ この「隠岐」が『北肥戦誌』『歴代鎮西志』に記述のある「大塚隠岐(守)」ではないかと仮定すること。


 ⑤ 大塚隠岐の実在年代と、天正期は合致すること。


 ⑥ 大塚隠岐は、のちに龍造寺氏の家臣となる「神代長良」の側近であること。


 ⑦ 神代長良の奥さんは千布氏の家系なので、大塚隠岐は本庄神社系の大塚姓の可能性もあること。


 ⑧ 天正4年に神代長良の家臣として「小副川隠岐守」が存在していることから、天正4年前後に大塚隠岐は引退したか、神代側近を離れた可能性があること。


 ⑨ 隠岐がわが家の地域にやってくることができる年代は、おそらく天正5年~天正15年の10年間にきわめて近い期間だけであろうこと。


 ⑩ 天正8年の龍造寺支配地域一覧では、三潴を含む筑後地域が龍造寺の支配下におかれていること。(これも上記推測に合致する)


 ⑪ 隠岐は小さな構居を持っており「隠岐屋敷」と呼ばれたらしいこと。現在でも該当地域に「沖屋敷」という名前(旧小字)が残っているらしいが、現時点での正確な位置がわからないこと。


 ⑫ 以上のことから、隠岐は龍造寺の筑後支配における現地駐留部隊であろうと推測でき、龍造氏ならびにその後を継いだ鍋島氏が佐賀に戻ったおりに、本隊についてゆかず、合流できず筑後に残り、最終的に帰農したらしいこと。



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 さあ、ここで「その時歴史が動いた!」である。


 天正4年か5年か、あるいはそこらへんのどこかで三潴にやってきた、元々佐賀出身の大塚さん(ご先祖)は、どうして佐賀へ帰らなかったのか?


 あるいは帰れなかったのか?


 いったい、何がその時あったというのか!

 
 それを解く鍵が、あの男なのである。そう、残り放送回数もわずかとなった、


 軍師岡田官兵衛


である!!!ババーン。


 ここから、ちょうどそのあたりに三潴で何があったのかを一挙タイムマシンでお届けする。

 年表形式になっているので、公的な記録だけを見てゆこう。




文亀年間(1501~)蒲池治久により柳川築城

天正6年(1578) 龍造寺隆信 肥前統一。

天正8年(1580) 龍造寺隆信 筑後を支配下に。

天正9年(1581) 蒲池鎮漣滅ぶ。

天正9年(1581) 鍋島直茂 柳川入城

天正12年(1584)龍造寺隆信討たれる。

天正12年(1584)鍋島直茂 佐賀城へ移る。

天正12年(1584)龍造寺家晴 柳川入城

天正14年(1586)秀吉による九州征伐開始。

天正14年(1587) 島津軍 久留米高良山に本陣置く。

天正15年(1587)秀吉 高良山奪還 肥後まで進軍。

天正15年(1587)九州平定。龍造寺氏の筑後領没収。

天正15年(1587)龍造寺氏 肥前安堵。同年鍋島委譲

天正15年(1587)毛利秀包 久留米城築城

天正15年(1587)立花宗茂 柳川入城

慶長5年(1600) 八院合戦 鍋島が立花を下す。

慶長5年(1600) 毛利秀包 関が原西軍に付改易

慶長5年(1600) 立花宗茂 関が原西軍に付改易除封

慶長5年(1600) 田中吉政 柳川入城

元和6年(1620) 田中忠政 無嫡により改易

元和6年(1620) 立花宗茂 柳川入城(分割統治)
           有馬豊氏 久留米入城(分割統治)



 三潴といっても、近世カテゴリでは久留米エリアと柳川エリアがあるので、そこらへんを両方見ながらまとめてみた。


 くまモン龍造寺隆信が、公式に筑後を支配下においたことがわかっているのは天正8年だが、これは8年にそうなったのではなく、8年は「そうだった」ことが資料からわかっているということである。

 だから「隠岐」は天正8年にはすでに三潴当地にいたか、あるいはこの前後で「やってきた」と考えられる。おまえは、三潴のあそこを守っとけ、と言われ構居を構えたというわけだ。

 また、天正9年に滅ぼした蒲池氏の代わりに鍋島直茂が柳川城に入るので「これについてきた」可能性もある。

 しかし、天正12年くまモンは討たれるので、龍造寺氏はガタガタになる。ただ、可能性として龍造寺氏家晴についてきて隠岐は三潴に入った説も無理ではない。

 

 しかし、天正14年には、官兵衛ちゃん率いる秀吉軍が九州平定にやってくるわけで、それも天正15年には平定完了、龍造寺&鍋島は早いうちから秀吉に通じていたので命だけは助かっている。

 だが、天正15年の采配で、龍造寺は筑後領を失うわけで、これ以降隠岐は筑後に入れなくなってしまうのだ。


 だから、隠岐が当地へやってきたと推定できるのは、天正4か5年~天正15年の約10年間しかない、ということになるのである。


 そして、天正15年時点で久留米には毛利、柳川には立花がやってくる。ここで、しばらく状況は固定化されるわけである。


 つまり、うちの先祖はここで、三潴の地で身動きが取れずにいることになる。


 そして、迎えた九州の関が原戦。(まあ、官兵衛ちゃんが好き放題やる、これから放送されるトコだが)うちの先祖は、ここで何をどうしていたのか全くわからない。

 

 感触では、まず、「佐賀には帰っていなさそう」である。佐賀に帰っていたら、今の私は福岡籍になっていないじゃないか。


 武士だったとして、八院合戦でどちらについたかは、なんとなくわかる。恐らく鍋島側であろう。だって古巣なんだから。


 しかし、実際鍋島兵として参戦した可能性は低いように感じる。龍造寺が筑後を失い、現地駐留部隊が取り残されて、13年も経っているのだ。


 旧佐賀勢に柳川の様子を伝えるくらいはしたかもしれないが、現役の戦闘集団だったとはとても思えない。すでに、隠岐は三潴へ来た時点で半分隠居状態みたいな年齢だったはずだ。


 つまり、この時期すでに大塚隠岐とその子は半士半農に近い状態だったと推測できる。


 ここから先は、家康さまのなすがままである。田中藩政を経て有馬藩政。よくてせいぜい庄屋のような形で、小さな構居と「小さな領地」を守っていったに違いない。


 その領地も、今となってはほとんど残っていない(笑)


 残っているのは何か、そう少なくとも遥か昔から受け継がれているのは



大塚



の苗字だけである。 


 その大塚の苗字が、いったいいつから続いているのかを計算してみたのが以下の3パターンである。



<延元元年(1336)説>

 歴代鎮西志より、大塚氏祖「少弐(大塚)貞衡」の生きた年代を推定する。1366年は彼の父「少弐貞経」の死んだ年なので、その時には少弐貞衡は存在したと仮定した。

この説だと678年続いている苗字ということになる。




<嘉吉元年(1441)説>

 大塚系譜より、佐賀の大塚四郎さん所有の系譜によると、この年に大塚氏祖「少弐(大塚)俊氏」が三養基郡に移り「大塚」を名乗ったという。

この説だと573年続いている苗字ということに。



<永正9年(1512)説>

 肥前旧事続編料によれば、この年に「大塚新右衛門藤原重家」が本庄神社の祈願を宮司別当として担当したことがわかる。

 これ以前から大塚氏は存在していたようだが、いちおう確定年として計算してみよう。


この説だと502年続いている苗字ということに。




2014年11月23日日曜日

<話題>今日の軍師官兵衛ちゃん いやらしい男、黒田官兵衛

 毎度おなじみ、今日の軍師官兵衛ちゃんの時間がやってまいりました。


 いきなりですが


 参りました!!!


