2022年10月15日土曜日

<126> 古賀伊豆関連の補足 (稿本八女郡史より 福岡県史資料より メモ)

 

古賀伊豆に関してのメモ・補足です。


 

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P46

佐野胖平

大田黒孫七の第2子

同族三潴郡八町牟田村 処士 佐野興右衛門の貫籍たり

大田黒氏も、佐野氏も、もとは古賀氏

貫籍を偽った。

(稿本八女郡史)

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 八丁牟田の佐野氏あるいは大田黒氏も、もとは「古賀氏」であるという話があります。

 このエリアに一定数の古賀氏がいるということは、古賀伊豆の子孫の可能性があると考えます。

 

 

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P68

八丁牟田 大庄屋 古賀利右衛門


(福岡県史資料)



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 そののちの八丁牟田の大庄屋は古賀氏です。



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<補足>

 

日本医史学雑誌 第49巻より

 

福岡県での調査により、久留米地方で、太田黒家が存在したということが明らかになった。古賀幸雄が昭和五〇年に発表した「久留米藩旧家由緒」によれば、太田黒家は筑後国下妻郡中折地村に在った。現在の筑後市になる。四代目から姓を溝上から太田黒へ改め”

 

 

 






2022年10月13日木曜日

<125> 筑後大庄屋の正体を探せ3 ~古賀伊豆を追いかけて~

 

 さてさて、筑後大庄屋のはじまりとされる3人の正体を追い続けているこのコーナー、いよいよ3回目です。

 前回には、かなり大きなことが判明したので、まずはそのおさらいから。

 

 筑後大庄屋の始まりは、小早川隆景が秀吉によって筑後に送り込まれた時に

 

「石井和泉・古賀伊豆・田代興膳」

 

の3人が、大庄屋に任じられたということになっていますが、このうち「田代興膳」については、資料によっては「興膳善右衛門」とされている場合があり、まずそれが誤りであるらしいことがわかりました。

 

 さらに「田代」興膳という苗字についても、現代側から遡った時に、浮羽郡吉井の大庄屋がのちに「田代氏」であったことからの誤解であり、本来は「鳥越興膳」なのではないか?ということも判明したわけです。

 

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 では、残りの二人です。

 

 まず「石井和泉」という人物。これは当初、私も肥前系の人物なのではないかと思っていました。肥前には

 

石井和泉守忠清

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E4%BA%95%E5%BF%A0%E6%B8%85 


という、そこそこ有名な武将がおり、その関係者の可能性があったわけですね。

 この一族、肥前石井氏で藤原氏とも千葉氏の出身とも称していますが、龍造寺氏や鍋島氏の家臣として活躍するので、有名です。

 

 もともとは下総の氏族で、千葉氏にくっついて肥前入りしたらしい、ということは事実のようです。

 

 ところが、筑後大庄屋になった石井和泉は、当然ながら「和泉守忠清」とは別人らしいのです。

 

  前回出てきたのは、「日田郡石井村」の石井という地侍が石井和泉の正体である、ということでした。

 

 日田には「石井」という地域があり、これがまたかなり古くから発展したエリアのようで「石井大明神」なる神社があったりするくらい。

 「和名抄」にある”日田郡石井郷”と考えられています。

 

 なるほど、日田郡石井の地侍が帰農して大庄屋となったというのは頷けます。

 

 

 

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 では、いよいよ問題の「古賀伊豆」です。

 

 そもそも「古賀伊豆」の何がどう問題かというと、「筑後国三潴郡八丁牟田」村にやってきた龍造寺氏家臣の武将が「古賀伊豆」であると三潴郡の記録にあり、それが大庄屋となった「古賀伊豆」と同一人物なのかどうか、ということでしたね。


 もちろん、三潴郡の「古賀伊豆」はその名前しかわかりません。あるいは「龍造寺家臣」であったことだけはわかりますが、その出自は不明です。


 一方、大庄屋となった「古賀伊豆」は福岡県史資料: 第8輯」によると

 

「三潴郡古賀村出身の古賀伊豆守・高一揆衆」

 

とあり、 ある程度、出自を推理できそうです。


 ポイントは2つあります。



<ポイント1> 三潴郡古賀村出身

 

 まず、古賀伊豆は「三潴郡出身である」という点が興味深いです。最終的に筑後大庄屋となった古賀伊豆は

 

”天正年間に、生葉郡の大庄屋”

 

