混迷と迷走の果てにたどり着いた、大塚一族の謎に打ち震えている昨今であるが、みなさんいかがお過ごしであろうか?
・・・・・・まあ、もう少し明解に謎が解けるかな、と思っていた私が「あまちゃん」だったわけだが、それにしてもひどいものである。
たとえば、久留米藩三百石の「竹ノ間組」大塚氏なんかは、もう少し古くから有馬氏に仕えていたのだろうと思っていたのだけれど、どうも違うっぽい!
あれから「碁石」紋について調べているが、まだわからないし、困ったものだ。
ところが、先入観を外してこれらの御家中系譜群を読んでいると、面白いことがわかってきた。
まず、竹ノ間組大塚氏の項であるが、大塚伸右衛門が宝暦5年より前に、「越後日田」で生まれたとある。
これは、まず誤記がある。越後に日田はないし、むしろ日田といえば「豊後日田」である。これをなぜ「越後」と書いたのかは、多少なりとも理由がありそうだ。
現在大分県の日田地方は、筑後川水系ということで、筑前筑後とつながりが強い。なので、地理的には、日田と久留米の関係性があってもOKなのだが、問題は略系譜の記載である。
日田藩というのはちょっと変わった運命を辿っていて、領主がころころ変わっているのだが、気になるのは、最後の藩主「松平直矩」の動きである。
ウィキペディアより 松平直矩
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E7%9B%B4%E7%9F%A9
徳川家筋の松平氏なのだが、もともと播磨姫路藩主から、越後村上藩主になり、その後「越後騒動」というお家騒動があって領地を減らされ、「豊後日田」に国替えになった、というのである。
略系譜筆者が、思わず「越後日田」と書いてしまいそうな、そういう素地があることがわかるというものだ。
そして、日田地方はもっと面白いことに、このあと「引越し大名」こと松平直矩がまた転封になってしまい、その後は最後まで「天領(幕府直轄地)」になったというのである。
ウィキペディアより 日田藩
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%94%B0%E8%97%A9
なんとなく、「越後日田」のイメージがついてしまった原因が、この辺にありそうではないか。
ちなみに、伸右衛門の子、平十郎が宝暦5年(1755)に竹の間組に勤めることになったとき、日田は既に天領なのだから「天領日田」としてもいいはずである。
それなのに「越後日田」と書いたのは、単なる誤りもしくは、松平直矩の動向をイメージして、それに引きずられたと考えられまいか?
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さて、その大分県日田地方である。なんとここには現在にも「大塚」さんが多く住んでおられるのだが、日田地方と大塚氏のからみ具合が、なんとも怪しい感じで面白いのである。
まず、大塚伸右衛門の話である。彼が仕えた、代官岡田九郎左衛門の前任者岡田庄太夫というのが歴史上稀に見る
悪代官 (おぬしも悪じゃのう)
で有名であり、もう、あんなことやこんなことが起きているのである!
詳しくは日田、岡田代官などで検索すればいろいろ出てくるので、ぜひ悪代官マニアの方はお調べ頂きたい。
ちなみに岡田九郎左衛門の赴任については
別府大学 「村明細帳と村鑑帳の研究」 佐藤満洋 さん
http://bud.beppu-u.ac.jp/xoops/modules/xoonips/download.php/kc12102.pdf?file_id=6515
の論文に詳しい。
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で、その大分県の「日田」地方なのだが、ここにまた謎の点と線が存在するのである。
竹の間組「大塚伸右衛門」の出身は日田である。元の主君が幕府代官岡田九郎左衛門であることは、まあ良いとしよう。
次に、中小姓組「大塚九兵衛」の項を見てほしい。この一家は、代々九兵衛を名乗っているようだが、もともとの苗字が
財津
になっている。
一郎でも和夫でもいい、とにかくこの大塚氏は「もと財津氏」なのである。
そして、財津氏とは、一体何者なのか。これも九州地方の方ならよく知っていると思うが、財津氏は、そもそも九州土着の士族で、
日田氏
がルーツなのである!バババーン!
ちなみに、本当に参考程度だが、財津一郎さんも財津和夫さんも熊本県がルーツであり、九州人である。
日田氏-財津氏のつながりについては、
やっぱり 播磨屋さんのサイト に詳しく載っているのでご参考まで。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/hi_zaitu.html
こちらのサイトによれば、最終的に熊本細川藩に仕えた財津一族の話が載っているが、もともとを言えば財津氏は「日田」地域が発祥だと考えられるわけである。
とすれば、である。竹の間組の大塚氏も、中小姓組の大塚氏も、実は日田・財津系の大塚氏であり、広い意味で同族の可能性がある、といえないか?
このあたり、系譜だけでは読み取れない「親族関係」や「養子関係」があったのかもしれないし、なかったのかもしれないが、なかなか面白そうだ。
おーい!赤松氏流大塚氏はどこへいったんだー!
播磨大塚氏はどこへいったんだー!だっだっだだっ♪(by大塚愛)
しかし、久留米藩の大塚氏が少なくとも2家、大分日田にゆかりがあることがわかった以上、このラインも捨てがたい。
もとはといえば、寛政譜に「抱き茗荷大塚は赤松氏流」なんて書いてあるのがいけないのだ!
(↑逆切れ)
あれにかなり惑わされてるかもしれないぞ!
・・・・・・まあ、それはともかく、いっそう混迷の度合いを増したわがルーツ探しの旅であるが、
いつもの締めで今回も幕を閉じる。
大分県の大塚さん!ぜひ家紋を教えてください!
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