 完全降参でございます。


 基本的にすばらしい脚本で楽しませてくださっていた今回の大河ドラマですが、今日の脚本も


 キレッキレ!


でぶっとびました。


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 まず、ここのところというか、ドラマの半分以上「笑顔の無かった、苦虫を噛み潰したような顔」をしていた岡田官兵衛ちゃんですが、なんと今回は


ニヤニヤと不敵な笑みを浮かべまくり


です。ここまで、清廉潔白な黒田像を演じているかに見せかけて、終盤ラスト直前の今になって


「本気モード」


いやらしい笑みを浮かべる岡田官兵衛。


 ああ!なんていやらしい(性的な意味じゃなくて)顔なんだ!なんていやらしい(性的な意味じゃなくて)ことを考えてるんだ!


 信長・秀吉・家康といった個人のレベルではなく、「天下のレベル」で物事を見ていたからこそにじみ出る「不敵な笑み」!

 この笑顔を見せるために、ここんとこずっとクスリともさせなかったのか!と思うと


NHK大河に完敗でございますm(_ _)m  ははーっ。


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 というわけで、完全にしてやられた大塚某はさておき、今日の見所を挙げておきましょう。


① ついにキターッ!!!! おわん!おわん!お・わ・ん!

  きましたよ!いよいよおわん登場です。これまであれだけ引っ張って置きながら、さりげなく床の間に登場させているお椀。=赤漆塗合子形兜です。

  最後まで出てこないかと見せかけてのここでの登場。待ちくたびれました。

  ついでに来週の予告を見ると、長政が「一の谷形兜」をつけているシーンが映っています。こちらもちょっと楽しみ。

 F1レーシングカーのウイングみたいな、騎馬にまたがり疾走すると風圧で飛べそうな名兜です。



② 言うじゃ~ないの~、それ言っちゃダメよ~、ダメダメ。

  久々登場の我らがラスプーチン、安国寺 恵瓊どのがあろうことか

 「秀吉を天下人にしたのは、ワシと官兵衛ちゃんのおかげだもんね」

なんてことを吹聴します! いやいや、官兵衛が言うならまだしも、恵瓊どのがそんなこと言ったら、


ぶふっ!!!

と飲みかけのお茶を吹きそうになりますよ。


 まあ、 安国寺 恵瓊ファンのみなさんへのサービスシーンですね。



 ③ 長政は、きっと最後まで官兵衛ちゃんのことを理解してなかったのね。

  官兵衛と長政が、「これから黒田家はどうすべきか」と二人で話すシーン。実にいい脚本、実にいい演出です。

 どこがいいかといえば、官兵衛ちゃんが長政に「お前は誰につくねん」と尋ねるシーンで、岡田くんが実にいい表情で尋ね・そして受けるんですね。

 長政は、案の上筋肉バカですから「父上が秀吉さまを天下人にしたように、家康さまについて天下を取ってもらいます」的な、回答を抜かしてけつかるわけです。


 しかし、そこでの官兵衛の本心、心の声は、映像で感じてください。


 ここでの官兵衛の気持ちは、


「やっぱり、長政はあかんなあ~。なんでここで『父上についてゆきます!父上こそ天下を取るにふさわしい』と言えへんねん」


というものです。これを一切台詞に出さず、顔芸だけで表現するのが岡田くんのすばらしいところだと思います。

 だから、その瞬間、「まあ長政やからしゃーないな」という顔をして、笑って了解するわけです。黒田本家の選択としてはそれでいいか、と。でも、俺は好きにするからな、と。



 このシーン。おそらく「そのときお前の左手は何をしとったんじゃー!ぼけー!」の壮大な前フリになっていると思います。


 そういう意味で、今回の大河の脚本家は、マジですごい!すごすぎる。伏線の張り方や、表現のさせ方が、いやらしくなく、かつカッコイイ!


 歴史の上でも、もしあの日あの時長政が、「お前はどうする?」と聞かれて、「父上についてゆきます」と答えていたら、本当に天下が変わっていたかもしれない、そんな気持ちになるすばらしい回でした。



☆スポニチアネックスさんに、そんなラスト4話に込める岡田くんの意気込みが載ってました。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20141123-00000089-spnannex-ent

ぜひご覧アレ!



<話題>隠れキリシタンの里に行ってきました。

 黒田官兵衛ちゃん直前スペシャル、と題しましてさっきまで

 高山右近領

をうろちょろしておりました、大塚某でございます。

 いったい何がしたかったかと言うと、官兵衛ちゃんと高山右近領といえばアレですよアレ!


 隠れキリシタンの遺物を探る旅


に他なりません。そうです、茨木市立キリシタン遺物資料館へ行ってきたのです。


 茨城市といっても、市街地ではありません。かなりの山奥で、段々畑がつらなる険しい集落に、高山右近以来のキリシタンが信仰を隠しながら生きてきたという戦国の里でございます。


 この地に「隠れキリシタン」が存在したことが明らかになったのは大正時代のこと。家々の屋根裏などに隠されていた「秘物」や、十字架の刻まれた墓碑などが当地で見つかっているそうです。


ウィキペディアより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8C%A8%E6%9C%A8%E5%B8%82%E7%AB%8B%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%82%BF%E3%83%B3%E9%81%BA%E7%89%A9%E5%8F%B2%E6%96%99%E9%A4%A8



 そして、日本史上最も有名なキリシタン遺物といえば

↓↓↓ コレ!!!

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/db/Franciscus_de_Xabier.jpg
 

 そう、フランシスコ・ザビエルの肖像画です!

 いいですか?みなさん、ここでもう一度確認です。


 ザビエルは、首にひだひだのふわふわしたヤツをつけていません!!!!


 ↑ここ、試験に出ます。

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 このザビエルの絵、なんと茨木の資料館の隣の家の屋根裏から見つかったそうで、このおなじ集落からは、その他さまざまなキリシタン関係の「秘宝」がたくさん発見されています。


 しかし!撮影禁止

でしたので、 ブログにアップできません。どんな興味深いものが収められているのかは、ぜひ皆様の目でご覧になってくださいね!!