となっているので、実はエリアがちょっとズレているのです。もし、二人が同一人物であれば、「古賀伊豆は、いったん八丁牟田に赴任してそこから浮羽郡(生葉郡)へ移動した」ことになるでしょう。

 

 けれども、エリアが違うとは言え、現在の八女市星野・うきは市ですから、三潴とは隣接地帯で、江戸時代はどちらも久留米藩であり、のちに「三潴県」になっているエリアです。

 

 ですから、古賀伊豆が、「確固たる領地」を八丁牟田に持っていたわけではなく、短期の駐留であったとしたら、八丁牟田から生葉へわずかに移動していても、不思議ではないという絶妙な距離感だと思われます。

 

 なにより、古賀伊豆は「三潴郡出身」とあるので、だとすれば佐賀勢にいたときも、「佐賀本軍」所属ではなく、三潴の地侍が龍造寺に従っていただけ、ということもありえます。

 その頃ちょうど柳川までは、龍造寺隆信の息がかかっていたため、十分その可能性があるということです。

 

 

<ポイント2> 高一揆衆とは

 

  そして2つめのポイントは、古賀伊豆が「高一揆衆」であるとされている点です。高一揆衆とは簡単に言えば「大友氏の家臣」を意味します。


 まず、足利時代以降「筑後十五城」「高一揆衆(二十四頭)」という布陣で、大友氏は筑後や肥前を管理しました。

 

筑後十五城 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AD%91%E5%BE%8C%E5%8D%81%E4%BA%94%E5%9F%8E 

 

 蒲池・星野・黒木など、有名武家が並びます。

 

一方、高一揆衆は

「江島、上妻、三原、安武、町野、小河、菅、麦生、酒見、津村、酒井田、坂田、甘木、辺春、谷川、行徳、古賀、高三潴、林田、木室、荒木、水田、隅、稲員、諸富」

とされ、古賀氏がいます。

 

 彼らは大友直参の小豪族でした。苗字を見ると今も筑後の地名として続いている名だとわかります。

 

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 つまり、流れを整理すると、以下のようになるでしょう。

 

◆ 室町末期から戦国時代前期にかけて、九州北部で力を持っていたのは、「少弐」「大友」などの諸氏。

◆ 大友氏は筑後十五城と高一揆衆をもって筑後を管理

◆ 少弐氏は、じわじわと筑前を追い出されて肥前へ移動

◆ 少弐門下から龍造寺や鍋島が台頭。肥前はこの2氏が強くなってゆく。

◆ 龍造寺は肥前から筑後へ侵入、大友氏とガチバトル。大友弱体に乗じて柳川あたりまで支配下に。

◆ 龍造寺隆信・南から北上してきた島津に敗れて死去

◆ 次の瞬間、秀吉によってすべてにストップがかかる。


という感じです。


 ということは、蒲池氏もしかりですが、「龍造寺隆信」がめちゃんこイキッてしまったので、やむなく佐賀勢に従っていますが、筑後の連中はもともとみな「大友派閥」ということです。

 結局、龍造寺隆信は、蒲池鎮漣を謀殺してしまい、一時は龍造寺についていた筑後の武将たちの反感をかって離反をまねくわけで、ちょうど古賀伊豆や大塚隠岐はその真っ只中で身の振り方を考えねばならなかった、ということなのでしょう。

 ましてや、戦後処理もままならぬ間に、今度は中央から秀吉勢がやってきて、すべての動きをリセットさせられてしまうわけで、まさに天正年間という短い間に

 

「え?明日からワシどうしたらええねん!」

 

ということが各武将に起きていたと思われます。

 

 そう考えると、古賀伊豆は同一人物である、と考えてもあながち間違いではないかもしれません。

 

■ まず、三潴郡の武将であった古賀氏は、大友の高一揆衆であった。

■ 古賀伊豆守の頃、大友は弱体化し、龍造寺の筑後侵攻によって多くの筑後衆が佐賀勢に従った。

■ 古賀伊豆は、そのため「龍造寺家臣」ということになるが、地元に近い八丁牟田に駐屯していた。

■ あれよあれよという間に隆信が死に、秀吉軍がやってきて天下統一されてしまった。

■ 古賀伊豆は、赴任してきた小早川隆景に従い、直属の家臣ではない地侍なので庄屋に任命された。


というのが真実に近そうです。

 

 古賀伊豆から見れば、その瞬間瞬間に「誰につくか、誰に従うか」の判断を問われていた、ということなのでしょう。

 

 

