2026年10月4日日曜日

<135> 少弐氏系「西氏」大塚氏の系譜を探る

 

 前回、前々回の話のように、佐賀藩の草創期において「神代家良」の側近として、鍋島家に仕えた「大塚隠岐・大塚新兵衛」が、もし仮に


■ 佐賀藩に残る大塚系譜の「大塚新兵衛」と同一人物、あるいは関係者とすれば、


その系譜を丹念に追ってゆけば何か新事実がわかるのではないか?と考えた。




  まず、「大塚左京盛家」という人物は「北肥戦誌」に多々登場する。


 したがって、肥前の戦国時代に生きていた人だとわかり、それに近い世代である「大塚新兵衛」が同時代の大塚隠岐であるとしても矛盾はない。


 また、大塚隠岐が活躍した「土生島(はぶしま)の戦い」(別名:千布崩れ)は、永禄8年(1565年)の出来事であり、隠岐がまだ若侍であったと仮定すれば、


■ 天正10年=1582年ごろは、それから15年程度の経過であり、まだ壮年と思われる。

■ 慶長5年=1600年ごろは、土生島の戦いから35年であり、隠居前の家老級・重鎮としても矛盾はない。(六兵衛家良、という記載から)


 絵下古賀村の伝承としては「天正年間に隠岐がやってきた」となっているので、天正期にいったん領地として絵下古賀を得たとすれば、これも大きな矛盾はないことになる。


 このように、人名・時代などは、常に大きな矛盾や破綻がないから、真正面から否定することもできないのだが、もちろん可能性としては


■ 隠岐や新兵衛が、親子2代に渡っての通名である可能性も、もちろんある。


ということは、頭の片隅においておこう。


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 さて、実際には「隠岐」が「大塚系譜」につながる人物かはまったくわからない。


 ここまで丹念に調査しているが、まだ「状況証拠」にすぎないからだ。


 そして、状況証拠としては「大塚氏が絵下古賀の西屋敷」という字名に存在することから、これは


■ これは少弐系「西氏」の系譜なのではないか?


という状況証拠もある、ということだ。(もちろん、単なる位置関係、方角を示す可能性もある)



 そこで、今回は、もう少し「西氏族」とはどんな系譜なのかを追求してみよう。



<着眼点1> 通字が気になる。

 

 系譜では大塚新兵衛家房より以前は「盛家」「家清」「家宗」「家光」「家国」「家郷」「家俊」「家政」と、通字が「家」で統一されている。


 それより以前は「資」になっていて、これは少弐らしい通字だ。(初代の武藤資頼に由来する)


 では「家」の偏諱はどこから来ているのか? これはおそらくは「龍造寺氏」から来ているのではないだろうか?


 戦国時代の隆信近辺の当主名は「胤」が多用されているが、それ以前は「家」が多用されていて、その流れではないか?と思われる。

(胤はむしろ九州千葉氏からもらっているようだ)


 ただ、そうすると不都合な真実もある。大塚隠岐がもし「家」の通字を持っているとすれば、龍造寺家と対立していた神代氏にずっと仕えているのは、やや矛盾を感じる。


 家房・新兵衛・隠岐のみが、もともとの大塚氏を離れていた「はぐれ武将」であったとすれば、なんとか言い訳は立ちそうに感じるが・・・。



<着眼点2>  倉町氏が気になる。


 系図によれば

「大塚家郷=西上総介」「大塚家国=西陸奥守=倉町上野介家直」「大塚家光=倉町蔵人」

という人名が見られる。


 

 戎光祥出版の「歴史研究」では


”その二十九代の孫、倉町上野介は初め西陸奥守家国、家道といい、その子直家が初めて「倉町」姓を名乗った”


とあるので、家直と直家の混同は見られるものの、この一族だろう。


 直家については、佐賀県近世史料第八編第一巻において”西筑前守資俊七代”の注釈もあることから、これもおおむね系譜に合致するだろう。


 「北肥戦誌」にも

「副島民部大輔、倉町上野介、倉町大隅守などの軍勢が駄市川原の神代陣へ攻めかかってきた。」

とあり、”神代側ではない”武将であることがわかる。

 

 また「佐賀県史料集成 古文書編 第28巻」には、筑紫家文書として、「佐賀郡新庄金丸取帳」に


”下牟田 一所一段 倉町蔵人 ”


