天正15年、小早川隆景によって定められたという筑後国の大庄屋、「古賀伊豆」「石井和泉」「田代興膳(興膳善右衛門)」の正体を探していこう、という大塚氏スピンオフ、最初は特徴のある名前、苗字を持つ
「興膳」
から取り上げてみたいと思います。そもそも書籍によって「田代興膳」「興膳善右衛門」と表記されているこの人物、”興膳”とは苗字なのか名前なのか?不可思議ですね。
なので、まずは「興膳」とは何か、から調査です。
「興膳」を苗字と捉えた場合「福岡県に15軒」「その他、散らばったものと推測できる軒数が全国に20軒」程度あります。全国で35軒くらいしかない希少姓です。
分布の中心は福岡市内に散発的に広がっており、福岡藩士にもこの苗字があるようです。
その源流を辿ってゆくと
「秋月のキリシタン」(フーベルトチースリク2000)に
”博多、秋月、長崎、堺などには、興善、興膳、幸善、興専などがあって、教会側の史料にも類似の名が各地に出てくる”
”秀吉九州征伐の時善入は博多にて秀吉始め二百人の将士に供膳して祝意を表したれば秀吉大いに喜びて以前は姓興善なりしを此の記念にと以後善を膳に改めしめ興膳と書く様になりたり、紋所も膳にちなみて」とするに至れり。”
とあり、まずは「興膳善入」という人物が検索にひっかかってきます。
「医王山長生禅寺」
→ 124歳まで生きた興膳善入 慶長5年に寺を建てる。
「青春の城下町」さんのサイトより
http://inoues.net/club/akiduki/akiduki_jisha.html
→ 秋月時代に博多~長崎で活躍した豪商。実は明の王子で、商人の末次興善の養子となった。
→ 九州征伐で秀吉軍の配膳係となり 、膳の文字に変えて「興膳」の姓を賜った。
→ 長崎での商売を末次興善の実子「末次平蔵」に譲った。
→ キリシタンだった
「徒然漫歩計」さんのサイトより
http://manpokei1948.jugem.jp/?eid=102
→ 末次平蔵は長崎の代官になっているらしい。
→ 末次興善はザビエルを迎えている。
→ 末次興善は平戸の木村氏の出身で、博多の商人末次氏の養子に入った。
→ 末次コメス興善
→ 興膳ドミンゴス善入
ほかにもいろいろこのあたりの経緯を書いた資料はありそうですが、ざっくり整理すると
◆ 肥前平戸の木村氏が、博多の商人末次氏に養子に入ったのが「末次興善」
→ この段階では名前
◆ 末次興善の養子に入った「明の王子」が「末次善入」で、秀吉に喜ばれて「興膳善入」となった。
→ ここから苗字に
◆ 末次興善には実子ができ、弟となったのが「末次平蔵」
https://kotobank.jp/word/%E6%9C%AB%E6%AC%A1%E5%B9%B3%E8%94%B5-83337
→ 長崎の代官になっている。
ということになりそうです。
末次氏も興膳氏も、時の権力者である秀吉と深く関わっているので、「興膳善右衛門」がおなじ一族であれば、当然秀吉から送り込まれた小早川秀秋のもとで「大庄屋」として任命されるのは理解できそうです。
また福岡藩士に「興膳」姓が存在することともつじつまが合います。
つまり、「興善」は名前、「興膳」は苗字、「興膳氏」の通字は「善」であろうと推測できるわけです。
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ところで、「興膳善右衛門」が興膳一族であろうと推測するさらなる証拠があります。それは「田代興膳」という別名。
田代家のイヌマキ
http://www.fukuokayokatoko.com/?MN_disp_report=4;g=16;a=4;i=162
→ 朝倉市・秋月にある「田代家のイヌマキ」という大木
旧田代家住宅(朝倉市)
https://www.city.asakura.lg.jp/www/contents/1297665014824/index.html
田代家とは1623年の秋月藩成立時、初代藩主黒田長興の家老を務めた田代外記にはじまる家です。
興膳氏、田代氏が秋月で繋がります。とすれば、興膳善右衛門は、「興膳善入」が秋月に定着してのち、なんらかの形で田代氏と繋がった、(通婚もしくは養子)人物と思われます。
ただし、秋月藩が成立したのは天正・慶長より後のことなので、地侍時代、戦国武将時代の田代氏ということになるでしょう。
田代外記はむしろ、田代興膳より後の時代の人物と思われます。
地場氏族としては、「肥前・松浦郡玄海町田代」「肥前・伊万里大川町東田代」などが由来と考えられます。
肥前と秋月を繋ぐ点と線が、「田代興膳」のことばに集約されていそうです。
また「黒田家譜」にも
”丹下一族立花德太夫・郡九左衛門・齋藤甚五右衛門・立花小左衛門・浦上宇兵衛・高橋不太夫・興膳善右衛門・蒔田源右衞門・郡傳太夫・齋藤三郎助を召出して拜認せしめらる。”
とあり、興膳善右衛門は、福岡藩政にも深く関わっていったようです。