  さて、問題の大塚隠岐です。大塚隠岐もまた、佐賀勢ではありながらその経緯においては龍造寺の元からの家臣ではありません。実際には神代長良の家臣ですから、つい先日まで龍造寺と争っていた側の人間であり、古賀伊豆と経歴が似ています。

 

 天正年間のある瞬間においては、大塚隠岐は古賀伊豆のおそらく与力のような形で八丁牟田へ赴任したわけですが、彼もまた佐賀を出たまま、放り出されてしまったことになります。

 

 そもそも、古賀伊豆と大塚隠岐の間に従来からの主従関係があったか?と言われれば違うのではないか?と思います。

 龍造寺の命令のもとでは、「おまえらは八丁牟田と会下古賀あたりを管理しろ」ということになって赴任していたけれど、上司上官はあくまでも隆信であって、二人は上下関係にあったわけではないかもしれません。

 

 そのため、隆信が死んだ後は、二人ともドライで、自分の身の振り方を考えます。


 古賀伊豆は小早川隆景のところへいち早く駆けつけ、雇ってもらおうとします。


 大塚隠岐は佐賀へは戻らず、隆信の後を継いだ鍋島直茂の「帰って来い」という命令を聞かず、既読スルーしています。

(もともと、隆信に従うのも微妙なのだから、当初正統な継承者ではなかった直茂に対しては、さらに言うことを聞くつもりはなかったのかもしれません)

 

※補足ですが、推測ながら古賀伊豆も大塚隠岐も、いわゆる先祖伝来の「本領」のようなものを持っていなかったのではないか?と考えます。

 古賀伊豆が古賀村の当主であれば、八丁牟田にいたり、生葉郡へ行ったりすることがすこし不可思議です。

 大塚隠岐も、本来は佐賀の人間ですから、「ある瞬間」は筑後にいたかもしれないけれど、その領地は短期的な位置づけだった可能性があるかもしれません。

 

 

 どうも、歴史をずーっと読み解いてゆくと、そういうことがあったのではないか?と思うわけです。

 

 こういう人間模様が、先祖の生きた証だとすれば、かなり面白いのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

2022年10月5日水曜日

<124> 筑後大庄屋の正体を探せ2 ~田代興膳・興膳善右衛門を探る~ あっと驚くどんでん返し付き

 

 天正15年、小早川隆景によって定められたという筑後国の大庄屋、「古賀伊豆」「石井和泉」「田代興膳(興膳善右衛門)」の正体を探していこう、という大塚氏スピンオフ、最初は特徴のある名前、苗字を持つ

 

「興膳」

 

から取り上げてみたいと思います。そもそも書籍によって「田代興膳」「興膳善右衛門」と表記されているこの人物、”興膳”とは苗字なのか名前なのか?不可思議ですね。

 

 なので、まずは「興膳」とは何か、から調査です。

 

 「興膳」を苗字と捉えた場合「福岡県に15軒」「その他、散らばったものと推測できる軒数が全国に20軒」程度あります。全国で35軒くらいしかない希少姓です。

 

 分布の中心は福岡市内に散発的に広がっており、福岡藩士にもこの苗字があるようです。

 

 その源流を辿ってゆくと

 

「秋月のキリシタン」(フーベルトチースリク2000)に

 

博多、秋月、長崎、堺などには、興善、興膳、幸善、興専などがあって、教会側の史料にも類似の名が各地に出てくる”

秀吉九州征伐の時善入は博多にて秀吉始め二百人の将士に供膳して祝意を表したれば秀吉大いに喜びて以前は姓興善なりしを此の記念にと以後善を膳に改めしめ興膳と書く様になりたり、紋所も膳にちなみて」とするに至れり。”

 

とあり、まずは「興膳善入」という人物が検索にひっかかってきます。

 

「医王山長生禅寺」

http://www.fukuokayokatoko.com/?MN_disp_report=4;g=12;a=4;i=68

→ 124歳まで生きた興膳善入 慶長5年に寺を建てる。

 