 私の個人的興味をひいたのは、「腕が外せるようになっている、十字架に架けられたキリスト像」です。一緒に、茶筒のちっちゃいやつみたいなのが添えられていて、分割して隠せるようになっているのです。


 現代のガチャガチャの中に、分割されたフィギュアが入っていて、組み立てると大きくなるみたいな仕組みと一緒です。



 そして、さらに個人的に盛り上がったのは、「キリシタン遺物の報告書」を当時京都帝国大学のあの人が調査して書いているのですが、


 なんとその人が。


新村出


さんでございますよ!あなた!

 え?誰か知らんって??


 アホーッ!広辞苑を書いた人やーーっ!

(ただしくは第二版までの編集の中心人物)

 新村さん直筆の書類も展示してありますよ。


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 学術的興味で言えば、墓碑や遺物の多くが「慶長」年号のものが目立つのですが、慶長19年に加賀にいた高山右近は、追放令によりマニラに飛ばされます。

 おそらく、茨木の人たちが、信教を隠さなくてはならなくなったのも、この時期と合致することでしょう。

 慶長時代から、ある意味「時が止まった」かのようなこの地のみなさんが、以来どんな気持ちで江戸時代を過ごしてきたかを想うと、胸が苦しくなります。


 このブログでは、戦国時代の終わりから時が止まった事例をたくさん見てきましたが、平和になるということは動乱の終焉とともに、変化の終わりを示すのだなあ、と感じます。

江戸時代というのは、一種のタイプカプセルだったのかもしれません。


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 なんと今日!偶然にもザビエルの遺体がインドで公開されているそうです。

http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/ann?a=20141123-00000012-ann-int


 来年1月までインドで公開中だそうなので、ぜひどうぞ。







2014年11月19日水曜日

<97・特別編>播磨黒田氏を解析する ~ 地縁血縁解析法で見る黒田官兵衛の一族 ~

 当ブログの<96・特別編>で話題に取り上げたのは、今をときめくNHK大河ドラマの主人公「黒田官兵衛」が播磨国黒田庄にルーツがあるのではないか説であった。



 前回はこちら
 http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2014/11/blog-post_15.html



 福岡藩の公式歴史書である「黒田家譜」で「近江出身」とされている黒田氏が、いったいどうして「播磨出身」となるのかについては、既に先人のいろいろな考察があるので、それはそちらに任せようと思う。


 しかしながら、独自の家系研究法で一世を風靡していない大塚某のことなので、ここは独自調査をしなくてはなるまい、とさっそく


 黒田氏と黒田庄の関係


について分析を試みることにした。


 大塚某が駆使する「地縁血縁解析法」は、基本的に「現在の苗字分布」と「過去の歴史上存在した苗字」との関係を分析するものである。


 これまで、当ブログで実際にやってみせた実例として


「大塚重太夫」の住んでいた地区に現在でも大塚さんがやたら住んでいる


とか


「大塚将監(後藤将監)」の住んでいた地区に現在でも大塚さんと後藤さんの末裔が住んでいる


という事実等をお知らせしてきている。


 これ以外にも、概ね戦国前後の「砦・館・城・構居」などがある地域には、その城主の子孫と思われる苗字が実際に残っているのが大半である。



 ところが、である。


 この公式で言えば、播磨黒田庄と黒田氏の関係は、分析してみるとエラーとなるのだ。


 簡単に言えば、黒田庄地域には「黒田さん」が住んでいないのである。全くもって1人も!


 別に、黒田さんが住んでいるからといって「彼らが黒田官兵衛の一族の末裔」だなんて断定的なもの言いはするつもりもない。


 いやいや、土地名の「黒田」を取って明治新姓で「黒田」姓を名乗った家があってもよいのだから、もうちょっと普遍的な意味で


黒田さんがいてもおかしくない


ではないか。


 しかし、現実に黒田庄近辺に現存する黒田さんはいない。だとすれば考えられる事実は、いったいどういうことなのだろうか。


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 2001年版ゼンリン住宅地図により、黒田地域周辺をくまなく調査した結果、この地域に黒田さんは現存しない、ということがまず事実である。


 該当地域の姓としては、軽く伏せておくが「F原さん」「M脇さん」「O西さん」「OK戸」さんなどがある一定数の分布で見ることができる。


 
 ちなみに、荘厳寺本黒田系図の奉納者は「K岡嘉作孔美」なる人物で、K岡氏は、この地にあった比延城主の子孫であり、比延氏はそもそも赤松氏の末流で比延氏-黒田氏の間では婚姻関係が継続していたため、K岡氏が黒田氏の系図を持っていた、ということになっている。


 そこで、1989年版ゼンリン住宅地図により、現在西脇市になっている比延町周辺を調査したところ、こちらには「K岡さん」が多数存在していることが判明したのである。


 比延城下には、子孫K岡氏が多数存在している。これも合わせて覚えておきたい事実である。



 こうしてみると、比延城下のK岡氏についてはエラーとならず、黒田城下の黒田氏についてエラーとなるわけだが、考えてみれば、比延城に「比延さん」は現存しないのだから、仮説を立てることができそうである。



<仮説1>

 黒田庄の黒田子孫は苗字を変えているのではないか?


赤松→(本郷)→比延→K岡

という苗字の変更のように、戦国期「黒田」であった一族が、現在別の名前になっている可能性は、ないわけではない。


 しかし、そもそも福岡藩黒田氏の出身が黒田庄であることすら、近年ようやく発見された情報なのであるから、


「うちは昔黒田でした」


という近隣の別の苗字の方がいらっしゃるかどうかは、よほどのことがないと発見されない、と思われる。




<仮説2>

 黒田城は、荘厳寺本によれば官兵衛の兄の時点で滅亡したことになっている。だとすれば、現地の黒田氏は、本当に絶えてしまったのでは?

(あるいは、筑前系黒田氏へ合流したのでは?)


 地縁血縁解析法から見れば、実はそういうことは少なく、なんらかの形で該当の苗字の痕跡があることが多い。しかし、他の苗字において、滅亡もしくは移動という事例がないわけではないので、この仮説も捨ててしまうわけにはいかない。




<仮説3>

 その他のミステリー(特別な事情)があるのではないか?



 さあ、ここからは空想の物語である。黒田庄黒田氏が姿を消してしまった理由の3番目として、ちょっと気になる事実がこの地にあることを紹介しておきたい。


 
 実は黒田地域には、隠れキリシタンのものと思われる「十字架が描かれた地蔵」が現存する。こうしたキリシタンの遺物は、おなじ播磨地方では加西市などでは多数みられるのだが、黒田地域で1体だけ残っているキリシタン地蔵は、この地に「隠れキリシタン」が存在した証ということになる。


 キリシタン大名、黒田官兵衛=出身地黒田に残るキリシタン地蔵、この奇妙な点と線は、単なる播磨に残るキリシタンの遺跡というだけで説明してよいものであろうか?