の領地表記がある。


 さて、系図には登場していないが、ここで「倉町家定」という人物が登場する。


「佐賀県史料集成 第3巻」に収録されている「倉町家定起請文」は天正9年のもの。



  この久家とは龍造寺政家の改名前の名であろう。


  倉町右衛門兵衛尉家定が、龍造寺久家に忠誠を誓う内容になっている。

 

==========


二度拝礼し、謹んで天神地祇(すべての神々)に申し上げます。

私(久家尊公様)に対し、倉町の右衛門兵衛尉(家定)は、今后二心(裏切り)を持たず、野心や悪事、また毒殺などを企むような悪行は一切いたしません。   

不可有之事(あってはならないこと)   一、どのような事柄であっても、もし神仏への祈祷などの儀式において、少しでも不審な点や手抜かりがあってはならないこと。   一、代替わりなどの際、その他のどのような時であっても、御所務(公的な務め)の儀式において、もし不審な点や手抜かりがあっては、自分勝手に横暴を働いてはならないこと。   一、どのような些細な御密事(秘密の事柄)であっても、その作法や段取りはすべて知っているのであるから、少しも門外不出(他人に漏らすなど)の例外的な事柄を作ってはならないこと。   一、如木甲冑(にょもっかっちゅう ※鎧兜の一種)共に、その心(本心)を入れ、取り返しがつかないような御用(失敗や失態)をしてはならないこと。   右条々、於相違申上者(右の条々に違反した者)   

梵天(ぼんてん)、帝釈(たいしゃく)、四大天王(しだいてんのう)、ならびに日本国六十余州の大小の神祇(神々)、別しては伊豆、箱根、三嶋、大明神、賀茂下上(上賀茂・下鴨神社)、春日、稲荷、祇園、殊に当国(丹波国など)の鎮守である千栗八幡大菩薩(ちりくはちまんだいぼさつ)、河上大明神、氏神、賀茂大明神、本庄大明神、殊に当村(倉町)の龍造寺八幡大菩薩、天満大自在天神、神罰冥罰(神仏の罰)が身に加わり、忽ちに滅ぼされるべき者である。よって起請文をこのように差し出す。   天正九年八月二日   進上 久家尊公様   倉町右衛門兵衛尉 家定(花押)   


==========


(訳出はGemini)



 さらに「諸家系譜 六十、六十一」の龍造寺隆信の系図を見ると、面白いことが書かれている。


 隆信には「江上家種」となった又四郎という子がいるのだが、その妹が


■ 大塚民部少輔尚茂 室 (→これは犬塚の誤記と思われる)

■ 神代大和守勝利 室


の妻となっており、そのあと「隆平」「政家」と続いていって、


■ 倉町右衛門尉 室


の記述があるのだ。


 これらにより倉町氏ががっちり龍造寺グループに組み入れられていることがわかる。



 今回はここまで・・・。

 







2026年10月3日土曜日

<134> 大塚新兵衛隠岐守の最新動向

 

 前回もまとめたが、「佐賀県史料集成 古文書編 第17巻」と「神代家伝記」に登場する大塚隠岐・大塚新兵衛の事績について、文書の翻訳をほったらかしにしていたのが、

 なんと人工知能の力を借りると、かなり丁寧に訳出することができる、という発見をした。


 もちろん、これまでもざっと雰囲気を掴むまではしていたのだが、前後の文脈があまりにも飛んでいて、どこからどこまでが関係しているのか、よくわからなかったのである。


 ところが人工知能を使うと、逐語訳がかなり正確にできることがわかった。そこで、あらためてこれらの文書について、訳出してみよう。





  まずは「神代家伝記」のほうである。


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 知行所を年々交代(年替り)させているとのこと。この時勢に、刈野の田地作物の年貢米を大いに減らして他の土地に出しているという。その頃の役人は目先の利益に迷って、これまた彼ら(敵方など)の望むままに富裕な農民を引き入れて取り入れさせていた。それゆえに小城の城下や領内の田坪(農地)を敵に奪われることになったとのことである。


また曰く、我が方へ心を通わせる者に対して万事ご勘署(確認・承諾)があった。芦刈館の周辺にある小路・侍屋敷の地は、はじめから年貢免除の取り決めであった。しかし勘署が入ったことで、検地を行い、いずれも年貢をかけるようになった。このことが露見し、石高が増加した分の「地割(土地の配分)」は公収されることとなった。これも内通者の仕業とのことである。


