2014年2月20日木曜日

<42>久留米藩士「大塚敬介」の正体?!<追記あり>

 こうなったら、久留米藩の大塚氏について、片っ端から調べなおしてやる!という意気込みで頑張っている私であるが、今日もまた面白いものを発見してしまった。

 幕末の動乱の折にどうも、ちょびっとだけ活躍したらしい久留米藩士「大塚敬介」が何者なのか、そのヒントになりそうな資料を見つけたので紹介してみる。

 今回、大塚敬介(あるいは敬助)が久留米藩の系譜や、分限帳に登場しない人物であることがわかったのだが、日田系大塚氏のついて調べているうちに、変なデータに行き当たった。

 それが、東京大学の資料で、

 「大分県下幕末維新期史料の調査」なるものである。(東京大学資料編纂所)
 http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/syoho/36/saiho_OITAKE~2.HTM


 長いので、「大塚」で検索をかけると、こんな箇所がある。

 元治元年8月1日の記事で、

「一、久留米飛脚大塚慶助去ル十九日夕京都発足、同廿日大坂着、直様乗船、同廿一日安治御出帆、昨廿六日御着船上陸、直ニ久留米江出足仕候」

と書いてある。

久留米・・・・大塚慶助? 怪しい。怪しすぎる!


 もちろん、この人物の名前が出てくるのはこの箇所だけなので、だからなんだと言われればそれまでだが、大塚敬介が、禁門の変にて朝廷に意見書を提出したのが


 元治元年(1864)7月17日


なのである!!

 
 つまり、ここでわざわざ久留米の大塚慶助のことを書いたのは、意味があるわけだ。おそらく大塚敬介と大塚慶助は同一人物で、その身分は


 飛脚


だということになるのだ!っだっだっだだ。



 飛脚!というのは簡単に言えば、あれだ。佐川急便の車に描いてある「半ケツの人」である。

 もとい、江戸時代の、通信を担った仕事である。


 しかし、久留米藩士大塚敬介の正体が「飛脚」というのはピンとこない。


 そうハテナにつままれていたところ、こんな論文が飛び込んできた!


 「幕末から明治初年にかけての久留米藩飛脚 小川喬義」 日本経済大学
http://wrs.search.yahoo.co.jp/FOR=Dg2jF1tV3ihtMSGnIfkoiSC2apfLI5PZCbk1j14i2h3bX6S8z1DX9IjeV0GKGBRFrTCxY9pHC7Mq74sGLrLfPI6jXN_yERgWMIE7uSMD_TjCdBOU.Y54BVP02xnRb43D9ruar419mFqR4JvqJxdBXJiIVvHKHCfWy4mxgwMFonmz2xfEfJoRM8m0wqz9Ik3kNiHu3zbd24O_RDEf.nMAPeECOEdCnE7e8Vl5eZRG2SsixsE025.xw0acB1Yjh5Z5pt6T9ObgET6BhHi33gNGnTZ.ztqDUHyH4VtrULpEKmhdUW2gAH._nu2A4RREZnPzoGX5S0yjeYIxOBPYZgg96mYfsJ1UERAnLrpvIxnkq8zSM14IS3xZixhrZGsGH8qXYSJKgfFx7jYYFr2UkiUYMGZiREAuhS6KNGKfhre_FonoWUxMVLtFsWMwZPQW/_ylt=A3xT6LSMqAVTum0AQIODTwx.;_ylu=X3oDMTEycTloYXRiBHBvcwMxBHNlYwNzcgRzbGsDdGl0bGUEdnRpZANqcDAwMTA-/SIG=16lfaerv1/EXP=1392980556/**https%3A//jue.repo.nii.ac.jp/index.php%3Faction=pages_view_main%26active_action=repository_action_common_download%26item_id=725%26item_no=1%26attribute_id=22%26file_no=1%26page_id=4%26block_id=80


 PDFファイルになっているので、ぜひ読んでみてほしいのだが、この論によると、「久留米藩飛脚」という仕事は、「筑後飛脚」と呼ばれたりもしたらしい。

 そして、この飛脚の位置づけがおもしろい。

 論の中では、当時の飛脚としての仕事の記録が載っているのだが、彼らは「久留米様御飛脚様」という扱いを受けているので、

 久留米藩の公的飛脚

であったことが想像できるわけである。


 なるほど、ふつうの飛脚とは異なり、藩の公用を仰せつかっているわけで、この論には面白いことがいっぱい書いてある。

 たとえば、便ごとに旅館代や、ろうそくや笠などの費用、人足の労賃や馬の経費などもカウントされていて、それらの領収書を全部持って帰って監査を受けなくてはならなかったりするわけだ。

 となると、単に下請の「飛脚」ではなく、完全に「公費出張」みたいな感じで動いていることになり、久留米から大阪・東京まで4人チームで行き来しまくっていたらしい。

 
 ちなみに、この人の論文は、自分の曽祖父の家のふすまの下張りから発見した「久留米藩飛脚小川源右衛門」の書付をもとに書かれているらしい。

 誰もがやっぱり、先祖のことを調べてみたいものなのだ(^^



 さて、大塚敬介(慶助)が久留米藩飛脚であったとすれば、幕末の情勢について最新の各地の情報をまさに身をもって体感したはずだから


「どけんかせんといかん」


と思ったとしても不思議ではない。そして、公的飛脚であったのなら「久留米藩士」(ただし、おそらくは下級武士の扱いであっただろう)として認識されていたとしても間違いではないと思う。


いやあ、歴史って本当に面白いですね。


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2014.5.8追記


 久留米にて新資料を見つけ、そこに大塚敬介についての記載があったので紹介しておく。


 『久留米人物誌』 篠原正一 久留米人物誌刊行委員会 菊竹金文堂S56


によると、大塚敬介は

■ 久留米藩士で漢学者、安政ごろから家塾を開く

■ 元治元年9月の第二次小倉出兵の際に、自分の槍・甲冑を持参したいと出兵を拒んだので録を奪われて謹慎をくらった。(久留米小史)

■ のち、家禄は戻るが左幕派として明治2年蟄居させられる。

■ 明治4年生葉郡吉井町に家塾を開く。

だそうである。



 この資料により、年代的なことを付き合わせると、問題点があったため当記事の一部を削除した。(修正部残している)




元治元年7月17日に大塚敬介が朝廷に意見書提出。

元治元年8月に大塚慶助の記事があるのだが、「去る19日に京都を出て、20日に大阪、26日に船がついてそのまま久留米へ」と書いてあるので、やっぱり朝廷に意見書を提出した大塚敬介のことで合っていると思われる。

元治元年9月には、処分を食らう。


という一連の流れから考えると「久留米飛脚大塚慶助」という記載は、身分を示すのではなく、


久留米藩飛脚便(同行)にて、大塚敬介が移動した


というニュアンスだと考えたほうがよさそうである。


 現代語に直せば

「在来線で行ったんじゃなくて、新幹線で行ったよ!」

という雰囲気だということではないか?!