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「キリシタン研究 第24巻」東京堂1985
”秋月にもまた、シナ人であり、そこの町の最も裕福なものである善右衛門興膳の裏に小さい聖堂があって、前記の神父は黒田惣右衛門とその他のキリシタンへの愛のため、年に何度もそこへ出かけ、また年の幾つかの大祝日を(三七)そこで祝った。”
「キリシタン研究 第25巻」東京堂1985
”一六〇四年には秋月の聖堂と司祭館が興膳善右衛門の屋敷裏にあった、とマトス神父の回想録に出ている。こうして、博多・秋月・堺などに屋敷をもち、貿易に従事していた末次興善家は、長崎開港の後に、そこでも「支店」を開始したことは当然である。”
この段階でハテナが出てきて当然。興膳善右衛門は「シナ人」である、と書かれているので「興膳善入」と同一人物と思われます。
そこで再び「秋月のキリシタン」を読み込むと
”ところが、宣教師側通の記録にもたびたび、高齢者の改宗が報告されている。例えば、一六〇七年度の年報には三人の老婦人の洗礼がた恵山善入(興膳善右衛門)の墓は、以前から郷土史家のあいだで論議を呼んできた。”
とあり、「恵山善入」と「興膳善右衛門」が同一人物であることがわかります。
「福岡県史資料」第10輯
”寛文4年徳川家綱将軍職を襲き、判物を改査す。黒田光之其老小河権兵衛、郡宰興膳善右衛門をして幕府に提出せしめたる石高は”
ともあり、年代からみて初代ではなさそうですが「興膳善右衛門」が郡宰を務めていることから、大庄屋はやはり初代興膳善右衛門だったのではないか?と思われます。
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ところが!!!
ここからが大どんでん返しです。
「直方市史」では
”その時降景が平田平蔵を大庄屋として立てたとあり、また筑後の吉井宿でも、石井和泉、古賀伊豆、田代典膳の三家へ降景が止宿したので、三家とも大庄屋に仰せつけられた(香月文書庄屋事始)とある。黒田長政が筑前入国して啓群の時にも勿論この職を置かれた”
とあります。
面白いことに「田代典膳」となっているのです!
ここまで、興膳氏を中心に見てきましたが、ここにきて焦点がかなり移動します。
◆ 筑後吉井宿において「田代典膳」が登場。
(参考)田代重栄
https://kotobank.jp/word/%E7%94%B0%E4%BB%A3%E9%87%8D%E6%A0%84-1089263
→ うきは市吉井の大庄屋田代氏からはのちに「田代弥三左衛門重栄」が出ている。水道を完成させた田代組の大庄屋。
→ 田代氏は興膳とは無関係の「田代典善」から続く筑後の氏族?!
そこで「福岡県史資料: 第8輯」に確信的な答えが出てきます。
何が書いてあるかというとびっくりです!
生葉郡の代職、つまり庄屋関係について、
「天正年中、生葉郡の代職は豊後日田郡石井村出身の石井和泉守(国衆)、同国直入郡鳥越村出身の鳥越(?)興膳(国衆)、三潴郡古賀村出身の古賀伊豆守(高一揆衆)の三人であったようだ。
付言 拙家舊記には竹永方興膳大庄屋上り代久左衛門と申す者致、また左衛門に成るとあり、久左衛門は鳥越氏、又左衛門は田代氏なるは申すまでもないが、この筆意からみると興膳と久左衛門は同姓だったら格別、さもなければ何うも他人で、姓氏を異にしてはいなかったかと思われるけれども、他家の旧記には鳥越興膳と書いたものもあるようだから、しばらく鳥越氏としておく」
とあるのです。
まず「田代典膳の典」はOCR読み込みミスとわかります。やはり吉井の大庄屋は「興膳」さんであるらしい。
けれども田代ではなく「鳥越」が正しいらしい!というわけですね。のちに続く田代氏と鳥越氏がいっしょになっていつしか「田代興膳」となったのではないか?とこの段階ですでに疑義が唱えられていることがわかるのです。
結論 興膳善右衛門、関係ないじゃん!!!
<正解>
鳥越興膳という直入郡の国衆がいて、大庄屋に取り立てられた。
のちの大庄屋である田代氏と混同が生じた。
筑後の話なのに、筑前で郡宰を務めた「興膳善右衛門」と話がごっちゃになった。
興膳善右衛門が大庄屋の始まりと書いた書籍は誤り。
田代興膳は、もしかしたら合っているかもしれないけれど、誤りの可能性が高い。
そして、「石井和泉」は日田郡石井村の国衆、「古賀伊豆」は三潴郡古賀村の出身で高一揆衆、と判明。
歴史調査って、ほんとうに面白いですね~。
(余談)
この話まだ続きがあって、鳥越興膳は鳥越俊太郎さんの先祖かそうでないかと、NHKのファミリーヒストリーで揉めたらしい。
鳥越興膳は大友宗麟の家臣だったらしいのだが、鳥越俊太郎氏がそこに繋げて本家サイドが怒ったとか。
(つづく)
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