また曰く、三郡(佐賀・神埼・養父など)の山内(山間部)や井里(人里)の一帯は、当家の領地とするならば何の不足もないだろう。佐嘉(佐賀)の城も、この三郡の山内にあるからこそ豊かなのである。一番の要害であり土産の特産品もある。毎日、佐嘉・小城・神埼の各市(まち)を往来しており、また今国中の5か所に領地の家臣5,6名がそれぞれ別々に居住し、万事親密に連絡・通行している。何事も内談のうえ決定しているため、自然と我が家(鍋島家等)のためにもなり、また事態もスムーズに運んでいる。家良公(鍋島家良)の御行跡(行動)について直茂公(鍋島直茂)より御異見(お小言・ご注意)の書状が、当家の家臣へ送られてきたとのこと。


熊野より申し達してまいりました。六兵衛の事、州濃(信濃・濃州)の居所からも申し聞こえてまいりましたが、今年一入(ひとしお)増長し、内損(内部の不利益)を被る原因となった経緯につき、お沙汰の限り(処罰・吟味の対象)に留まらず、是非・正邪を言い難く思っております。しかしながら、あのお方(六兵衛あるいは対象者)が召し置かれたイカ(伊賀)衆につきましても、結局は御苗字(家格・お家)を保ち難いと存じます。そうであるならば、各御召(召し出し・ご呼び出し)、あるいは長良公(鍋島長良)の御指示よりも無駄な処置(お沙汰)になるかと存じます。誠に似つかわしくないお考えではないかと察せられます。彼ら(伊賀衆など)につきましては、かねてより御請受(承諾)を今に引き継いでおりますところ、重恩の義を忘れて我が家の証文などを直ちに召し上げ、彼らが仕分・相続するのも不審に存じます。不肖の者どもがさらに異見を申し上げるようなこともなく、大酒をくらって道具袋を失ったり、あるいは我らの顔に泥を塗るような不届きな振る舞いはございません。どうかご差配・ご容赦いただきたく存じます。左右の者たちも首を吊って死を覚悟しており、命拾いをした者につきましては、その身の望み通りに苗字(家格)の相続を認められるよう、尾下より申し上げます。この中で、それぞれ御軍労(合戦のご功労)の儀につきましても御料人(お方様)あるいは各陣営へ相談したうえ、首尾よくお心安く(ご安心)願いたく存じます。なお、お二人へお伝え申し上げたく、恐々謹言。


五月二十七日 直茂(鍋島直茂) 御判

槓清右、江原平右、神太郎左、大隠岐、中野彦右、福五郎右、神源右

以上


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 まず、大塚隠岐らの名前が見える箇所だが、その次のユニットについては島田氏の名跡についてであるので、ここはカットしたが、芦刈の知行の話の次からが本題のようだ。


 つまり鍋島直茂から、神代六兵衛家良の品行について書状が来た、というところが本題に当たる。


 この内容から六兵衛は大酒を飲んで、所行が悪いので、鍋島直茂からそれを問いただすような手紙が、神代家に届いて、その宛名が7人の神代家・家臣になっている、ということが判明した。大塚隠岐は筆頭ではないが、4番めに位置している。


 そして、この直茂からの手紙に対しての「返事」も残っていて、そちらが「佐賀県史料集成」のほうに収録されているわけだ。



 こちらの訳も見てみよう。


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【表題・小見出し】六兵衛不行跡の記録

十四 槓清右衛門尉(ゆずりは せいえもんのじょう)外六名連署書状案   


【本文】

加州様(鍋島勝茂・加賀守)からの御書状を戴きましたので、謹んで拝見いたしました。   さて、六兵衛尉が大酒をくらって過ちを犯し、内部に損害を生じさせた件につきまして、お呼び出しがあって双方のお使者をお遣わしくださり、入念にお調べ・ご糾明をいただきましたこと、当家中の者共も等しく感服・恐縮いたしております。あわせて、このたび豊州様(鍋島直茂)ならびに信州様(鍋島信濃守勝茂)のお小言(ご異見)を賜りました後は、薬袋(薬の袋、または道具袋・武具等)を紛失したことも一切ございません。   主上(あるいは当主)のお考えのとおりに相成り、六兵衛からも聞き及びましたところ、これまでの不始末を改め、納得のいく申し開きの条々を信州様へ申し述べさせました。そのうえで、以上の趣旨を貴殿のお耳に入れていただくのが然るべきと存じ、お届け(ご披露)申し上げる次第でございます。恐惶謹言。   六月二十三日   槓清右衛門尉   江原平右衛門尉   神代太郎左衛門尉   大塚新兵衛尉   中野喜右衛門尉   福嶋五郎右衛門尉   神代源右衛門尉   



