2014年2月8日土曜日

<37>「よし!わかった!」by等々力警部 姫路と福岡を繋ぐ点と線

 「犬神家の一族」といえば、最近では足を広げて逆さになっているパロディしかでてこないので、若い人などはオリジナルをそろそろ知らない世代に入ってきたかもしれない。

 その金田一耕助シリーズには「等々力警部」というおっちゃんが登場し、数々の謎・ミステリーに対して「よし!わかった!」と毎回ひらめくのだが、おおむね外しているというお約束の展開がある。

 ドラマ「TRICK」で、矢部刑事こと槍魔栗三助、いまの生瀬勝久がよく物まねをしているので、そっちを思い出す人もいるかもしれない。


 ・・・・・・なんのこっちゃ。


 いやいや、今の私の気分は「よし!わかった!」なのだが、もしかしたら、案の上外しているかもしれないので、自戒の意味を込めて今回の「ツカミ」はこんなところから。




 姫路の大塚さんにゆかりのある方から、さらに追加情報をいただいた。

 それによると、姫路香寺町・・・これも、正しくは「香呂」と「中寺」が合併して「香寺」なので、姫路香呂地区と呼ぶほうが正確であろう。

 もとい、その香呂地区の後藤氏と大塚氏は、やはり船津上野(現山田町)の大塚将監の子孫であるという伝承を持っているという。

 これは、実は私が「一番知りたかったこと」そのものなので、そうした伝承を教えてくださったことにとても嬉しく思っている。


 ★ ただし、家紋的には、「物証」がまだ出てきていないので、できれば「藤紋の大塚さん」とか「抱き茗荷の大塚さん」とか、そういった墓碑などが姫路で見つかればいいなあ、と思っている。

 その方からは、この他いくつかのヒントもいただいているので、また姫路へ足を運ぶつもりである。



 さて、ここから先は、等々力警部の名推理だ。できれば金田一耕介か、少年の推理といきたいところだが、まだまだ甘さを残しているかもしれないので、ご了承願いたい。

 

==========

 後藤将監は、後藤又兵衛の兄である。(いちおう。正確には、又兵衛の父なども、微妙にわからない部分があるらしい)

 播磨後藤一族の拠点は、族長という意味では、文明年間(1469-87)に後藤基信が現福崎町の「春日山城」を本拠とした。

(この城は、上野構からみれば、北にある)

 しかし、周囲には後藤氏の拠点がいくつかあり、南には「南山田城」がある。


丹波霧の里 さんのサイトに詳しい。
http://kirinosato.fc2web.com/HARIMA-himejihigasi.html


 南山田城は、後藤将監基国(親父のほう)と又兵衛たちの拠点であったらしい。最終的に春日山城、南山田城ともに滅び、又兵衛だけは黒田官兵衛についていった。


 その後の後藤氏は、歴史上は消息不明である。基国の息子の大塚将監が上野構へ蟄居したことが記録に残っていることから、武将としての後藤氏は滅んだが、子孫はその土地に残ったり、秀吉の播磨攻めによって、秀吉方についた軍に吸収されたりしたことと思われる。


 播磨後藤氏の拠点は、もうひとつある。

 
 姫路市教育委員会文化財課 「文化財見学シリーズ 香呂地区をたずねて」 より
http://www.city.himeji.lg.jp/var/rev0/0054/2223/60.pdf


 この資料によると、

①後藤氏の拠点は香呂地区の「矢田部城」で、14世紀に築城。その後置塩殿赤松氏に仕える。

②矢田部地区後藤氏の墓所があり、室町・戦国期のもの。

③後藤氏は、鎌倉末期文保元年(1317)に、多可郡安田庄より当地へ移った。

ことなどがわかる。


 ここからわかるのは、恐らく春日山・南山田両城よりも、矢田部のほうが後藤氏の拠点として古そうだ、ということである。

 ★ただし、3つの拠点は地理的にとても近いので、一帯を治めていたという意味では、おなじ地域といってもよいくらいである。

 
 
 そして、新たな発見があった!


 それは、上の丹波霧の里さんの記述を読み進めてゆけばわかるのだが、なんと後藤又兵衛が山田町の「福田寺」を崇敬し、その寺が「天台宗」だと言うのである!!バババーン!


 まさに「よし!わかった!」、今風に言えば「キターッ!」である。


 天台宗兵庫教区 さんのサイトより 「福田寺」
http://hyogotendai-yb.net/jiin_daizukan/file/01/132hukudenji/132hukudenji.html


 あろうことか、当時この寺は「後藤一族の菩提寺」であったらしい。これで、「抱き茗荷」との接点が見つかったと言えないか?


 後藤氏はおそらく本家紋は「下がり藤」である。だが、当時の武家では「茗荷=冥加」にあやかっって「生き残る」ために「茗荷紋」が流行した、とも言われている。

 不思議なことに、下がり藤と抱き茗荷は、基本的図形は同じで、とても似ている。

 又兵衛本人はともかくとして、後藤氏もしくは大塚氏が「抱き茗荷」に紋を変えた、もしくは併用したことは、想像に難くない。


 三潴に「下がり藤」大塚氏がおられることも、その当たりを微妙に突いているようで、くすぐったい!

 そもそも三潴の大塚氏が下がり藤であること自体が、本姓は「藤原氏」であることを示す傍証ではないのか、というわけだ。



 等々力警部の推理はこうだ。


 久留米藩大塚氏、黒田藩大塚氏とは、実は同族で、もとは後藤氏である。ついでに、幕臣大塚氏も入れとけ!

 寛政譜の「村上源氏赤松支流」とは、赤松家臣団であることを示す。(血脈ではない)

 そして、大塚氏の本姓は、藤原氏である。



 信じるも信じないも、あなた次第だ。


(というより、これより、この仮説の検証作業に入ることにする)






 


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