2014年2月19日水曜日

<41>わがままは男の罪。そのとぉーり!

 混迷と迷走の果てにたどり着いた、大塚一族の謎に打ち震えている昨今であるが、みなさんいかがお過ごしであろうか?

 ・・・・・・まあ、もう少し明解に謎が解けるかな、と思っていた私が「あまちゃん」だったわけだが、それにしてもひどいものである。


 たとえば、久留米藩三百石の「竹ノ間組」大塚氏なんかは、もう少し古くから有馬氏に仕えていたのだろうと思っていたのだけれど、どうも違うっぽい!


 あれから「碁石」紋について調べているが、まだわからないし、困ったものだ。


 ところが、先入観を外してこれらの御家中系譜群を読んでいると、面白いことがわかってきた。


 まず、竹ノ間組大塚氏の項であるが、大塚伸右衛門が宝暦5年より前に、「越後日田」で生まれたとある。

 これは、まず誤記がある。越後に日田はないし、むしろ日田といえば「豊後日田」である。これをなぜ「越後」と書いたのかは、多少なりとも理由がありそうだ。



 現在大分県の日田地方は、筑後川水系ということで、筑前筑後とつながりが強い。なので、地理的には、日田と久留米の関係性があってもOKなのだが、問題は略系譜の記載である。



 日田藩というのはちょっと変わった運命を辿っていて、領主がころころ変わっているのだが、気になるのは、最後の藩主「松平直矩」の動きである。


 ウィキペディアより 松平直矩
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E7%9B%B4%E7%9F%A9


 徳川家筋の松平氏なのだが、もともと播磨姫路藩主から、越後村上藩主になり、その後「越後騒動」というお家騒動があって領地を減らされ、「豊後日田」に国替えになった、というのである。

 略系譜筆者が、思わず「越後日田」と書いてしまいそうな、そういう素地があることがわかるというものだ。

 そして、日田地方はもっと面白いことに、このあと「引越し大名」こと松平直矩がまた転封になってしまい、その後は最後まで「天領(幕府直轄地)」になったというのである。



 ウィキペディアより 日田藩
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%94%B0%E8%97%A9


 なんとなく、「越後日田」のイメージがついてしまった原因が、この辺にありそうではないか。

 ちなみに、伸右衛門の子、平十郎が宝暦5年(1755)に竹の間組に勤めることになったとき、日田は既に天領なのだから「天領日田」としてもいいはずである。

 それなのに「越後日田」と書いたのは、単なる誤りもしくは、松平直矩の動向をイメージして、それに引きずられたと考えられまいか?



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 さて、その大分県日田地方である。なんとここには現在にも「大塚」さんが多く住んでおられるのだが、日田地方と大塚氏のからみ具合が、なんとも怪しい感じで面白いのである。


 まず、大塚伸右衛門の話である。彼が仕えた、代官岡田九郎左衛門の前任者岡田庄太夫というのが歴史上稀に見る


悪代官 (おぬしも悪じゃのう)


で有名であり、もう、あんなことやこんなことが起きているのである!


 詳しくは日田、岡田代官などで検索すればいろいろ出てくるので、ぜひ悪代官マニアの方はお調べ頂きたい。


 ちなみに岡田九郎左衛門の赴任については

 別府大学  「村明細帳と村鑑帳の研究」 佐藤満洋 さん
 http://bud.beppu-u.ac.jp/xoops/modules/xoonips/download.php/kc12102.pdf?file_id=6515
 
 の論文に詳しい。



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 で、その大分県の「日田」地方なのだが、ここにまた謎の点と線が存在するのである。

 竹の間組「大塚伸右衛門」の出身は日田である。元の主君が幕府代官岡田九郎左衛門であることは、まあ良いとしよう。



 次に、中小姓組「大塚九兵衛」の項を見てほしい。この一家は、代々九兵衛を名乗っているようだが、もともとの苗字が

 財津

になっている。

 一郎でも和夫でもいい、とにかくこの大塚氏は「もと財津氏」なのである。


 そして、財津氏とは、一体何者なのか。これも九州地方の方ならよく知っていると思うが、財津氏は、そもそも九州土着の士族で、

 日田氏

がルーツなのである!バババーン!


 ちなみに、本当に参考程度だが、財津一郎さんも財津和夫さんも熊本県がルーツであり、九州人である。


 日田氏-財津氏のつながりについては、


 やっぱり 播磨屋さんのサイト に詳しく載っているのでご参考まで。
 http://www2.harimaya.com/sengoku/html/hi_zaitu.html


 こちらのサイトによれば、最終的に熊本細川藩に仕えた財津一族の話が載っているが、もともとを言えば財津氏は「日田」地域が発祥だと考えられるわけである。


 とすれば、である。竹の間組の大塚氏も、中小姓組の大塚氏も、実は日田・財津系の大塚氏であり、広い意味で同族の可能性がある、といえないか?


 このあたり、系譜だけでは読み取れない「親族関係」や「養子関係」があったのかもしれないし、なかったのかもしれないが、なかなか面白そうだ。


 おーい!赤松氏流大塚氏はどこへいったんだー!


 播磨大塚氏はどこへいったんだーだっだっだだっ♪(by大塚愛)



 しかし、久留米藩の大塚氏が少なくとも2家、大分日田にゆかりがあることがわかった以上、このラインも捨てがたい。

 もとはといえば、寛政譜に「抱き茗荷大塚は赤松氏流」なんて書いてあるのがいけないのだ!

(↑逆切れ)

あれにかなり惑わされてるかもしれないぞ!


・・・・・・まあ、それはともかく、いっそう混迷の度合いを増したわがルーツ探しの旅であるが、


いつもの締めで今回も幕を閉じる。


大分県の大塚さん!ぜひ家紋を教えてください!







2014年2月17日月曜日

<40>またまた迷宮へ?! 久留米藩大塚氏の真実!