★ 背景・ポイント: 1枚目の画像に出てきた「六兵衛の大酒や道具袋(薬袋)の失策」について、家臣団(槓清右衛門ら7名)が連署し、主君(鍋島直茂・勝茂ら)からの咎めに対して「六兵衛も反省して改心し、信州様へもしっかりと事情を申し述べました」と報告・弁明している書状の控え(案)です。   


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(訳出はGeminiによる)


 この2つの手紙は対になっていて、直茂からの問いただしと、それに対する申し開きがセットということがわかる。


 また、それらは、全て六兵衛家良の家臣である6名を仲介してなされていることもわかる。


 神代家良は、神代長良の養子であり、鍋島直茂の甥であるため、直茂から見ても、気にかけている存在であったようだ。


 また家良の通称が六兵衛であることは、あまり挙がってこないが、


https://chibasi.net/kyushu29.htm


を参照すれば


■ 神代喜平次家良  直茂公御供にて今度朝鮮渡海の人数(『直茂公譜』)


■ 神代六兵衛家良  慶長五年伏見攻めの鍋島勢物頭(『勝茂公譜』)


の記述がある。


 さて、今回判明したのは、(わかっていたことではあるが)大塚隠岐はこの時点でやはり神代家臣の重鎮として生き残っている、ということである。


 文禄5年(1596)に喜平次を名乗った家良が、慶長5年(1600)年に六兵衛表記になっていることを勘案しても、大塚隠岐はおおむねこの時期くらいまでは生きているとわかるのである。



 今回判明分はここまで。





2026年5月10日日曜日

<133> 仮説 「大塚新兵衛隠岐守」は、佐賀藩大塚氏の系統か?

 

 三潴郡絵下古賀もしくは八丁牟田あたりに来住した「隠岐」は、もともと神代長良の家臣であった「大塚隠岐(守)」ではないか?


 というのがこのブログの大きな流れなのだが、その後のさまざまな調査で、草創期の佐賀藩に属した


■ 大塚隠岐(守)

は

■ 大塚新兵衛(尉)


と同一人物である、ということまでわかってきている。



(佐賀県史料集成 古文書編 第17巻)





(神代家とその一族 1980)


 上記2つの文書のうち7名の侍の名簿が合致するようになっている。

 彼らはもともと神代家の家臣で、龍造寺家臣、のち鍋島家臣に吸収されていったと考えられる。



===========


 これに「武藤少弍興亡史 1989渡辺」に収録されている「大塚系譜」を当てはめてみると、仮説ながら興味深いことがわかる。




 この系譜は、少弐系大塚氏(佐賀藩士)の系統を明らかにする興味深い資料なのだが、この一族は

■ 少弐氏

の分かれでもあり、

■ 西氏

を名乗った

■ 大塚氏

ということになる。


 厳密に言えば、神代家に仕えた大塚隠岐の出自は、まったく良くわからない。隠岐の事績は突然、土生島城の戦いの時に現れ、龍造寺に攻められ神代長良が脱出する時に、大塚隠岐が城に残って長良夫妻を逃がした、という功が「北肥戦誌」などに記載されているのみだからである。