 あるいは、当地に黒田姓が現存しない理由に、「黒田系庶子に伝達された、キリシタン信仰の弾圧」と何か関係あるのではないか、と考えるのはけして荒唐無稽なものではないと思うのだがいかがだろうか。



 ちなみに、みんなが知っているあの


ザビエルの絵


は、大阪府茨木市の隠れキリシタンが持っていた開かずの箱の中から、大正9年(1919年)に見つかったのだが、キリシタン末裔の民家の屋根裏にくくりつけてあったものだという。



ウィキペディアより 茨木市立キリシタン遺物史料館
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8C%A8%E6%9C%A8%E5%B8%82%E7%AB%8B%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%82%BF%E3%83%B3%E9%81%BA%E7%89%A9%E5%8F%B2%E6%96%99%E9%A4%A8



 大正9年!戦国時代からみれば、つい最近のことである。それくらい、戦国キリシタンの実像は、未だに明らかになっていないことが多いのだ!



 というわけで、謎が謎を呼ぶ黒田官兵衛ちゃんの秘められた裏歴史。




 播磨の黒田氏子孫の方がいたら、ぜひご連絡いただきたい!!!










2014年11月17日月曜日

<話題>信長協奏曲は「そうきたか!」のオンパレード

フィクションとしては、大変によくできている「小栗信長協奏曲」今回は、ゲストがあの方だったので画面に釘付けになってしまいました。

 そう、前回の「次回予告」で顔面が先走っていた


 古田新太

さまです。


 以前にも紹介しましたが、小栗旬さまと古田新太さまは、劇団☆新感線「髑髏城の七人」の玉ころがしの捨之介(実は天魔王こと織田信長)繋がりです。


 というわけで、松永弾正久秀役で登場の古田氏!なかなかのハマリ役でした。出てくるだけで笑いが取れるマジな俳優さんというのも、古田新太か槍魔栗三助どっちかしかいないと言っても過言ではないというwww

(注 やりまくりさんすけ=現在、生瀬勝久)


  はい、ここで関西学生系劇団のおさらいコーナー。

古田新太と羽野晶紀(和泉もとやの奥さん)・筧利夫・渡辺いっけいが「劇団☆新感線」

生瀬勝久・辰巳琢郎が「劇団そとばこまち」


立原啓祐と(亡くなった)牧野エミが「劇団売名行為」です。


・・・だからなんなんだ、というお話ですが、ドラマ等での脇をしっかり固める方はみな劇団系なんですね~、ということがよくわかります。


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 さて、この松永弾正。これからちょくちょく登場すると思いますが、最後は信長と対立して信貴山で自害します。

 その時の死に方が、なんと


 日本史上初となる爆死!


だったそうで。 古田新太さんの爆死シーンが見れるかも、とちょっとドキワクですね!

 フロイス日本史によれば、


松永軍はクリスマスパーティをやってた


らしいので、こっちもほんまかいな!?れっつパーリーナーイト!


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 さて、今回もっとも愛らしい「お市の方」(浅井長政の妻・信長妹)ですが、復習です。

 はい、大河ではエゲつない秀吉の側室をやっておられる「チャチャ」さまのお母さんですね。

 
お市の方の娘が、有名な浅井三姉妹で、「茶々・初・江」でございます。 そういえば、今回の大河では「江」がほとんど無視状態ですね。おなじ大河でやったのに。


ちなみに、江の娘が九条家に嫁ぎ、そこから10代くらいの子孫が昭和天皇のお母様に当たるので、織田家の血筋は現在天皇家に繋がっております。

 まさしく、天下ですな~。


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 さて、史実はともかく、たくみに事実とフィクションを織り交ぜながら展開する「信長協奏曲」どこまでやってくれるのか楽しみですね。








2014年11月16日日曜日

<話題>今日の軍士官兵衛ちゃん 渡る天下は鬼ばかり

 毎度おなじみ「軍師官兵衛ちゃん」のお時間です。

 秀吉が亡くなり、だらだらと毎日が過ぎるのかと思いきや、


 んなこたあない!!!


 あっちこっちで、これまでの鬱憤や遺恨が渦巻き、えらいことになりそうな予感です。

.

 今日のみどころは主に3本。


①だんだん家康に引き込まれてゆくダンゴ三兄弟

  北の政所に育てられた人質三兄弟こと、黒田長政・加藤清正・あとひとり誰だっけ?が、どんどんと家康に凋落されてゆく様子の今回。

 同時に、石田三成側のメンバーとそうでないものがはっきりしてゆくプロセスでもあります。

 ああ、そうそう三人目は福島正則くん。


 黒田氏は筑前福岡藩、加藤氏は熊本藩せいしょこさん、福島氏は安芸広島を治めることになり、実は九州と旧毛利領に駐屯し、江戸期を支える三家ということになるわけで。いわば家康にとっての西の押さえですね。



②うつ病の「いと」ちゃん。長政離婚の危機

 まだ今回は「さわり」くらいで収めていますが、史実でいえば長政と蜂須賀の娘「いと」は離婚します。

 そこへ家康が新しい正室として送り込むのが、今回登場の「栄姫」。ドラマでは唐突に登場する娘さんですが、来週あたり長政と結婚させられることになるでしょう。



 ③岡田官兵衛、なにげに天下取りを明言!?

  今回のNHK大河演出では、「俺は勝手にするぜベイベ」と天下取りをほぼ明言した官兵衛ちゃん。

 三成は嫌いだけど、家康なんかにゃ騙されないぜ、というわけで、いよいよ策士官兵衛「俺はまだ本気出してないだけ」と何かを始める予感!



 具体的に何をするのかと言えば、ヒントは「舞台は九州」とだけ言っておきましょう。おそらくなんらかの形で我が祖先三潴大塚氏もそれに巻き込まれているような、いないような・・・。


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 さて、今日のプチポイント。


 ひさしぶりに後藤又兵衛ちゃんが画面によく映ります。もちろんこれは前フリ。長政とケンカして盗んだバイクで走り出す15の夜が近づいている証拠です。


  そして、来週のあらすじも見逃さないで!懐かしいあの人が写っています。そう!


安国寺 恵瓊


がまだ生きてたのか!状態(笑)


全国の恵瓊ファンが泣いて喜ぶ再登場、まて次回!