 しばらく、ブログの更新をしていなかったのは、実は資料の到着を待っていたのである。

 その間、別の大塚氏について調査を進めてもよかったのだが、大雪がまた降ったので、右往左往していた。

 関東のほうでは、えらいことになっているらしいが、北海道暮らしの長かった私は、いちおう雪には慣れているので、なんとか「ノーマルタイヤ(ただし四駆)で乗り切った!

 
 さて、その待っていた資料と言うのは、久留米藩に伝わる「略系譜」である。


 本日、それを読むことがついに叶ったので、さらなる迷宮!いや、冥府魔道の入り口へ、みなさまを案内する次第である。大五郎ーっ!


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 久留米藩の文書は、篠山神社蔵を経て、現在久留米市立図書館に収蔵されており、九州大学にもマイクロフィルムがあるらしい。

 今回、私が拝謁至極に存じたのは、久留米市立図書館版の以下の資料である。


①(久留米藩)御家中略系譜

②(久留米藩)中小姓御徒士中略系譜

③(久留米藩)正徳略系譜


の3つで、うち、①と②はかなり濃い内容なので、実に面白い。


 結論から言おう!

 久留米城下図や分限帳に載っている竹ノ間組の大塚氏と、中小姓格の大塚氏のおおむねの系譜はわかった。

 その他、もう一家の大塚氏のこともざっくりとわかった。

 しかし、その調査結果が、わが一族との関連性において、さらに混迷を極めてしまったのである。


 
 もう一度結論を言おう!


 まったくわけがわからなくなってしまった!というのが近い。たぶん。


 誰か!助けて~。


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 それでは、上記3点の資料から判明したことを、かいつまんでお送りしようと思う。当然、大塚さんのプライバシーのこともあるので、特に明治近くのことは伏せておくがご了承願いたい。




【大塚氏】 竹の間組に属した、馬廻り格の300石大塚氏 (御家中略系譜より)


 家紋 「丸のうち大古文字」


■ 伸右衛門 生まれは越後日田、御代官岡田九郎左衛門に仕える。 

     
   - 平十郎 (宝暦5年竹ノ間組) ※分限帳に名前がある


  (以下略)





【大塚氏】 中小姓組の大塚氏 (中小姓御徒士中略系譜より)


 家紋 「碁石」 「丸のうち三割松」


■ 財津九兵衛 - 林賀 (有馬頼元の時代に、坊主)


  - (中略) - 九兵衛 ※分限帳に名前がある。






【大塚氏】 その他、禄高など不明 (正徳略系譜より)


 家紋  不明


■ 三郎兵衛 拾五人扶持  -  丹治 - 狩之助  - 友弥 - 長蔵 


 (年代不明)


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 残念なことに、以上の資料とわが家系をつなぐ「名前」を見つけることはできなかった。そして、これまた迷宮入りなことに、歴史上明らかな人物

 大塚敬介(助)
 大塚太蔵

についても、関連のありそうな記載を見つけることができなかった。

 
 その他、分限帳に名前がある、大塚忠兵衛、大塚処平、大塚陽次郎、大塚福蔵などについても、上記資料には名前がなかった。


 
 それより何より、一番たまげたのは


「家紋 碁石」ってなんだ!?


 ちょっとばかし家紋には詳しいつもりでいたが、「碁石」という家紋を知らないし、ネットで調べても平安紋鑑でしらべても載っていない。

 あるいは他の家紋の別名なのかもしれないが、全くもってわからない。


家紋 碁石について知っている人!ぜひメールをお願いする!






2014年2月10日月曜日

<39>播磨後藤氏の詳細について

 姫路香呂地区の大塚氏について詳しい方から、播磨後藤氏について詳しいことをいろいろ教えていただいたので、その概略をまとめておく。

 より具体的には、黒田藩や有馬藩との関わりなどを丁寧に調査してゆく必要があるのだが、姫路の大塚氏についておおまかに掴むには、とても素晴らしい情報だったので、紹介したい。


① 打越の大塚氏について

 郷土史「うちこし」によれば、出雲国能義郡大塚村(現安来市大塚町)から戦国大名尼子氏に仕え、のちに赤松氏に仕えて播磨・美作・備前にとどまった、とのこと。

 
 ↑貴重な情報なので、これも追跡してみたい!


② 香呂の大塚氏について

 「播州後藤氏の栄光」(松本多喜雄)によれば、上野構後に建てられた泰法寺は、現在浄土真宗、もとは天台宗であったらしい。

 後藤将監は、いちど又兵衛たちと筑前入りをしているが、のちに戻ってきて上野蟄居後大塚を名乗ったらしい。

 ただ、大塚将監は又兵衛が亡くなったあと、九州大分へ移って死んだとの伝承もあるとのこと。大分に子孫がいるらしい。

 
 ↑筑前(黒田藩)との関わりは興味深い。でも久留米藩とは・・・?



 他にも、細かいことを色々と教えてくださり、実によく調査なさっておれらるので感服する次第である。こうやって、それぞれがいろんな観点やポイントで調べたことを寄せ集めていくと、どんどん面白くなるのでやめられません(^^


 歴史調査も、インターネットの発達で「個々の研究」から「ソーシャルネット研究」へと発展すると面白いですね。

 

 ここから先は、全国の大塚さんの情報が頼りです。いただいた情報は、整理しながら共有できるようにまとめてゆきますので、ぜひメールをくださいませ!



2014年2月9日日曜日

<おまけ>赤麗なる一族 それでもやっぱり赤松の子孫

 ソフトバンクのお父さん犬の声が「北大路欣也」さんであることは有名だが、「華麗なる一族」といえば、やっぱりキムタク万俵鉄平より、万俵大介、つまり父親のほうが存在感がある気がする。

 そのキムタクが猟銃で自殺するシーン。丹波篠山で死ぬことになっていて、ドラマではあまりに雪深い一面の銀世界が映し出されたので

「なんぼなんでも、篠山はこんなんちゃうわ!これは北海道やろ!」

と北海道出身の嫁と散々文句を言っていたら、やっぱり北海道ロケだった。



 ところがどっこい、2014年2月8日の大雪では、丹波篠山はこんな感じ。



 ・・・十分、雪深いやないかーい!