 ところが大塚隠岐はこの戦いで亡くなったりはしておらず、そのまま長良にくっついて(再会して)龍造寺家臣に組み込まれていったようだ。

 さらに鍋島の家臣にもなってゆくのだが、前述の7人については、すっきりと鍋島直茂の言うことを聞かなかったようにも読み取れる。

 家臣が継承される段階で、どうもこの7人については、ゴタゴタがあったようなのである。



 それはさておき、「大塚新兵衛=隠岐守」が、もしかすると佐賀藩「大塚系譜」に出てくる


「大塚新兵衛家房」


なのではないか?という新しい仮説が立てられることになった。

 そもそも隠岐守・新兵衛とも諱がはっきりしていないため、可能性としては


「大塚新兵衛=隠岐守=家房」


である、とも考えられるわけだ。これは、今回はじめて登場した新説である。



 系譜を見ると、佐賀藩大塚家は、大塚家房の兄弟である「大塚宗清」から続いていることになっている。

 この系統は佐賀藩士として続くが、「家房」が分かれてからのち、どうなったかは言及がないわけだ。


 ちなみに、家房と宗清の親類は、


「大塚左京(亮)盛家」


である。 この系統は代々「大塚左京亮」を名乗っており、「北肥戦誌」にもよく登場する武士だ。小城勢として名前が出てくるグループということになる。



==========


 大塚隠岐守・新兵衛・家房 が同一人物であり、彼が三潴郡絵下古賀に来た「龍造寺家臣の隠岐」であったと仮定すれば、


 絵下古賀の小字(こあざ)である 西屋敷 に大塚姓が居住することと合致する


のかもしれない。


(実は絵下古賀と八丁牟田には、「沖屋敷」(隠岐屋敷の転か?の小字もある。)


 西屋敷の名称はあるが、東屋敷は無く、また何を持って「西」なのかが判然としない地理であることも勘案すると、「西屋敷」とは「西氏の屋敷」とも解釈できることになる。


 とすれば、やはり私の家系は、西氏系・大塚氏の末裔ということになるのだろうか?










2025年6月13日金曜日

<132> 古賀伊豆の重要情報 〜やはり、龍造寺が送り込んだか?〜

 

 このブログを見てくださっている方からメールを貰って、重要な手がかりが見つかったようなので、まずは書き残しておきます。


 もはや、当ブログでは有名人の一人である「古賀伊豆」ですが、最終的には吉井の大庄屋になってゆく人物です。


 お知らせくださった方のお話では、「星野村史」に、その後の古賀伊豆の様子が描かれているということなのですが、「星野村史」はマイナーで、国会図書館でも「館内閲覧のみ」になっていて、さらに古書店でも一部しか流通していないようなので、


 まーったくの手つかず


だったのは残念無念! お知らせくださった方に感謝感激です。


 というわけで、「原本未確認」ながら、データ分析をしておきましょう。


■ うきは市吉井「円応寺」に古賀伊豆のお墓がある。

■ お墓は寛政になってから、一族の子孫が建立したものらしい。


 ありがたいことに現地の墓碑に書かれている内容をお知らせくださったので、それも転載しておきます。


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(正面)
 光徳院繁叟知栄居士
 (正面以外)
 光徳院、姓は古賀、名は伊豆。星野中務大輔調胤實十六世の苗裔にして、同苗伯耆守正實の三男也。
 龍造寺隆信に扈従して戦功数有り。隆信率いて西筑を治めて後、居士を三潴郡八丁牟田の館に留めて乱暴より衞ら令む。
 隆信戦死の後、移居して吉井に於ける時、小早川隆景領を合わせて当郡の主也。
 古賀・石井・鳥越の三士を召して大保正と為し、家譜に許す。故に贅せず。
 此に天正十九年卯二月十二日卒す。今寛政十二庚申、二百十年にして一族三十餘人を得たり。
 再び改めて石碑を建て大生禅刹に就きて追福す、云々。
 誉めて曰く
  温恭清廉 廣古富今
  赫々光徳 山高水深
  孝孫某 甲篆謹書


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(Yさま!ありがとうございます)



 まず、古賀伊豆は「星野中務大輔」の子孫である、という話が出てきており、これは他では見られない記述ですね。(新情報)


 星野氏について詳しい方のページでは


https://mfj.co.jp/hoshinoshi/


 星野中務大輔胤実が、初代で鎌倉時代の人ということになっています。筑後国生葉郡星野を領地として「星野」を名乗っているので、星野村のめちゃくちゃ「地元の人」ということになります。


 星野氏の祖先は、源助能(黒木大蔵大輔)の猶子で、実は徳大寺実定の子であり、嘉禄年間に星野に来て、天正年間まで勢いがあったとも。


星野氏

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%9F%E9%87%8E%E6%B0%8F


 うーむ。正直なことを言えば、感触としては「とっても不可思議な感じ」という印象を抱きます。


 まず、古賀伊豆の先祖は星野氏だとすると、「最初から星野にいた星野氏」であり、なぜか古賀伊豆だけが佐賀方面へ飛んでいってしまい、そこで龍造寺に仕えて、「八丁牟田に赴任」したのに、また「星野(吉井・生葉・うきは方面)」に戻ってきた、という感じになるからです。