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 というわけで、ここから先は妄想のコーナー。

 どうも真面目に描けば描くほど、「黒田官兵衛」という男と、「黒田長政」という男は、いまいち親子ながらかみ合いません。

 後藤又兵衛がケンカして飛び出すのもそうだし、もっと秘められたネタですが、「あのお椀逆さま兜」は、長政ではなく、栗山善助にあげちゃうんです。

 黒田武士日本号がもこみちのものであるとか、全てのエピソードが、長政中心ではなく、官兵衛中心に回っています。


 黒田二十四騎は公式には「黒田長政の家臣」になっていますが、そのメンバー・年齢・血縁などを見てゆくと、ほとんどが実は「黒田官兵衛の家臣」が、家督を継いだ長政にしたがっている形になっているだけです。


ウィキペディアより 黒田二十四騎
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E7%94%B0%E4%BA%8C%E5%8D%81%E5%9B%9B%E9%A8%8E


 一体何がいいたいのか。そう、長政と官兵衛の性格や言動があまりに異なり、秀吉家臣の頃からそれぞれ勝手に動いていることを妄想すると、


(ここから推理小説)

黒田長政は、官兵衛の実子ではない

という新説はどうでしょう?!


 そう、あのとき本当の松寿丸は殺されており、官兵衛は養子で黒田家を守ることになった!というのは面白そうでしょ?

 ついでに推理小説ついでに、あの子は本当は「半兵衛ちゃん」の子だった、的な!!!


 そこまで官兵衛はわかっていて、なぜ戦国の世を儚むことなく、生き切ったのか。それは、


キリストの1000年王国


を作りたかったから!ババーン。


 ・・・・いやはや、ちょっと口が滑りすぎましたな。




<話題>織田家18代当主のインタビュー

 週刊朝日さんに、現代の織田家18代目当主さんのインタビューが掲載されているので、とても興味深いお話。


 Yahoo!ニュースさんより
 http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20141116-00000001-sasahi-peo


 タイトルは

”織田家第18代当主 織田家の400年の伝統を破り、息子の名に「信」をつけず”


ということなのですが、その後の織田家の様子をうかがい知ることができる興味深い内容になっています。



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 まず 、京都市北区船岡山の建勲神社に祀られている信長のお話。

 それから福井県織田町にある剣神社が「織田家のルーツではないか?」というお話も面白い!

 織田家18代当主という、世間からみたら立派なルーツを持つ方であっても、「その先はいったいどうなっているんだろう?」と思いながら先祖探しの旅に出る、結婚式をそこで挙げるという話が考えさせられます。

 どんな家であっても、どんな子孫であっても「ご先祖様はどこから来たのか」という思いは誰にでも共通なのだな~、というところが深いです。 


 そして、子どもには「信」の通字をつけなかった、というところも興味深いです。

 織田さんがおっしゃっているとおり、「すごかったのは信長であって、家柄や血筋で判断されるのは悲しい」という部分は共感します。

 

 逆の言い方をすれば、私はいつも思うのですが、今生きている全ての人は「すべての乱世を生き延びて来た人たちの子孫」なわけですから、 その事実はとてもすごいことだと思います。


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インタビューを受けておられた柏原(かいばら)藩織田家廟所は、うちの会社で補修に参加したことがあったと思いますが、そのころはワタクシまだ歴史に興味が薄かったのであまり覚えておりません(苦笑)

 昔の上司が「えー?修理行ったやん」と言ってますが、あまり記憶がない(笑)もしかしたら、私がいまの部署に来る前の話しなのかも。

  廟所そのものは、何度も行ったことがあります。ぶっちゃけかなり古く痛んでしまっているので、「これが織田家の墓所か!」とちょっと拍子抜けしてしまうかも。

 まあ、織田柏原藩はお城すら作らせてもらえず、藩邸だけだったので、時代はすでに家康のものになってしまった、というわけですね。

 

 


2014年11月15日土曜日

<96・特別編>現代まで続く赤松一族の末裔 播磨赤松氏 某墓所へ

 先日からの特別編で、黒田官兵衛ちゃんが「実は赤松氏の末流ではないか」説についてざっくりと解説したところだが、初心者さんでもよくわかる


 官兵衛 黒田庄生誕説(現西脇市)


の解説本があるのでご紹介しておこう。


 西脇市HPより


 官兵衛の里・西脇市 リーフレット
 http://www.city.nishiwaki.lg.jp/ikkrwebBrowse/material/files/group/5/kurokan-syuchou.pdf


この冊子を読めば、貝原益軒の説く「近江系黒田氏」説に対して、いかに「播磨(黒田庄)黒田氏」説があながち大ハズレでもなさそうな理由がわかるというものである。


 ぜひ、興味本位で読んでみてほしい。ハマること請け合いである。



 ちなみに、西脇市黒田庄というのは、ついこの間まで「黒田庄町」というひとつの自治体であったが、平成の大合併で西脇市といっしょになってしまった。


 ガッツだぜ!でおなじみウルフルズのトータス松本氏の出身地、それが黒田庄町である。


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 そんな黒田庄&西脇市も今回の大河ドラマのせいで「官兵衛黒田庄出身説」を広めるのに気合が入っているのだが、


 家系分析官である大塚某


から見たら、ひとつだけおかしな点があることも合わせて説明しておこう。


 これまで、私の提唱する『地縁血縁解析法』によって、黒田庄と官兵衛の一族を分析にかけてみたのだが、なんと恐ろしいことに


エラー


がはじき出されてきたのである!!!なななんと。


 どういうことか。こういうことだ。


 戦国時代に某国某所に所領を持っていた一族は、現代においてもその家系において何がしかの痕跡を残しているものである。それが、「地縁血縁解析法」のベースの試料になるのだが、黒田庄においてはちょっと様子が異なるわけだ。



 どういうことか。例を挙げてみれば、赤松系図に載っていた「大塚重太夫」が住んでいたとされる地域には、現代でも大塚さんたちが居住しており、赤松幕下だった「大塚将監」が住んでいた地域には、現代でもたくさんの大塚さんたちが住んでいるわけだ。


 つまり、某国某所に所領を持っていた一族の末裔は、何らかの形で現在まで続いている、というのが可能性としてかなり高いのだが、黒田庄にはなんと


1990年ごろ~2000年代のいずれの時代でも黒田さんが1人も住んでいない


のである。これは、「地縁血縁解析」から見れば、ちょっとおかしいのである。


 もちろん、もっと早い時代に廃れてしまったとも考えられるが、黒田ほども名族が庶流・末流をふくめてその地にいないのは完全におかしい。


 つまり、ここには何か、秘められた理由があるに違いないのである!!!