 まさに、キムタク日和である。


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 さて、無理やりなマクラはほっといて。

 赤松家は、播磨においてまさに「華麗なる一族」であることは間違いない。

 本流こそ没落したものの、誰もが憧れる今をときめく赤松氏であったから、当時の付近の武家たちはこぞって赤松氏に連なる系図を求めた。

 わが大塚一族も、そのあたりはちょっとだけミーハーなところがあったらしく、ちゃっかりと幕府には「村上源氏赤松氏流」だなんて報告してしまうところが、愛らしい。


 本当は、藤原氏流後藤氏の流れかもしれないのに。


 でもまあ、ちょっとだけ正直なところは、家紋を「左三つ巴」にしなかったあたりは、こだわりが残っていると言ってよい。

「実は違うもんね」

と子孫にかすかなメッセージを残してくれているようでもある。


 しかしである。私自身のことを言えば、大塚氏と赤松氏が数百年前どこで姻戚関係を結ぼうが、600年、700年も前の血筋より、もっと濃い血筋で

麗なる一族、赤松氏の末裔」なのである。


 うちのいとこ、赤松某さんは、遠いところでとても偉い人になっているらしい。それに引き換え、私は小さな存在として日々研鑽に励んでいるのだが、それはまあ、置いといて。

 
 以前の記事にも書いたが、うちの母の母の母は、赤松氏の娘である。


 いろんな流れで、その赤松さんの居城(いや、居宅)を、私が買うかもしれない、なんて話もあったのだが、残念ながらそれはなくなった。

 うーん、ある意味先祖代々の赤松氏の居城(いや、居宅)を買うのも面白かったかもしれない。



 母方の親戚というのも、これまた面白くて、いろんなエピソードがあるのだが、一番興味深いのは、

 うちのおかんと「愛と死をみつめて」の大島みち子さんは、ごく近い親戚


なのだそうだ。(そう、年配の方は知っているあの「ミコ」ですよ)


 1964年版テレビドラマでは、大空真弓さん

 2006年版では、広末涼子さん

が演じた、あの大島みち子さんである。



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 話は戻って、実は、つい数十年前の「赤松」の子孫である私なのだが、苗字は当然「大塚」なので、これまで大塚氏について語ってきた。

 逆に、母方の話をすれば、その「赤松」がどこの赤松かは、ズバッとわかっている。


 播磨屋 さんのサイト
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/ak_arita.html

に詳しい「在田赤松氏」は、赤松本流に近く、現在の多可郡「野間山城」に拠点を持ち「在田氏」を名乗った。

 我が先祖の「赤松氏」は、在田姓ではないものの、赤松姓のまま現代まで続く、この「在田殿」の支流である。

 野間山城の様子は



 城めぐ.com さんのサイト
 http://www.siromegu.com/castle/hyogo/noma/noma.htm


 あるいは


 城郭ドットコム さんのサイト
 http://www.joukaku.com/nomayama.html


 に詳しいのでご参照いただきたい。


 ちなみに、うちの母親の旧姓は、赤松とは何の関係もないが、この赤松家と母親の一族とはずっと親類なので、うちのおかんの親類が、今度は赤松家に嫁に行ったりもしている。


 なので、私のいとこも赤松さんなのである。



 しかしまあ、戦国時代に「うちのおとんの先祖」と「おかんの先祖」が播磨をめぐって


 壮絶な夫婦喧嘩


を繰り広げていたかもしれないし、


 仲むつまじい姻戚関係


を結んでいたかもしれないし、楽しい想像はふくらむばかりである。


 ただ、ひとつ言えるのは、「おとんよりおかんの方がいつも強かった」のは、



赤松家が主君筋だった、大塚氏の運命



ゆえかもしれない。輪廻だ輪廻。因果だ因果!



 以上、こぼれ話でした。







 
 
 





2014年2月8日土曜日

<38>有馬氏と大塚氏を結ぶ「点と線by松本清張」

 松本清張「点と線」は、福岡の物語である。福岡県香椎の海岸で見つかった情死体をめぐって、博多のベテラン刑事「鳥飼重太郎」が、夜行特急「あさかぜ」を使ったトリックのアリバイ崩しをしてゆく、という名推理小説である。

 ちなみに、横溝正史だの、松本清張だの、つぎつぎに古いネタを投入しているが、私はまだ30代のピチピチであることを告白しておこう。

 30代だが、幼稚園児のころから、ポプラ社の「ルパンシリーズ」「少年探偵団シリーズ」「ホームズシリーズ」を次々に読破し、それから江戸川乱歩の変態チック小説で中学時代は萌え、気がつけば赤川次郎もほとんど全て読んでしまったという伝説を持つとか持たないとか。


 加えて、亡き父親が、今度は「時代小説」マニアであったため、「桃太郎侍」といえば、高橋英樹も好きだが

 山手樹一郎(原作)

のほうがやっぱり好き、という変態息子ぶりを発揮している。ちなみに、時代劇俳優では

 市川雷蔵 円月殺法

に目がない。


 なんのこっちゃ。


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 今回も、ツカミが冴え渡ったところで、本論に入る。

 後藤将監あらため大塚将監の一族が黒田家臣になる、という接点ははっきりわかる。そもそも後藤又兵衛は、まるっとごりっと黒田官兵衛の一番弟子みたいなものである。

 後藤本流は、秀吉播磨攻めで滅んだが、一族がいろんな形を経て黒田家に従っていったことは理解しやすい。


 しかし、んがしかし、である。


 問題は久留米有馬家のほうだ。有馬氏と大塚氏を結ぶ接点はどこにあるのか。

 もちろん、我が一族がもと後藤氏だと仮定しての話だが、それはわかった上で、この謎を解く「点と線」を探ってみたい。


 その謎は、おそらくこうだ。


 久留米有馬藩、初代藩主である有馬則頼は、播磨「満田城」(現三木市志染)に生まれる。それから、彼が使えた主君が、


 ウィキペディア「有馬則頼」によれば


 三好長慶、そして「別所長治」である。


そしてなんと、則頼の嫁はんは、別所長治のいとこの「別所忠治」の娘なのである。




 ウィキペディア「別所長治」



 別所氏は、当初織田信長に従っていたものの、途中で反逆する。そのため、別所氏は三木城に篭もって秀吉から攻め立てまくられ、滅ぶのだが、この期間、又兵衛の父「後藤基国」は別所氏に仕え、それから小寺氏に仕えている。


 ウィキペディアの説明では、なんと後藤基国が、別所長治の子を逃がした、との逸話も載っている。

 ここで、線と点が繋がったわけだ。

 
 つまり、後藤氏も、有馬氏も、当初別所氏に仕え、別所氏が信長に反逆した時点で、有馬氏は秀吉方についたため戦功を挙げ、後藤氏はそのまま別所方にいたが、途中で別所の元を去り、小寺氏に付いた、ということになる。