 話としては有り得そうですが、では「なんで古賀を名乗るの?」といったあたりが、少しピンとこない感じもあります。


 ただ、史実としては、ほかでも確認できる「八丁牟田の館に赴任させて護衛させた」的な話は、三潴側でもそう認識しているので、ここは合っているでしょう。


 その後に「大庄屋(大保正)」になった点も、問題はなさそうですね。


 もちろん、寛政年間になって「先祖を顕彰する」形でのお墓の碑文なので、なんらかの意図や演出が隠れている感じはしますが、たとえば


■ 姓は古賀、名は伊豆


という認識しかしていないのであれば、「それしか伝わっていない」ということを意味します。


 このあたりは、源氏もしくは徳大寺家の「藤原氏」を本姓としたいところですし、「名前が伊豆」というのも、不可思議です。


 たとえば大塚隠岐は、官位風の通称としては「隠岐・隠岐守」ですが、「新兵衛」という名が残っているらしい記録もあるので、直接の子孫が書き残したのであれば、「通称の名」「いみな」がどちらも伝わっていないというのは、残念な気もするわけです。


 なんとなく、雰囲気としては、「この地元の領主たる経緯があるのだ」ということを主張したいがために「星野」と繋げたような感じもあるような、ないような・・・(苦笑)


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 そこで「伯耆守正実の3男」という記述にも注目してみましょう。


福丸城

https://cmeg.jp/w/castles/8751/pins/28685


このあたり、太宰管内志の略記があるのですが、


「星野中務大輔吉實は戦国時代の人で、こ の頃豊後の大友氏と肥前の龍造寺氏と常に争って戦乱が止むことがなかった。吉實自立していずれにも偏せず。龍造寺隆信が黒木に侵入するや、星野氏、黒木氏同盟して猫尾城を守る。大友氏は偽って竹尾外記なるものを猫尾城に入れ、奸計をもって吉實を殺す。この後、黒木氏は龍造寺氏に属す。常陸介親忠跡を嗣ぎ、驍勇を以て 名がある。天文元年大友義鑑の兵が来攻する時、妙見城を守りて天文3年(1535年)9月13日に死す。その子伯耆守正実は福丸城に在ったが大友勢に攻められて周防に逃る。この後、星野氏は大友氏に属し、右衛門太夫重実は、大生寺村立石城の門注所氏を逐ってその跡に住む。重実死する後福丸城に高実がいたが大友氏の命により蒲池氏の鎮泰(母は星野氏の娘です)を養子に入れて星野氏を嗣ぎ白石城に居る、後福丸に移り肥後勝山にて戦死する。右衛門大夫鎮虎は、白石城に居たが龍造寺氏に襲われて豊後に奔り弟鎮胤(吉実)は初め福丸城その後高取(鷹取)城に居たが、やがて島津義久に属し、天正14年(1586年)8月25日筑前高鳥居にて討死、次の弟鎮元(吉兼) も同じく戦死する」


となっています。


 仮に伯耆守正実の子が古賀伊豆だとしましょう。 そういえば源助能は「黒木大蔵大輔」なので、黒木氏も関係者です。


武家家伝 黒木氏

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/t_kuroki.html


 私のおなじニュータウンにおられる心の師匠 播磨屋さん の見立てでは、「河崎・星野・黒木」は調党(本姓=調宿禰)となっていて、さらに謎が深まります。


(碑文にも調胤実と書いているのに?!)


 話を戻します。


 龍造寺が攻めてきて、黒木氏は龍造寺側についた。これはOK。

 そして、伯耆守正実は、大友勢に攻められて周防に逃げた。はいはい。

 その後、星野氏は大友に従った。

 大友の命令で、星野には蒲池の養子の子が入った。

 その後龍造寺に襲われて、島津に助けてもらおうとしたが、星野本家は戦死。


 うーん、では古賀伊豆(つまり、伯耆守正実の子)がどうなったのかは、話を整理してもさっぱりわからんのです(苦笑)


(とにかく、この時期の龍造寺隆信<肥前のくまモン>は、無茶苦茶な動きをするので、読み解くのが大変!)