「青春の城下町」さんのサイトより

http://inoues.net/club/akiduki/akiduki_jisha.html 

→ 秋月時代に博多~長崎で活躍した豪商。実は明の王子で、商人の末次興善の養子となった。

→ 九州征伐で秀吉軍の配膳係となり 、膳の文字に変えて「興膳」の姓を賜った。

→ 長崎での商売を末次興善の実子「末次平蔵」に譲った。

→ キリシタンだった


「徒然漫歩計」さんのサイトより

http://manpokei1948.jugem.jp/?eid=102

→ 末次平蔵は長崎の代官になっているらしい。

→ 末次興善はザビエルを迎えている。

→ 末次興善は平戸の木村氏の出身で、博多の商人末次氏の養子に入った。

→ 末次コメス興善

→ 興膳ドミンゴス善入


 ほかにもいろいろこのあたりの経緯を書いた資料はありそうですが、ざっくり整理すると


◆ 肥前平戸の木村氏が、博多の商人末次氏に養子に入ったのが「末次興善」

→ この段階では名前

◆ 末次興善の養子に入った「明の王子」が「末次善入」で、秀吉に喜ばれて「興膳善入」となった。

→ ここから苗字に

◆ 末次興善には実子ができ、弟となったのが「末次平蔵」

https://kotobank.jp/word/%E6%9C%AB%E6%AC%A1%E5%B9%B3%E8%94%B5-83337 

→ 長崎の代官になっている。


ということになりそうです。


 末次氏も興膳氏も、時の権力者である秀吉と深く関わっているので、「興膳善右衛門」がおなじ一族であれば、当然秀吉から送り込まれた小早川秀秋のもとで「大庄屋」として任命されるのは理解できそうです。


 また福岡藩士に「興膳」姓が存在することともつじつまが合います。


 つまり、「興善」は名前、「興膳」は苗字、「興膳氏」の通字は「善」であろうと推測できるわけです。



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 ところで、「興膳善右衛門」が興膳一族であろうと推測するさらなる証拠があります。それは「田代興膳」という別名。

 

田代家のイヌマキ

http://www.fukuokayokatoko.com/?MN_disp_report=4;g=16;a=4;i=162 


→ 朝倉市・秋月にある「田代家のイヌマキ」という大木


旧田代家住宅(朝倉市)

https://www.city.asakura.lg.jp/www/contents/1297665014824/index.html


 田代家とは1623年の秋月藩成立時、初代藩主黒田長興の家老を務めた田代外記にはじまる家です。

 

 興膳氏、田代氏が秋月で繋がります。とすれば、興膳善右衛門は、「興膳善入」が秋月に定着してのち、なんらかの形で田代氏と繋がった、(通婚もしくは養子)人物と思われます。

 

 ただし、秋月藩が成立したのは天正・慶長より後のことなので、地侍時代、戦国武将時代の田代氏ということになるでしょう。

 

 田代外記はむしろ、田代興膳より後の時代の人物と思われます。

 

 地場氏族としては、「肥前・松浦郡玄海町田代」「肥前・伊万里大川町東田代」などが由来と考えられます。


 肥前と秋月を繋ぐ点と線が、「田代興膳」のことばに集約されていそうです。

 

 また「黒田家譜」にも


丹下一族立花德太夫・郡九左衛門・齋藤甚五右衛門・立花小左衛門・浦上宇兵衛・高橋不太夫・興膳善右衛門・蒔田源右衞門・郡傳太夫・齋藤三郎助を召出して拜認せしめらる。”

とあり、興膳善右衛門は、福岡藩政にも深く関わっていったようです。

 

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「キリシタン研究 第24巻」東京堂1985

秋月にもまた、シナ人であり、そこの町の最も裕福なものである善右衛門興膳の裏に小さい聖堂があって、前記の神父は黒田惣右衛門とその他のキリシタンへの愛のため、年に何度もそこへ出かけ、また年の幾つかの大祝日を(三七)そこで祝った。”



「キリシタン研究 第25巻」東京堂1985


一六〇四年には秋月の聖堂と司祭館が興膳善右衛門の屋敷裏にあった、とマトス神父の回想録に出ている。こうして、博多・秋月・堺などに屋敷をもち、貿易に従事していた末次興善家は、長崎開港の後に、そこでも「支店」を開始したことは当然である。”

 

 

 この段階でハテナが出てきて当然。興膳善右衛門は「シナ人」である、と書かれているので「興膳善入」と同一人物と思われます。

 

 そこで再び「秋月のキリシタン」を読み込むと

 

ところが、宣教師側通の記録にもたびたび、高齢者の改宗が報告されている。例えば、一六〇七年度の年報には三人の老婦人の洗礼がた恵山善入(興膳善右衛門)の墓は、以前から郷土史家のあいだで論議を呼んできた。”

 

とあり、「恵山善入」と「興膳善右衛門」が同一人物であることがわかります。

 

 

「福岡県史資料」第10

 

”寛文4年徳川家綱将軍職を襲き、判物を改査す。黒田光之其老小河権兵衛、郡宰興膳善右衛門をして幕府に提出せしめたる石高は”

 

ともあり、年代からみて初代ではなさそうですが「興膳善右衛門」が郡宰を務めていることから、大庄屋はやはり初代興膳善右衛門だったのではないか?と思われます。

 

 

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 ところが!!!