★播磨後藤氏については以前にも紹介したが、

 黒田前史 さんのサイトにとても詳しい説明がある。
 http://www.geocities.jp/kurodazensi/361.html


 ここでは、播磨後藤氏と「別所氏との接点」があったかもしれないが、「別所氏に仕えた」のはおかしい、という指摘がある。
 

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 他の可能性も探ってみる。

 大塚将監は、「播磨鑑」によれば赤松の家臣ということになっている。つまり、置塩殿(赤松本流)の部下というわけだ。このころの後藤又兵衛、また黒田官兵衛も、あるいは小寺氏も、みな置塩赤松氏の軍門に存在している、ということを頭に入れておこう。

 しかし、この頃の赤松氏は、本流とはいえ、既にかなり狭い領域しか支配していない。

 別所・宇野・龍野赤松などは好き勝手やっているし、小寺氏ですら、この時はまだ置塩殿を立ててはいるが、後に裏切って毛利方に付くことになる。


 ヒントはやはり「播磨攻め」であろう。置塩赤松氏は結局信長に従い、現地指揮官としてやってきた秀吉に屈するわけで、そのとき播磨の道先案内の功を立てたのが「有馬則頼」ということになのだ。

 秀吉は、現地の小さな城を一つずつ、支配下に置いていく。当然、そこには有馬氏がいる。そういう流れの中で、大塚氏が有馬氏と出会っても、不思議ではない。そもそも、有馬氏から見れば、置塩赤松とて同族なのである。


 
 後藤大塚氏と有馬の接点は、どうやらこのあたりにあるのではないのか?


 赤松系一族が「誰につくのか」「誰と戦うか」でもめにもめたこの時期。まさに、NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」ではこのへんの話をやっているのだが、後藤大塚一族が、ここで小寺(黒田)家臣と有馬家臣に分かれたと考えることは、それほど変ではないと思うのである。


★実は、後藤基国の行動は、全体によくわかっていない。なので、史実に登場する又兵衛の父というのは、基国かどうかも怪しいところもある。しかし、概ね「播磨後藤氏」の動きだと仮定しても、話は合う。又兵衛たち「後藤一族が、おおむねこう動いた」という視点でざっくりおさえるほうが正しいと考える。



<<余談>>

 NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」で、小寺・黒田親子が「おのれ赤松ぅ!」と何度も叫んでいるのだが、あれはやっぱり違和感がある。浦上氏との婚礼の日におたつが殺されるエピソードで、赤松政秀が攻めてきて、「おたつ」は殺されてしまうのだが、あれは龍野赤松氏であり、「おのれ政秀!」的な感じのほうがいいのかな、と思う。

 赤松、という呼び方で言えば、小寺自身も赤松の親類であり、それよりも置塩赤松宗家に対してちょっと気がひけるというか・・・。



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 そして、今回もうひとつの「点と線」をお届けしたい。

 それは「後藤将監がなぜ”大塚”を名乗ったか」である。


 大和國古墳墓取調室 さんのサイトを見てほしい。



 ここには、姫路市北東部の古墳についてまとめて紹介してあるのだが、ここには全長40mクラスの古墳が山田町に2つあることが載っている。

 諏訪の岩穴古墳・御大師山古墳のいずれかをもって「大塚」と名乗った可能性はある。

 あくまで可能性、ではあるが・・・。


 黄門ちゃま漫遊記 さんのブログに訪問記あり。


 諏訪の岩穴古墳は、玄室そのものが神殿になっているという珍しい神社である。上野構からすぐ近くにある。


山歩きろく さんのブログに訪問記あり。


 こちらは、御大師山古墳の訪問記。梅林寺という天台宗の寺の裏山に当たるのだが、


天台宗兵庫教区 さんのサイトより「梅林寺」


 梅林寺そのものは、のちに移ってきたものらしいので、大塚将監の時代とは合致するかどうかわからない。梅林寺さんの由来には、もとの「梅林寺」は赤松の兵火に焼かれた、とある。

 この山(古墳)も、地元の民の崇拝の対象になっていたらしい。後藤将監が「大塚」と呼んだ塚に相当する可能性も捨てきれない。



 ちかいうちに、現地へいけたらいいなあ!






 





 





<37>「よし!わかった!」by等々力警部 姫路と福岡を繋ぐ点と線

 「犬神家の一族」といえば、最近では足を広げて逆さになっているパロディしかでてこないので、若い人などはオリジナルをそろそろ知らない世代に入ってきたかもしれない。

 その金田一耕助シリーズには「等々力警部」というおっちゃんが登場し、数々の謎・ミステリーに対して「よし!わかった!」と毎回ひらめくのだが、おおむね外しているというお約束の展開がある。

 ドラマ「TRICK」で、矢部刑事こと槍魔栗三助、いまの生瀬勝久がよく物まねをしているので、そっちを思い出す人もいるかもしれない。


 ・・・・・・なんのこっちゃ。


 いやいや、今の私の気分は「よし!わかった!」なのだが、もしかしたら、案の上外しているかもしれないので、自戒の意味を込めて今回の「ツカミ」はこんなところから。




 姫路の大塚さんにゆかりのある方から、さらに追加情報をいただいた。

 それによると、姫路香寺町・・・これも、正しくは「香呂」と「中寺」が合併して「香寺」なので、姫路香呂地区と呼ぶほうが正確であろう。

 もとい、その香呂地区の後藤氏と大塚氏は、やはり船津上野(現山田町)の大塚将監の子孫であるという伝承を持っているという。

 これは、実は私が「一番知りたかったこと」そのものなので、そうした伝承を教えてくださったことにとても嬉しく思っている。


 ★ ただし、家紋的には、「物証」がまだ出てきていないので、できれば「藤紋の大塚さん」とか「抱き茗荷の大塚さん」とか、そういった墓碑などが姫路で見つかればいいなあ、と思っている。

 その方からは、この他いくつかのヒントもいただいているので、また姫路へ足を運ぶつもりである。



 さて、ここから先は、等々力警部の名推理だ。できれば金田一耕介か、少年の推理といきたいところだが、まだまだ甘さを残しているかもしれないので、ご了承願いたい。

 