 その秘められた謎とは何か。それは今後の当ブログにて解説をするので、当ブログファンのあなたは首を長くして待っていてほしい。


(つづく)


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 というわけで、本来であれば黒田氏ゆかりの黒田庄に遊びに行きたかったのだが、ちょっと日が暮れてきたので今回はパス。


 そう、先に行ったのは播磨某所にあるという「赤松氏の末裔が祀られた墓所」であった。


 今回の記事の後半は、赤松一族の、江戸期タイムスリップ編である。




 誰もしらないしられちゃいけない。播磨の某所に存在する赤松一族の墓所。ちょっとばかり外戚に当たる大塚某のかなり近しい親戚たちの墓所へお墓参りに行ってきた。


 ご生前はお世話になりました。合掌。


 写真の通り、正真正銘の赤松一族の末裔である。もちろん家紋は左三つ巴


 赤松の紋が巴紋であることを知っていると、官兵衛ちゃんがなぜ「藤巴」紋なのかの理由も一目瞭然!!!赤松氏の巴を藤にデザインしなおしたのが黒田家の家紋なのだ。


 もしかしたら長政が「藤原氏」を名乗ったのは、「赤松氏」と「藤原氏」の系統を合わせたものと解釈したからかもしれない、なんてね。




 さあ、ここからが赤松一族の江戸期の様子である。


 





 一番上は、ちょっと読みにくいが「元禄」年号が見える。そこから下は「天保」「寛保」「宝暦」と江戸年号のオンパレードである。


 順番がめちゃくちゃなのはご愛嬌。別に年代順にお墓が並んでいるわけではない。


 もっともっとたくさんのお墓があるのだが、判別の都合で割愛。歴史家系ファンにとってはたいへんに興味深い墓石群である。


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 年代順に仮並べしてみると「元禄(1688~)」「寛保(1741~)」「宝暦(1751~)「天保(1831~)という感じになる。


 ちなみに、当家大塚家にあった墓石でいえば、「正徳(1711~)」「宝暦(1751~」年間のものが現存するため、ざっくりといって概ね同時代の墓石があると言える。


 なぜそんな時代の話をするかといえば、「年号と戒名が彫られている一般民の墓石」というのは、だいたい1600年代末期ごろから登場し、それまでは自然石をおいただけの墓石が多かったからである。

 当家大塚家の場合は、1700年代前後の墓石がいくつかあり、そこからおなじ墓所にはぱったりと江戸期の墓石がなくなるという特徴がある。


 これはおそらく、宝暦以降の三潴地域久留米藩内での一揆による農政の混迷と関係あるように想像する。

 つまり、江戸中期に比較的裕福で墓石を立てられた大塚氏が、金銭上もしくは政治上の理由で墓石をつくれなくなったのではないか、という仮説である。



 一方、写真には取っていないが、この赤松氏の場合は、天保期という江戸後期の年号があることからもわかるように、墓石は文化・文政・万延・慶応など明治直前まで連続して続いている。


 つまり、江戸期を通じてこの赤松氏はある程度の隆盛を維持していた、ということに他ならない。


 いくら庶流とはいえ、中世から連綿と続く赤松の系譜を今日現在でも直接見ることができるのは、なかなか興味深いと言えよう。



 残念ながら、人力車を仕立てて里帰りをしていたという私の先祖の実家がどの墓石かまではわからなかったが、母のおばあちゃんを偲びながら両手を合わせた次第である。



(ちなみに、冒頭の赤松家の墓石は、わたしのおじさんに当たる方の一族のお墓である。前回も書いたが、母の祖母だけでなく、もっと近しいレベルでこの赤松一族とは姻戚関係がある)







 


2014年11月12日水曜日

<95-3・特別編> 黒田官兵衛ちゃんと僕は先祖がおなじだった?!

 これまで2回に渡ってお話してきた黒田官兵衛の先祖にまつわるお話。どうやら黒田氏も赤松の末流であるらしいことがわかってきたところでいよいよ大団円である。


 ワタクシ大塚某、(そして全国数万人のみなさん)と黒田官兵衛ちゃんがなぜ先祖が同じ


だと言えるのかを証明する回がやってきたのだ。



 まず、ワタクシの母方の先祖が、野間赤松氏であることは先に述べた通りである。


 赤松氏の中で、野間山城を拠点としたのは在田氏であるが、在田氏は赤松則村(円心)の嫡子、範資の次男である朝範から始まっている。

 残念ながら私の曾祖母は在田姓ではなく、赤松にいつの時点か戻しているので流派がちょっとわからなくなっているが、とりあえず赤松則村(円心)まで遡ってかまわないだろう。


 ちなみに言っておくが、どこかで養子が入ってDNA的には途切れていることもあるので、そこはご承知おきのほど。


 この家系の話をするときは、「先祖」ということばはすなわち「DNAとしての先祖」であるかどうかは単純にはわからない。あくまでも「家系」・「家柄」の話であることは先に断っておく。



 ところで、荘厳寺本の黒田系図では、黒田氏のスタートを「赤松円光」とする。その子「重光」が多可郡黒田に拠点を持ち、黒田氏を名乗ったので「黒田姓」が始まるわけだ。


 さて、この赤松円光なる人物、実は赤松則村(円心)の弟であり、円光の子があの「別所氏」を起こすという説もあるくらいのキーパーソンである。


 なんてこった!


 黒田官兵衛とついでに、別所長治も先祖がいっしょだったなんて!(笑)



 というわけで、共通の祖先としては一代前まで遡れることになる。そのおおおおおおおおお・・(中略)・・おおじいちゃんは一体どんな人物だったのだろうか。



 赤松則村と円光の父は、赤松茂則という。赤松氏3代目で、佐用庄地頭・播磨守などを務めた。

 子の則村円心がめちゃんこ有名なので、そのおとんは「さらっと」なぞられる程度だが、まあ黒田官兵衛のおとんも「さらっと」なぞられているので、同じである。



 ちなみに茂則の生きていた年代がちょっと不明なのだが、子の円心はバッチリわかる。

1277~1350年なので、


 ウィキペディア 赤松則村 より
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E6%9D%BE%E5%89%87%E6%9D%91


だいたい1250年ぐらいには、円心のおとんが生きていたと考えてよいだろう。つまり、764年前の段階で、官兵衛ちゃんと私が分かれたというわけだ(笑)




 まあ、こんな感じでおなじ先祖を力説するというよりも、想像と妄想を膨らませながら歴史を捉えると、グッと人生が豊かに感じられるというお遊び程度だが、みなさんも先祖に思いをはせて、ぜひ楽しんでいただきたいものである。


 ちゃんちゃん。



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おまけ <歴史マニアのための真面目なお話>


 荘厳寺本への真面目な反論、というのはいろいろありますが、わかりやすくまとめてあるものを紹介しておきます。


 古樹紀之房間 さんのサイトより
 http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/hitori/kuroda2.htm



 黒田家前史さんの論に対して、考えられる反証を挙げておられますので、どちらも読みながらみなさんなりの「歴史の隙間」を覗いて見るのも面白いかも!



 大塚某としては、荘厳寺本黒田家譜がすべてではなく、黒田氏はざっくりとした意味での播磨土着の一族だったのではないか、と考えます。血縁としての赤松氏への接点も仮冒である可能性もあるわけで、地場に根ざした「黒田氏」が独立したあっても、それはそれでいいのではないでしょうか?