 ここからが大どんでん返しです。


「直方市史」では


その時降景が平田平蔵を大庄屋として立てたとあり、また筑後の吉井宿でも、石井和泉、古賀伊豆、田代典膳の三家へ降景が止宿したので、三家とも大庄屋に仰せつけられた(香月文書庄屋事始)とある。黒田長政が筑前入国して啓群の時にも勿論この職を置かれた”

 

とあります。 


 面白いことに「田代典膳」となっているのです!


 ここまで、興膳氏を中心に見てきましたが、ここにきて焦点がかなり移動します。


◆ 筑後吉井宿において「田代典膳」が登場。

 

(参考)田代重栄

https://kotobank.jp/word/%E7%94%B0%E4%BB%A3%E9%87%8D%E6%A0%84-1089263 


→ うきは市吉井の大庄屋田代氏からはのちに「田代弥三左衛門重栄」が出ている。水道を完成させた田代組の大庄屋。


→ 田代氏は興膳とは無関係の「田代典善」から続く筑後の氏族?!

 

 

 そこで「福岡県史資料: 第8輯」に確信的な答えが出てきます。

 


 


 何が書いてあるかというとびっくりです!


 生葉郡の代職、つまり庄屋関係について、


「天正年中、生葉郡の代職は豊後日田郡石井村出身の石井和泉守(国衆)、同国直入郡鳥越村出身の鳥越(?)興膳(国衆)、三潴郡古賀村出身の古賀伊豆守(高一揆衆)の三人であったようだ。

付言 拙家舊記には竹永方興膳大庄屋上り代久左衛門と申す者致、また左衛門に成るとあり、久左衛門は鳥越氏、又左衛門は田代氏なるは申すまでもないが、この筆意からみると興膳と久左衛門は同姓だったら格別、さもなければ何うも他人で、姓氏を異にしてはいなかったかと思われるけれども、他家の旧記には鳥越興膳と書いたものもあるようだから、しばらく鳥越氏としておく」

 

 

とあるのです。 


 まず「田代典膳の典」はOCR読み込みミスとわかります。やはり吉井の大庄屋は「興膳」さんであるらしい。

 

 けれども田代ではなく「鳥越」が正しいらしい!というわけですね。のちに続く田代氏と鳥越氏がいっしょになっていつしか「田代興膳」となったのではないか?とこの段階ですでに疑義が唱えられていることがわかるのです。

 

 

 結論  興膳善右衛門、関係ないじゃん!!!

 

<正解>   

 鳥越興膳という直入郡の国衆がいて、大庄屋に取り立てられた。

 のちの大庄屋である田代氏と混同が生じた。

 筑後の話なのに、筑前で郡宰を務めた「興膳善右衛門」と話がごっちゃになった。

 

 興膳善右衛門が大庄屋の始まりと書いた書籍は誤り。

 田代興膳は、もしかしたら合っているかもしれないけれど、誤りの可能性が高い。

 

 

  そして、「石井和泉」は日田郡石井村の国衆、「古賀伊豆」は三潴郡古賀村の出身で高一揆衆、と判明。

 

 歴史調査って、ほんとうに面白いですね~。 



(余談)

 この話まだ続きがあって、鳥越興膳は鳥越俊太郎さんの先祖かそうでないかと、NHKのファミリーヒストリーで揉めたらしい。

 

 鳥越興膳は大友宗麟の家臣だったらしいのだが、鳥越俊太郎氏がそこに繋げて本家サイドが怒ったとか。

 

(つづく)

 

 

2022年10月4日火曜日

<123> 筑後大庄屋の正体を探せ1 ~大塚氏探求、スピンオフ~

  今年の大河ドラマは、「鎌倉殿の13人」で、源頼朝や北条氏を取り巻く鎌倉幕府の面々が陰謀に継ぐ陰謀で殺しあうバトルロイヤルになっています。

 

 実はその裏面としてアニメの「平家物語」も放送されていて、メインの放送は終了したものの、いろいろなサブスク系メディアで現在も視聴できるようになっているので、ぜひどちらもご覧になってください。

 