==========

 後藤将監は、後藤又兵衛の兄である。(いちおう。正確には、又兵衛の父なども、微妙にわからない部分があるらしい)

 播磨後藤一族の拠点は、族長という意味では、文明年間(1469-87)に後藤基信が現福崎町の「春日山城」を本拠とした。

(この城は、上野構からみれば、北にある)

 しかし、周囲には後藤氏の拠点がいくつかあり、南には「南山田城」がある。


丹波霧の里 さんのサイトに詳しい。
http://kirinosato.fc2web.com/HARIMA-himejihigasi.html


 南山田城は、後藤将監基国(親父のほう)と又兵衛たちの拠点であったらしい。最終的に春日山城、南山田城ともに滅び、又兵衛だけは黒田官兵衛についていった。


 その後の後藤氏は、歴史上は消息不明である。基国の息子の大塚将監が上野構へ蟄居したことが記録に残っていることから、武将としての後藤氏は滅んだが、子孫はその土地に残ったり、秀吉の播磨攻めによって、秀吉方についた軍に吸収されたりしたことと思われる。


 播磨後藤氏の拠点は、もうひとつある。

 
 姫路市教育委員会文化財課 「文化財見学シリーズ 香呂地区をたずねて」 より
http://www.city.himeji.lg.jp/var/rev0/0054/2223/60.pdf


 この資料によると、

①後藤氏の拠点は香呂地区の「矢田部城」で、14世紀に築城。その後置塩殿赤松氏に仕える。

②矢田部地区後藤氏の墓所があり、室町・戦国期のもの。

③後藤氏は、鎌倉末期文保元年(1317)に、多可郡安田庄より当地へ移った。

ことなどがわかる。


 ここからわかるのは、恐らく春日山・南山田両城よりも、矢田部のほうが後藤氏の拠点として古そうだ、ということである。

 ★ただし、3つの拠点は地理的にとても近いので、一帯を治めていたという意味では、おなじ地域といってもよいくらいである。

 
 
 そして、新たな発見があった!


 それは、上の丹波霧の里さんの記述を読み進めてゆけばわかるのだが、なんと後藤又兵衛が山田町の「福田寺」を崇敬し、その寺が「天台宗」だと言うのである!!バババーン!


 まさに「よし!わかった!」、今風に言えば「キターッ!」である。


 天台宗兵庫教区 さんのサイトより 「福田寺」
http://hyogotendai-yb.net/jiin_daizukan/file/01/132hukudenji/132hukudenji.html


 あろうことか、当時この寺は「後藤一族の菩提寺」であったらしい。これで、「抱き茗荷」との接点が見つかったと言えないか?


 後藤氏はおそらく本家紋は「下がり藤」である。だが、当時の武家では「茗荷=冥加」にあやかっって「生き残る」ために「茗荷紋」が流行した、とも言われている。

 不思議なことに、下がり藤と抱き茗荷は、基本的図形は同じで、とても似ている。

 又兵衛本人はともかくとして、後藤氏もしくは大塚氏が「抱き茗荷」に紋を変えた、もしくは併用したことは、想像に難くない。


 三潴に「下がり藤」大塚氏がおられることも、その当たりを微妙に突いているようで、くすぐったい!

 そもそも三潴の大塚氏が下がり藤であること自体が、本姓は「藤原氏」であることを示す傍証ではないのか、というわけだ。



 等々力警部の推理はこうだ。


 久留米藩大塚氏、黒田藩大塚氏とは、実は同族で、もとは後藤氏である。ついでに、幕臣大塚氏も入れとけ!

 寛政譜の「村上源氏赤松支流」とは、赤松家臣団であることを示す。(血脈ではない)

 そして、大塚氏の本姓は、藤原氏である。



 信じるも信じないも、あなた次第だ。


(というより、これより、この仮説の検証作業に入ることにする)






 


2014年2月7日金曜日

<36>姫路の大塚さんより新情報

 「大塚さんの、大塚さんによる、大塚さんのためのブログ」を目指している当ブログだが、また新しい情報が入ったので、ご紹介しておきたい。

 大塚さん、にゆかりのある方が情報を下されば下さるほど、より「大塚祭り」になってゆく当ブログは、いよいよ皆さまのお力添えで成り立っているところ。感謝!m(_ _)m


 さて、先日私が調査に行った「姫路市香寺」地区の某墓所では、「蔦」紋しか発見できなかったのだが、メールを下さった方の情報では、同じ地区に



雁金(かりがね)



紋の大塚さんがおられるという。それも一定数!


 その方の情報では、香呂・香寺溝口の大塚氏はもと同族で、慶長(1600~)ごろ、香呂から溝口地区へ移ったらしいとのこと。

 さらに、香寺の大塚さんには


左二つ巴

三つ柏

違い矢


などの家紋があるらしく、謎が謎を呼びすぎる展開となっている。


 地域の特性として、これだけ近い集落に住んでいる大塚さんの出自に家紋のバリエーションが多いということは「出自がそれぞれ異なる」というのではなく、「分家ごとに家紋を変えた」可能性もある。


 そうなると、さらに、「現代の家紋」だけから数百年前の同じ祖先をたどるのは「厳しい」のかな、と思えてくるので、もう少し文書的資料を集めたいところである。


 ともかく、まずは「久留米藩有馬家臣大塚氏」「福岡県黒田家臣大塚氏」という九州系大塚氏と、「兵庫県赤松家臣大塚氏」という姫路系大塚氏をつなぐ、という壮大なテーマで進行中の当ブログ、


 みなさまからの情報、お待ちしております!


 もちろん


 その他全国の大塚さんも、どこからでもOKですので、情報お寄せくださいませ!





2014年2月5日水曜日

<35>久留米城図を読む<追記あり>

 先日より意気消沈していた私であるが、とても嬉しいことに三潴地域の「大塚」姓について知っておられる方からご連絡をいただき、かなり貴重な情報を教えてもらうことができた。

 なんでも、三潴地域に「下がり藤に抱き茗荷」の家紋を持つ大塚氏がおられる、とのことで、その一族も、わが実家と同様に「武家」である、あるいは藩主に近しい立場だったとの伝承を持っておられるとのことだった。

 ぶっちゃけ、とても嬉しくて泣きそうである。


 というのも、少なくとも数百年の時空を超えて、かつての親族や血の繋がったどなたかとこうして交流できるということは、素晴らしいことだと思うからだ。


 そして、全然ルーツの異なる「大塚さん」たちがメールを下さることも、すごいことだと思う。なんと言っても、

 赤の他人

なのに、ただ苗字が同じというだけで、交流しあえるなんて、凄いことではないか。


 インターネット全盛の時代において、離れた他者と交流することは簡単だが、こうして姓・氏や家紋で繋がることができるというのも、日本の素晴らしいところだと思う。

「mix氏」とか「家紋book」とか、苗字家紋別ソーシャルネットワークを作ってもいいほどである。



 さて、「下がり藤に抱き茗荷」の家紋だが、後藤将監から大塚将監への改名のことを考えると、藤紋から抱き茗荷の接点といえなくもないので、

非常に気になる!

