先日より意気消沈していた私であるが、とても嬉しいことに三潴地域の「大塚」姓について知っておられる方からご連絡をいただき、かなり貴重な情報を教えてもらうことができた。
なんでも、三潴地域に「下がり藤に抱き茗荷」の家紋を持つ大塚氏がおられる、とのことで、その一族も、わが実家と同様に「武家」である、あるいは藩主に近しい立場だったとの伝承を持っておられるとのことだった。
ぶっちゃけ、とても嬉しくて泣きそうである。
というのも、少なくとも数百年の時空を超えて、かつての親族や血の繋がったどなたかとこうして交流できるということは、素晴らしいことだと思うからだ。
そして、全然ルーツの異なる「大塚さん」たちがメールを下さることも、すごいことだと思う。なんと言っても、
赤の他人
なのに、ただ苗字が同じというだけで、交流しあえるなんて、凄いことではないか。
インターネット全盛の時代において、離れた他者と交流することは簡単だが、こうして姓・氏や家紋で繋がることができるというのも、日本の素晴らしいところだと思う。
「mix氏」とか「家紋book」とか、苗字家紋別ソーシャルネットワークを作ってもいいほどである。
さて、「下がり藤に抱き茗荷」の家紋だが、後藤将監から大塚将監への改名のことを考えると、藤紋から抱き茗荷の接点といえなくもないので、
非常に気になる!
ところではあるが、もう少し慎重に調査を進めようと心に決めたのであった。(一喜一憂して、喜ぶと、落ち込んだときかなり凹むから)
ところで、下がり藤抱き茗荷の大塚さんたちにも気になるところの、久留米藩における「大塚氏」の立ち位置が少しだけ判明したので報告しておきたい。
またもや国立国会図書館の近代デジタルライブラリーより、
「久留米市誌 別冊」の巻に、久留米城下の絵図があったので紹介する。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1209649
写真をめくっていかなくてはいけないので大変だが、コマ数でいえば「56~59コマ」を見てほしい。
これが江戸時代天保期の久留米城下の地図で、城をはじめ藩士たちの居宅が書いてあるのである。
(実は、該当の文書には他の時代の地図も収録されているのだが、解像度の関係で見難いので、ここでは天保時代の地図を読んでみる)
コマで言えば、58コマをズームして見てほしい。
久留米城本丸御殿から、下に向かって見ていくと、重臣たちの居宅が区割りで描いてあるのがわかると思う。
その下の島が、上級家臣の居宅であり、ここには、右からざっくりさらっていくと、もちろん「有馬」をはじめ「淡河」「小河」「本庄」などの、このブログではおなじみの
赤松系苗字
が散らばっている。
そして、その堀を挟んで一周外側に「大塚」氏の居宅があるのがわかるだろうか。
(城から見るとななめ左下)
道を挟んで向かいには「赤松」の苗字も見える。
敷地の広さと城への近さから考えて、このあたりが中~上級家臣の邸宅で、おそらくこの大塚氏が「竹ノ間組」格の大塚家であろうと推測できる。
もう一軒、59コマの中央のごちゃごちゃした辺り、中・下級藩士の居宅として「獄屋」の左あたりに「大塚」氏の居宅がある。これが、中小姓格か、徒士格の大塚氏のものと考えられよう。
(大塚の書き方が、「塚大」と右からかいてあるので注意)
こうしてみると、久留米藩分限帳の記載と概ね一致することがわかるのだ。
もちろん、我々は久留米城下でなく、離れた場所に実家があるので、「彼らの子孫」ということだけしか言えないのであるが、それでも、いちおう
ご先祖さまが住んでいた場所
がわかっただけでも、嬉しいというものだ。
というより、現在の久留米市の同じ場所に「大塚さん」が住んでいたらどうしよう?!
そんなことを想像したら、ドキドキしてしまうと同時に、本家本元長男の家系であろうから、我々末端の者は、ちいさく柱の陰から見るだけにしておこう。
<追記>
その後、前述の方より連絡があり、より詳しくは、「下がり藤の大塚氏」であり、「抱き茗荷」の家との婚姻で「下がり藤抱き茗荷」が生まれたとの旨、お知らせいただいた。
合体系の家紋は、後世になって何らかの由来で成立した可能性が高いため、そうした「いわれ」がはっきりわかるのは、とても貴重なことと思う。
しかしながら、当ブログ的には、後藤氏-大塚氏の線を念頭に置いているので、これもやっぱり貴重な情報である。
後藤将監あらため大塚将監が「下がり藤」であったとすれば、「下がり藤の大塚氏」がいてもおかしくないし、やはり播磨と筑後の接点と考えられるからである。
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