 というわけで、我らが九州の「大塚氏」も、実はこの「平家物語」と「鎌倉殿の13人」に絡んできます。

 さすがにご先祖さま本人が登場人物にはなっていないのですが、 かなり近い人たちがドラマとアニメに登場しています。


 九州少弐系大塚氏のルーツは、源頼朝に仕えた「武藤資頼」ですが、実は奥さんが「梶原景時」の娘です。

 

  その前段階として、武藤資頼は、「平知盛」の武将でしたが、一ノ谷の合戦の時に、資頼は平家方を脱出して「梶原景時」のもとへ駆け込むんですね。降参する、と。

 

 ここで中村獅童が登場です(笑)

 そのまま、三浦義澄の預かりになります。つまり、佐藤B作です。

 

 平知盛は、その後壇ノ浦で、碇を自らにくくりつけながら水中へ自害します。


 武藤資頼は、その後源頼朝の家人となり、大友能直とともに九州へ送り込まれるわけですが、能直の養父となったのが「中原親能」です。川島潤哉さんが演じています。

 

 能直から見て、実父の弟(つまり、おじさん)が武藤頼平で、この人が資頼の養父ですね。

 

 というわけで、うちの先祖が九州にいるのは、すべてこの時の政策のせいということになってしまいます。



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 さて、そんなあたりから再び戦国の世へと話は移ります。

 

 三潴郡近辺は、龍造寺氏亡き後、けっこうごちゃごちゃして、そのまま秀吉配下の黒田官兵衛ちゃんがやってきたり、強制的に戦が収束へ向かいます。 


 肥前のくまモンこと「龍造寺隆信」は、その直前に死んでしまい、佐賀勢の権力は「鍋島信生」つまり直茂へと移ります。

 

 天正16年には、旧龍造寺氏の権限を実質的に直茂が掌握したと見られています。


 この頃、うちの先祖と思われる「大塚隠岐」は、なぜか直茂のもとには帰参せず、佐賀城ではない別のどこかにいて直茂からどうやら

 

「おまえ、どこにおるねん、帰ってこい!」

 

という命令を受けているらしいのですが、それを無視してうちのおじいちゃんの家の地域に留まったのではないのか?と推定しています。

 

 さて、すこし話を戻しましょう。うちのおじいちゃんの家は、現在の福岡県三潴郡であり、佐賀とは筑後側を挟んで対岸。天正年間は、龍造寺が柳川あたりまで支配圏を広げていたので、ぶっちゃけ佐賀エリアでした。

 

 いわば、佐賀勢の駐留エリアとしての筑後国内ということになりましょう。

 

 ところが、この天正年間に、まず隆信が死んで(天正12年)しまいました。おまけに秀吉勢がやってきて(天正14年)

 

「はい、そこまで、ストップストップ!」

 

と戦乱を強制的に止めてしまいます。なので、三潴郡などへ駐屯していた佐賀勢の武将たちは、佐賀へ帰れず、あるいは帰らずに、おいてけぼり、もしくは自立することになります。

 

 

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さて、ここで「福岡県史資料 第6輯」には、

 

”因みにいわく、御国大庄屋の始まりは天正15年寅年、小早川隆景より石井和泉・古賀伊豆・田代興膳三人に命ぜらる。これ大庄屋の始まりという”

 

とあります。天正14年からの九州征伐で、小早川隆景には筑前・筑後・肥前が与えられたので、その折のことでしょうが、天正15年(1587)から慶長5年(1600)まで隆景は九州を支配することになります。この間13年間です。

 

(その後、関ヶ原の戦いの後備前へ移封)

 

 古賀伊豆と大塚隠岐が三潴へやってきたのは天正年間とされていますが、おそらくは天正10年前後と推測され、天正15年には秀吉政権下へ移り、彼らの立ち位置も確定したと思われます。

 

 古賀伊豆は、大庄屋として帰農したと推測して間違いではないと思います。(少し領地、場所を移動した?)

 

 「久留米市史 第2巻」では

 

地侍出身の古賀伊豆・石井和泉・興膳善右衛門三名が初めて大庄屋に任命されたという”

 

とあり、同じ内容の記述ですね。

 

 

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 さて、ここで、今回からしばらく、この3人の正体について探ってゆきたいと思います。

 

 彼らはそれぞれに特徴的な名前を持っていて、由来を探ることで見えてくるものがあるかもしれません。

 

 特に「田代興膳」は「興膳善右衛門」とも呼ばれています。苗字なのか名前なのかよくわからないこの部分にも、謎が隠れていますよ~。

 

 

 そのあたりもじっくり探ってゆきましょう。

 

 

(つづく)