ところではあるが、もう少し慎重に調査を進めようと心に決めたのであった。(一喜一憂して、喜ぶと、落ち込んだときかなり凹むから)


 ところで、下がり藤抱き茗荷の大塚さんたちにも気になるところの、久留米藩における「大塚氏」の立ち位置が少しだけ判明したので報告しておきたい。



 またもや国立国会図書館の近代デジタルライブラリーより、

 「久留米市誌 別冊」の巻に、久留米城下の絵図があったので紹介する。
 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1209649


 写真をめくっていかなくてはいけないので大変だが、コマ数でいえば「56~59コマ」を見てほしい。

 これが江戸時代天保期の久留米城下の地図で、城をはじめ藩士たちの居宅が書いてあるのである。

(実は、該当の文書には他の時代の地図も収録されているのだが、解像度の関係で見難いので、ここでは天保時代の地図を読んでみる)


 コマで言えば、58コマをズームして見てほしい。


 久留米城本丸御殿から、下に向かって見ていくと、重臣たちの居宅が区割りで描いてあるのがわかると思う。

 その下の島が、上級家臣の居宅であり、ここには、右からざっくりさらっていくと、もちろん「有馬」をはじめ「淡河」「小河」「本庄」などの、このブログではおなじみの

 赤松系苗字

が散らばっている。

 そして、その堀を挟んで一周外側に「大塚」氏の居宅があるのがわかるだろうか。

 (城から見るとななめ左下)

 道を挟んで向かいには「赤松」の苗字も見える。

 
 敷地の広さと城への近さから考えて、このあたりが中~上級家臣の邸宅で、おそらくこの大塚氏が「竹ノ間組」格の大塚家であろうと推測できる。


 もう一軒、59コマの中央のごちゃごちゃした辺り、中・下級藩士の居宅として「獄屋」の左あたりに「大塚」氏の居宅がある。これが、中小姓格か、徒士格の大塚氏のものと考えられよう。

 (大塚の書き方が、「塚大」と右からかいてあるので注意)


 こうしてみると、久留米藩分限帳の記載と概ね一致することがわかるのだ。


 もちろん、我々は久留米城下でなく、離れた場所に実家があるので、「彼らの子孫」ということだけしか言えないのであるが、それでも、いちおう


 ご先祖さまが住んでいた場所


がわかっただけでも、嬉しいというものだ。


 というより、現在の久留米市の同じ場所に「大塚さん」が住んでいたらどうしよう?!

 そんなことを想像したら、ドキドキしてしまうと同時に、本家本元長男の家系であろうから、我々末端の者は、ちいさく柱の陰から見るだけにしておこう。



<追記>

 その後、前述の方より連絡があり、より詳しくは、「下がり藤の大塚氏」であり、「抱き茗荷」の家との婚姻で「下がり藤抱き茗荷」が生まれたとの旨、お知らせいただいた。

 合体系の家紋は、後世になって何らかの由来で成立した可能性が高いため、そうした「いわれ」がはっきりわかるのは、とても貴重なことと思う。

 しかしながら、当ブログ的には、後藤氏-大塚氏の線を念頭に置いているので、これもやっぱり貴重な情報である。

 後藤将監あらため大塚将監が「下がり藤」であったとすれば、「下がり藤の大塚氏」がいてもおかしくないし、やはり播磨と筑後の接点と考えられるからである。



2014年2月4日火曜日

<34>原点に立ち戻ってみた

 前回の結果を受けて、袋小路にはまったような感じになっている私ではあるが、ここは原点に立ち戻ってみようと思う。

 というわけで、今回は全国の「大塚さん」にはあまり関係のないローカルなお話をしておこう。


① 我が実家の墓碑写真が出てきた。

 父の長兄が亡くなったおりに、実家の墓碑の調査をしたことは以前に当ブログに書いたが、そのときの写真を膨大なファイルの中から探してきたので掲載しておく。

 


  墓そのものは、大きな塔のような感じで墓所の中心に立っていて、この周囲に、小さいお墓や碑が点在している。

 逆光で見えにくいが、「大塚家之碑」と書いてある。

 
 家紋は、かなり雨風に晒されて痛んでいるが、「抱き茗荷紋」であることがわかる。

 浮き彫りになっているので、この紋が「丸に抱き茗荷」なのか、丸部分が浮き上がっているので「抱き茗荷」を意図しているのかはちょっとわかりにくいが、よく見ると、筋彫りは茗荷の部分にしかないし、丸部分の幅が均等ではないので、「丸に」を意図していない可能性もある。

 口伝では、我が家の家紋は単に「抱き茗荷」とだけ聞いている。



② 祖父の状況が、概ねわかってきた。

  兄弟姉妹から、祖父について聞かされてきたことが概ねまとまってきたのだが、個人情報もあるのであまり書けないが、軍人ではないのに、軍刀や空気銃を所持していたらしいことや、バイオリンなどを弾いていたことなど、戦中戦後にかけて基本的に「ええとこの子(良家の子弟)」っぽい雰囲気を醸し出していることがわかった。

 久留米藩士の家柄という話は、おそらく誤りではないと思われる。



③ 「久留米藩御家中略系譜」「正徳諸士系譜」なるものがあるらしい。

 これも遠方のため確認できていないが、九州大学や久留米の図書館に篠山神社文庫に寄贈された有馬家文書の類があり、その中に、家臣の系譜を略歴したものがある。(マイクロ含む)

 この文書を閲覧できれば、大塚氏の久留米藩における系譜がわかる可能性もある。



 とはいえ、当家のルーツ探しは、一時停滞気味・・・。
 


2014年2月3日月曜日

<33>事件は現場で起きているんだ!~姫路大塚氏の真実解明!~


 今回は、かなり衝撃的な事実を発見してしまい。実は意気消沈している私である。


 というのも、日曜日の休みを利用して、なんと姫路縦断ツアーを決行。とにかく、現地にいかないと始まらない!ということで、行ってきたのだ。




ノイシュバンシュタイン城!!・・・・・・なんでやねーん!
 