 今回の特集では、ちょっと刺激的なタイトルとテーマを取り上げることで、みなさんに楽しんでもらうことにしたので、本気で黒田官兵衛と私が共通の先祖を有していると信じ込んでいるわけでもありません。


 もし、あの世が存在するなら、ご先祖さまを辿って確かめてみたいところですね!



2014年11月11日火曜日

<95-2・特別編> すべてはあの男のムチャからはじまった。 官兵衛ちゃんと僕

 黒田官兵衛という男。その男の実像を捻じ曲げるというとんでもないムチャをした男が存在する。


 そう、誰もが知っている歴史上の人物、福岡藩に仕えた儒学者にして、江戸のブリタニカ百科事典こと「大和本草」を書いた



貝原益軒



その人である。


 科学的コレクター、研究者としての益軒には一定の評価をしたいところだが、ワタクシ大塚某の個人的感想によれば、福岡藩正史としての「黒田家譜」を書いた彼の責任は思い。


 なぜか?


 それは、一言でいえば、播磨の黒田氏を勝手に近江出身に改ざんしてしまったことに他ならない。


==========

 黒田官兵衛は、現代知られている通説によれば、


「近江源氏佐々木氏の庶流であり、近江国伊香郡黒田村をルーツとする黒田氏の子孫であり、官兵衛の祖父の代から播磨に来て小寺氏に仕えた」


となっている。むろん、今回の大河ドラマでも、この通説に沿った展開がなされている。


ドラマで用いられた家系はこうだ。




黒田高政 → 黒田重隆(目薬売り・竜雷太) → 黒田職隆(あぶない刑事・) → 黒田官兵衛(岡田君)




江戸幕府公式見解では、重隆からは存在したらしい(「寛永諸家系図伝」)。しかし、重隆から先祖は「中絶」とされており、よくわかっていない。

その間隙をうまくついたのが益軒であり、偽書「江原武鑑」からそれっぽい男「高政」をみつけてきてくっつけたのが益軒作「黒田家譜」だというわけなのである。


ウィキペディア 黒田氏 参照のこと
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E7%94%B0%E6%B0%8F




ところが近年発見された、播磨国黒田庄につたわる『荘厳寺本黒田家略系図』では、伝承そのものが大きく異なっている。


 詳しいことは


黒田前史 さんのサイト
http://www.geocities.jp/kurodazensi/index.html


にめちゃんこ詳述されているが、簡単にいえば、


岡田君は、竜雷太の子


であり、



片岡鶴太郎の実子ではないかと思われる柴田恭平の養子



になったというのである。



ぶほっっ!


と思わずみなさん吹いたことと思うが、実際はこちらが正しいと考える。まじめに書けば、


黒田重隆には二人の子がいて、兄が治隆、弟が孝隆(孝高)であった。嫡男の治隆は播磨黒田本家を継いだが、滅亡。弟は、小寺職隆の養子となったので「小寺官兵衛」と名乗ったわけである。


ちなみに、官兵衛ちゃんはけっこう最後まで小寺姓で呼ばれており、一説には「黒田」に復姓したのは、長政であって、長政以降の人間が初代の威光を示すべく「黒田官兵衛」だったかのように言いふらしまくった説もあるくらいである。



 だとすれば、竜雷太の子が岡田くんで、鶴太郎の子があぶない刑事だというのはかなり顔面に無理があるのだが、そこはNHKに文句を言っていただきたい。



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 なぜ、大塚某が、黒田氏播磨黒田庄出身説を取るのかといえば、そのエリアが庭みたいなもんだからである。

 それくらい、北播磨・丹波地域の実状を肌で感じてきた大塚某だからこそ、小寺・別所といった赤松氏流の大軍団の中で、黒田氏だけがよそ者だという解釈よりは、おなじ赤松軍団の一派だとするほうがよっぽど自然だと感じるのである。


 同時に、赤松軍団の状況を、有馬・大塚ラインからずっと推定してきた当ブログの読者であれば、黒田氏がいかに播磨に根付いているか(それが赤松由来のルートであるということ)はすぐに納得していただけるに違いない。


 大河ドラマだけ見ていると、播磨は小寺と龍野赤松と別所しかいないみたいに見えていたが、そんなことはない。


 有馬や宇野といった血脈メンバーをはじめ、浦上・播磨後藤(又兵衛の先祖)・新免(武蔵の先祖)など、地元の赤松家臣メンバーもうようよしている播磨である。


 そうである。北部九州の覇者と言えば少弐氏であるように、播磨周辺(丹波・美作も含めて)といえば赤松氏なのである。


 官兵衛ちゃんは、血脈の上でも、家系の上でも紛れもなき「赤松氏流」に他ならない!




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 ☆注意☆


 ちなみに、赤松系だとすれば当ブログでおなじみの「村上源氏」なのだが、あのアホ息子はどうしてか「藤原氏」を名乗っている記録がある。


 アホ息子=長政


 しかし、いずれにしても近江源氏佐々木氏との益軒家系図とは合致しない。ここは歴史の謎。




2014年11月10日月曜日

<95-1・特別編> 黒田官兵衛と大塚某 戦国大血脈史を追え!

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速報!信長協奏曲に濱田岳ちゃんに続いて高橋一生も出るよ~!

スピンオフ官兵衛ちゃんとして楽しめます!


なななんと、さらに来週の信長協奏曲には、第六天魔王こと古田新太も登場!

新旧W「玉ころがしの捨之助」共演も楽しみ!
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 久しぶりの「だ・である調」で書く”三潴大塚氏の謎を解く”本編シリーズであるが、今回からの第95セクションは


 NHK大河ドラマ、軍師官兵衛ちゃんもうすぐ終わり記念特別編


でお届けしたい。


 

 先に断っておくが、私は稀代のイケメン、岡田くんとは何の血のつながりもない。しかし、あるいはしかし、はてさてしかし!軍師官兵衛ちゃんとは、


 そこはかとない


関係があるので、書きつけておこうという次第である。


 ああ、そんな恐れ多いことを言うつもりは毛頭ない。このわけのわからんブログを書いている大塚某が、


軍師官兵衛ちゃんと(遠い)親戚


だなんて、そんなものすごいことは口が裂けても全く言えない。



 というわけで、ほんのちょっとだけ、うっかり口をすべらした感じで書いてしまうのだが、


軍師官兵衛ちゃんと、ワタシの先祖が共通


であることだけは、どうやら確からしいのである。



 いやもう、この際だからはっきり言っておこう。これを読んでいるあなたもわたしも、お兄ちゃんもおねえちゃんもみんなひっくるめて


軍師官兵衛ちゃんと先祖が共通な人


は恐らく数万人単位で存在する。重要なのは、そのことを知っているかどうかである。その数万人のうち、大半はそのことを知らないだけである。



 重ねていっておくが、私は岡田君のようにイケメンではない。それだけはこれまた重ねて確かなので、お忘れなきよう。


 というわけで、大河ドラマチックご先祖探訪スペシャル「軍師官兵衛ちゃんと僕」のはじまりはじまり~。



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 大塚某の母親の苗字は、故あって内緒にしているが、「ピー」という。その母親の母親の苗字ももちろん、「ピー」なのだが、(つまり、私のおばあちゃんのことだ)、彼女は婿養子をとって家を継いだのと聞いている。