 播磨屋さんバージョンの時系列も、引用しておきます。


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 天正七年、龍造寺隆信は大友氏の衰退を好機として筑後に進出し、山下城の蒲池鑑広を攻略、さらに伊駒野城の河崎鎮堯を降した。この状況をみた黒木兵庫助*は、龍造寺の陣にいくと降伏した。こうして、筑後の諸将は続々と龍造寺氏に降り、筑後十郡は鍋島飛騨守信昌(信生→直茂)が隆信の代官として支配するところとなった。

 かくして筑後を征圧した龍造寺隆信は肥後北部まで支配下におき、三州二島の太守と呼ばれるまでに勢力を拡大した。一方で、その残忍性があらわれるようになった。天正十年、隆信は柳河城主の蒲池鎮並を謀殺したが、黒木兵庫頭家永はこれに怒って隆信に逆意を示した。猫尾城は龍造寺政家・鍋島信生らに攻められたが、草野家清の仲裁で和睦となり、家永は嫡子四郎丸を人質として龍造寺に送った。その後、家永の弟の蒲家益種が戦死しているのは、兄家永とは別に龍造寺氏に反抗を続けていた結果であろう。


 天正十二年、有馬氏が龍造寺氏の麾下から離れた。これは、さきの蒲池氏の謀殺をみて、つぎは自分との危惧を抱いた結果、島津氏をたのんで龍造寺氏から離反したものであった。隆信はただちに有馬攻めを決して出陣し、島原半島の沖田畷で島津・有馬連合軍と戦った。隆信の率いる兵は五万余騎といい、一方の連合軍は三千余であった。しかし、結果は数に奢った龍造寺軍の無策もあって、連合軍の大勝利となり隆信は戦死を遂げてしまった。


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 この話を見ていると、ちょうど我が「大塚家」の祖であろう「大塚隠岐」がなぜか天正10年前後の極めて「狭い時期」にしか、絵下古賀に来ることができないという話を思い出すのですが、もし、古賀伊豆が星野一族だったとしたら、まーったく同じような話に巻き込まれている感じもします。


 つまり、蒲池鎮漣がらみというか、蒲池家前後というか、そのあたりで「龍造寺から離反したくなる」あるいは「せざるを得なくなる」ような雰囲気がビシバシ感じられるわけですね。



 

 というわけで、あまりにも脳みそが沸騰しそうな展開ですので、いったんこれくらいで終わりにしておきます。


 重要なのは、


「古賀伊豆が八丁牟田に赴任したのは、龍造寺隆信の命令であろうこと」が、まず今回確認されたのと、「天正年間に、まずやってきた」ことにも、蒲池がらみのゴタゴタが裏にありそうだ、ということです。


 これは古賀伊豆・大塚隠岐、両方に共通して言えることですね。


 そして「古賀伊豆は、(なぜか)吉井へ移動」「大塚隠岐は、そのままとどまった」わけです。


 このあたりの経緯も、まだ謎は残ったままです。



(とりあえず、つづく)

2025年5月10日土曜日

戸籍制度は、明治の「マイナンバー」だった

 

 ルーツ調べやご先祖様に関わる一番のデータは「戸籍」となるわけですが、世界的に見ると「家族単位で集団を認定する戸籍」のような制度は、東アジアにしか存在しないと言われています。

 とくに欧米では個人の概念が発達していますから、社会保障番号のようなマイナンバーは存在しますが、「戸籍」というシステムは、もともと存在していないのです。

 わかりやすい考え方で言えば日本の「住民票」のようなものが、海外では個人を識別するベースになっているという感じですね。

 さて、その「戸籍」ですが、皇居の住所である「東京都千代田区千代田1番」を登録する人が多く、千代田区ではその手続きにてんてこ舞いになっている、なんてニュースが話題になったりしました。

 現代の法律では「戸籍を置く場所=本籍」は存在している住所であればどこに登録してもよいので、実際に皇居の住所を本籍地としている人が3000人くらいいるそうです。


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 さて、私の本籍地は、父方の一族がルーツとしている「福岡県」になっています。いわゆる本家(私からみると、今はいとこが住んでいます)の住所を登録していますが、そのおかげで自分たちのルーツがどこにあるのかがわかりやすくなっています。

 しかし、そうした氏族の思い入れがある地域を本籍とし続けることは、もちろんOKなのですが、ぜんぜん縁もゆかりもない地域に設定することもできるわけで、それなら

「なんのために戸籍、本籍地があるの?」

という疑問が生じるのも、自然なことかもしれません。現実的には住民票登録があるのですから、行政的なことはそれで事足りるわけですが、なぜ日本では戸籍が残っているのでしょうか?

