おさらいがてらに、前の記事はこちら
和菓子屋の亀屋陸奥さん(大塚さん)の家紋が「鶴の丸」で、石山本願寺と関係がある、ということについては既に述べています。
その傍証資料として、本願寺家臣の(家臣という言い方は変ですが、当時の本願寺は、武装集団としても一大勢力で信長の天下統一をてこずらせた)一覧に、大塚氏が存在する記事を紹介しておきます。
武将系譜辞典 さんのサイトより
ここに掲載されている大塚氏と、亀屋陸奥さんの先祖とが、何がしかの関係がある、と思ってよいと思います。
さて、今回新発見になったのは、この「鶴丸」系大塚氏のそれ以前の動きです。本願寺門徒となってから家紋を「鶴丸」に変えた、ということは想像に難くないのですが、この「大塚氏」のルーツを探ると、意外なことがわかりました。
姫路市教育委員会 文化部文化課 文化財見学シリーズ報 より
この文書は、姫路市の教育委員会が出している地域の歴史、文化財を紹介した資料なのですが、このうち姫路市打越の「福乗寺」にこんな伝承があるというのです。
「織田信長の石山本願寺攻めに戦った大塚三郎右衛門に与えられた実如の文書が寺の宝になっている」
この姫路市打越、実は大塚重太夫の構居があった岩崎構の場所で、福乗寺は、そこから十数メートルしか離れていません。
ということは、大塚三郎右衛門は、おそらくこの地の出身で、本願寺攻めに際して石山本願寺に居たと解釈することができます。
石山合戦は1570年からの10年間、実如存命は1458年から1525年なので、実際にはすこし時間軸のずれがありますが、「本願寺と大塚氏」の接点がこの地にあることは事実です。
石山合戦のくだりが事実であれば、実如の文書は大塚三郎右衛門にあてて書いたものではなく、何らかの文書を「賜った」と見ることができます。
あるいは、直接石山合戦に参戦したのではなく、その前段階として本願寺と信長が敵対していた時期の話と見ることもできるでしょう。
ともかく、この打越から出た大塚氏が本願寺に入り、そこから「鶴丸」紋に変えてその後に続いている、という仮説が成り立つとすればどうでしょう。
鶴丸紋の「大塚氏」は、もともと「加賀藩給帳」に記載があるのと、亀屋陸奥さんに残るのみで、そこから以前のルーツがわかっていません。
歴史的には1488年から1580年にかけて「加賀一向一揆」が起こり、石山本願寺の降伏によって、加賀での一揆も収束した、という事実を見ると、本願寺と大塚氏の点と線が結ばれてゆきそうな気配がします。
そして、その源流が、播磨・赤松系大塚氏である、という推測も、あながち的外れではないかと思うのですが、いかがでしょうか?
ちなみに、今回登場した播磨の国、打越の福乗寺は、浄土真宗大谷派の寺です。
そして、久留米藩内、三潴地域のわが実家の宗派も、浄土真宗大谷派なのです。これが単なる偶然なのか、それとも・・・。
0 件のコメント:
コメントを投稿