姫路近辺の人にはおなじみ、播磨のノイシュバンシュタイン城こと「白鳥城in太陽公園」


 実は、この城、大塚重太夫の構居裏の山に建っている!じゃじゃーん。


 というわけで、まず訪れたのは姫路市打越地区。家族サービスの一環として、白鳥城で遊んだあと、姫路市立峰相小学校近くの「岩崎構」の調査をしてきた。

 事前の調査で、なんと岩崎構周辺に「大塚さん」が何軒も住んでおられることがわかっていたので、周辺を歩いていろいろと訪ねまわったわけだ。


 その結果、以前話に出ていた「大塚三郎右衛門」の顕彰碑を見つけたり、



(たぶん、近くに寄らないと写真では読めない・・・)

地元の大塚さんの墓所を発見したりしたのだが、結果として衝撃の事実を知ってしまったのである。


 それはなんと!打越地区の大塚重太夫の子孫と思われる大塚さんの家紋が、


片喰(かたばみ)


だったのである!!!ガガーン!(正式には、「丸に片喰」である。地域の氏族の方の墓所なので、目視確認のみ)



 残る、一氏。後藤将監あらため大塚将監の住んだ「上野構」の地域には、残念ながら現在大塚さんがほとんど住んでいないため、そこからすぐ近い「香寺・香呂」地区へもそのまま走ってみた。

 車で香寺付近へ近づくと、商店や会社の看板に、「大塚」の文字がとたんに増える。この地域にも一定の大塚氏が根付いているのが体感できるというものだ。


 ところが、この地区の大塚氏の家紋は


蔦(つた)


で、これまた違ーう!!!!(これまた、正式には「丸に蔦」で、こちらも目視確認のみ。)


 後藤家出自なら、藤紋でもよさそうなものだが、もちろん香寺の大塚氏が、後藤家あらため、ではない可能性もあるので、


謎がさらに謎を呼ぶ事態


になってしまった。


==========


 愕然とした結果に、私は叫んだ。

「所轄は下がって!捜査を立て直すわよ!(by真矢みき)」


・・・・・・あらためて、整理しよう。


 岩崎構・大塚重太夫の子孫は、「方喰」紋。

 上野構・大塚将監の子孫と思われる近隣の大塚氏の家紋は「蔦」紋であった。


 当然、600年~700年近く前のことを調査しているので、諸事情で家紋が変わっている可能性もないとは言えない。

 しかし、なんとなくすっきりしない。もしかしたら両大塚氏とわが家が関係するかもしれないが、しないかもしれない、という、つまり


さっぱりわからない


事態に戻ってしまった、というわけなのだ。


 あまりにすっきりしないので、帰宅そうそう私はぐっすり・すやすやと寝込んでしまった。そして、今日も元気に会社に出勤したので、


この事態を飲み込めないまま、とりあえずは調査停滞!


という状況で、本日はここまで!


 姫路の大塚さん!他の家紋の大塚さんがいたら、教えてください!(切実)







2014年2月1日土曜日

<調査中つづき>家紋「鶴丸」の大塚さんに新事実!

 以前に、家紋「鶴の丸」の大塚氏について記事を書いていたのですが、さらに新しい事実がわかったので紹介します。



 おさらいがてらに、前の記事はこちら



 和菓子屋の亀屋陸奥さん(大塚さん)の家紋が「鶴の丸」で、石山本願寺と関係がある、ということについては既に述べています。

 その傍証資料として、本願寺家臣の(家臣という言い方は変ですが、当時の本願寺は、武装集団としても一大勢力で信長の天下統一をてこずらせた)一覧に、大塚氏が存在する記事を紹介しておきます。

 
 武将系譜辞典 さんのサイトより


 ここに掲載されている大塚氏と、亀屋陸奥さんの先祖とが、何がしかの関係がある、と思ってよいと思います。


 さて、今回新発見になったのは、この「鶴丸」系大塚氏のそれ以前の動きです。本願寺門徒となってから家紋を「鶴丸」に変えた、ということは想像に難くないのですが、この「大塚氏」のルーツを探ると、意外なことがわかりました。


 姫路市教育委員会 文化部文化課 文化財見学シリーズ報 より


 この文書は、姫路市の教育委員会が出している地域の歴史、文化財を紹介した資料なのですが、このうち姫路市打越の「福乗寺」にこんな伝承があるというのです。


「織田信長の石山本願寺攻めに戦った大塚三郎右衛門に与えられた実如の文書が寺の宝になっている」


 この姫路市打越、実は大塚重太夫の構居があった岩崎構の場所で、福乗寺は、そこから十数メートルしか離れていません。


 ということは、大塚三郎右衛門は、おそらくこの地の出身で、本願寺攻めに際して石山本願寺に居たと解釈することができます。


 石山合戦は1570年からの10年間、実如存命は1458年から1525年なので、実際にはすこし時間軸のずれがありますが、「本願寺と大塚氏」の接点がこの地にあることは事実です。

 石山合戦のくだりが事実であれば、実如の文書は大塚三郎右衛門にあてて書いたものではなく、何らかの文書を「賜った」と見ることができます。

 あるいは、直接石山合戦に参戦したのではなく、その前段階として本願寺と信長が敵対していた時期の話と見ることもできるでしょう。


 ともかく、この打越から出た大塚氏が本願寺に入り、そこから「鶴丸」紋に変えてその後に続いている、という仮説が成り立つとすればどうでしょう。

 鶴丸紋の「大塚氏」は、もともと「加賀藩給帳」に記載があるのと、亀屋陸奥さんに残るのみで、そこから以前のルーツがわかっていません。

 歴史的には1488年から1580年にかけて「加賀一向一揆」が起こり、石山本願寺の降伏によって、加賀での一揆も収束した、という事実を見ると、本願寺と大塚氏の点と線が結ばれてゆきそうな気配がします。

 そして、その源流が、播磨・赤松系大塚氏である、という推測も、あながち的外れではないかと思うのですが、いかがでしょうか?


 ちなみに、今回登場した播磨の国、打越の福乗寺は、浄土真宗大谷派の寺です。

 そして、久留米藩内、三潴地域のわが実家の宗派も、浄土真宗大谷派なのです。これが単なる偶然なのか、それとも・・・。