 その「ピー」家は、私の強烈な調査によって、天正11年まで遡る戦国家系であることは判明しており、過去帳の調査により、源姓であり、かつ江戸時代に某藩の藩士によって書かれた記録にもちゃんと残っていて、江戸期は「油屋」と「庄屋」を兼ねていたことまでわかっている。


 ちなみに「ピー」家の家紋は「五三桐」であり、これは戦国期に秀吉に付き従ったために賜った、うわさの


「誰にでも桐紋」


「誰とでも桐紋」


であるらしい。


☆注☆ 

 当時の秀吉は、気に入ったやつに誰にでも桐紋を与えたので、秀吉配下の諸氏はやたら桐紋を持っている。



 さて、そのおばあちゃんのお母さんは、「ピー」家に、山を越えて嫁に来た。もともとの苗字を「赤松さん」という。そう、あの「赤松さん」である。


 当時、結婚に当たっては戦国時代さながらの「政略結婚」や「家柄」なるものが重視され、「ピー」家は家柄がよろしかったらしく、同じく家柄のよい「赤松」家から嫁をもらうことになったという。

 赤松のお嬢様は、従者とともに「ピー」家にやってきて、うちのおかんの記憶によれば、


「(おかんからみて、)おばあちゃんは盆正月には、2台の人力車が仕立てられて、実家へキラキラの和服を着てお連れの者と帰っていくのが常だった」

らしい。


 それほどまでに赤松家は、家柄がよかった(らしい)のである。


 で、おかんの姉妹も、同じ系統の別の赤松さんのところへ嫁にいっており、現在も「赤松さん」なので、赤松家と「ピー」家は、相互交流が続いていたことになる。


 この話は、以前のブログでも

 http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2014/02/blog-post_9.html


触れたことがあるので、ワタクシ大塚某が、赤松氏の末裔であることはみなさんも、もしかしたら覚えておられるかもしれない。


(当時は、大塚氏も赤松氏流だと考えていたのだが、結果的にそれは間違いだったことが、判明している。ブログ記事は、当時のままなので、大塚も赤松氏流だと捉えている)



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 というわけで、カンのいい方なら、


「そりゃ、大塚某と黒田官兵衛ちゃんが、先祖が同じであっても不思議ではない」


とすぐに合点がいくことであろうが、いよいよ、次回からその細かなところをお話してゆこうと思う。


まて次回!!








 

2014年11月9日日曜日

<話題>今日の軍師官兵衛ちゃん 秀吉、逝く

 さてみなさんこんばんは。毎週日曜日のお楽しみ、軍師官兵衛ちゃんの時間がやって参りました。


 今日はなんといっても、『秀吉の最期』ということで、今回の大河ドラマ「軍師官兵衛」の集大成のような描きっぷりになっておりました。


 秀吉と官兵衛ちゃんの最後の対面の場面は、演技の上でもセリフの上でも、竹中秀吉・岡田官兵衛両人の演技合戦のようなすばらしい出来でした。


  こうしてみると、今回の大河ドラマ、タイトルこそ「軍師官兵衛」でしたが、その内面においては、かなりの部分が、

「演者 竹中直人」

でもあったように思います。

 竹中秀吉と岡田官兵衛の思い出が走馬灯のように思い出される、まさに


神回!


認定でございますm(★ ★)m




 作家大塚某の視点としては、とにかく今回は台詞仕立てが良かった!!!


秀吉)「信長公が亡くなった時に、お前が言ったことばを覚えているか」 =


「殿のご武運が開けましたぞ」

(秀吉に言わせていますが、これは官兵衛ちゃんから秀吉への言葉です)


に対して、秀吉から官兵衛ちゃんへ、その時のことも大きく含みながら返事があります。


「お前の考えるような天下人にはなれなかった。すまぬ」


この2つの台詞の呼応関係が、まさしく今日までのこのドラマの根幹でもあったし、また「秀吉=官兵衛」の関係を表した一言でもあったわけです。

というわけで、いい脚本でしたな~!



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 さて、♪曇りガラスの向こう~から天下を虎視眈々と狙っている男、そう徳川・ルビー・家康です。

 家康を演じる寺尾聰さんは、なんとこの大河ではタヌキ野郎を演じるために、わざと片目を閉じ気味にしているのですが、いよいよその目が



くわっっっ!!!!


と開きます!


 まさに、今日のために家康はしかめっ面をしてたわけで、いよいよ



本気出して



くるわけですね~。


ルビー家康のインタビューでは、片目の件の答えが載ってます。ぜひご覧アレ。

 日刊ゲンダイさんより
 http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/154659



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 というわけで、今回のおまけは


「歴史秘話ヒストリアは進撃の巨人」のコーナー。

長政弟のクマの助は、勝手に朝鮮行きの船にもぐりこんで死んでしまいますが、これは創作エピソードではなく、史実のようですね。


 黒田熊之助 ウィキペディアより
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E7%94%B0%E7%86%8A%E4%B9%8B%E5%8A%A9


 16歳で元服していたはずですが、元服名が残っていません。ドラマでは「帰ったら元服ね」みたいな話をしてましたので、そこらへんも考慮して脚本が書かれているようです。


 基本的に今回の大河は、無茶な創作が少ないので、たまにやらかすと目立つというwww


 ちなみに、トリビアですが、熊之助といっしょに船で遭難したのは、もこみち太兵衛の長男「母里吉太夫」だけではありません。


 もうひとり、黒田一成の弟で「黒田吉松」という若者も一緒に亡くなっています。


 さあ、黒田一成!みんなも知ってるあの子なんです実は!


 伊丹有岡城に閉じ込められていた官兵衛ちゃんが脱出するとき、荒木の家臣で門番をしていたおっさんの子どもを官兵衛ちゃんが一緒に助けて連れていったの、覚えてますか?

 あの門番、加藤重徳は、捕らえられている官兵衛ちゃんを手厚く扱い、上司にバレないように秘密裏に便宜を図ったりしており、彼のおかげで官兵衛ちゃんは死なずに済んだのでとても感謝されたそうです。


 その縁で官兵衛ちゃんの養子になった重徳の息子が一成で、黒田一成はその後『黒田二十四騎・黒田八虎』のメンバーとして黒田家の選抜メンバーとなってゆきます。


 そういう因縁があるってことで。


 だから、今回の脚本で中谷美紀が「有岡城の時に・・・・」という台詞を言うのも、もしかしたらそこまでわかっててネタを仕込んでるかもしれないわけです。


 いやあ、大河って本当にドラマですね。さいなら、さいなら、さいなら。