 この問題を考えるには、「江戸時代」にどうであったか?というところから遡らなくてはなりません。

 一般常識や日本史の教科書でもご存知の通り、江戸時代は「キリシタン」が禁じられたため、「キリシタンではありませんよ」ということを証明するために、すべての民は「どこかのお寺の檀家として、そのお寺にぶら下がって管理される」ことになっていました。

 これが今も、お墓や法事などでお世話になる「旦那寺と檀家の関係」のスタートです。仏教の宗派に所属しているので、おのずとキリシタンではない、という証明になったわけですね。

 こうして各地の寺は、「宗派の管理」という側面から発展して、江戸幕府における「戸籍の代わり=人員の把握」に用いられるようになりました。

 これらの情報が書いてあるのが「宗門人別帳」ですが、実はこの「宗門人別帳」に書かれていない人たち、というのが現れ始めたのです。

 いろいろな諸事情で縁を切ったり切られたりして、どこかの寺に所属していない人たちは「無宿人」と呼ばれ、こうした人達をはじめ「把握されていない人員」が生じてしまったのが、江戸時代の限界でした。

 さらに江戸などの都市が発展すると、「どこにも所属していない」「どこでも管理されていない」「誰にも把握されていない」人たちが存在することになってしまいます。

 もともとの土地と縁付いてもいないので、他所へ行ってしまうと、本当に「誰」なのか把握できないことになってしまったのですね。

 江戸時代の間は、なんとかそれでも誤魔化しながらやってこれたのですが、
問題は明治になった時です。

 明治政府は富国強兵を打ち出すので、確実に「徴兵」して人員を管理しなくてはいけなくなりました。その際に「徴兵逃れ」が頻発してしまうと、そもそも誰もまじめに兵隊にいかず、逃げてしまいますから、まさに「国民総背番号制度」のように「マイナンバー」が必要になったのです。

 そうして整備されたのが現行の「戸籍」です。個人個人のマイナンバーではなく、「家単位」で整備したので「”戸”の籍」なのですが、考え方は同じで、もれなく人員を書きつけるために整備された、というわけですね。

 日本の戸籍の場合、「もれなく書きつける」ことは大事ですが、その帳簿をどこが管理するかは、実はどこでも良いわけで

■ 国家が一元管理して、どこか東京のデータセンターに全部置く

でもかまいません。

 ところが明治政府はそれをやらず、

■ その一族(とその家の個人)が、その時住んでいた地域の市町村

などに原簿を置かせたわけです。

 そういうわけで、もともとの戸籍は、その一族やその家があった地域で管理されることになりましたが、その後、時代が進んで「転居の自由」などが進んでくると、

■ 原簿が置いてあった場所

だけが残ってしまった、みたいなことになっているのが現状です。

 こうして現在の本籍地は「もともとの原簿の管理されていた場所」くらいの意味しかなくなったのですが、たとえば仮にすべてが東京に置かれていたら、空襲で全部燃えてしまったとか、地震でデータがすべて飛んでしまったとか、そういうことも起こり得ますから、分散して管理されていたのは、それはそれで良かったのかもしれません。

 現在のマイナンバーのデータは、テロなどを防ぐために「どこにデータセンターがあるのか」は公表されていませんが、おそらくは分散してなおかつ何重かの同じデータが複数で管理されているものと思われます。


2025年4月20日日曜日

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2025年3月17日月曜日

<131> 古賀伊豆関連の補足・追加 〜古賀伊豆の”それ以前”?〜

 

 「大塚隠岐」関連の調査中ですが、いったん「古賀伊豆」ネタを挟みます。

 天正時代に、筑後三潴郡の八丁牟田に来た「古賀伊豆」と絵下古賀に来た「隠岐」ですが、そもそも、どちらも「龍造寺家臣」とは寛延記に書かれているものの、実はふたりとも龍造寺軍団における立ち位置がよくわかっていません。


 「隠岐」については、神代家臣の「大塚隠岐」ではないか?と推定していますので、彼自身は「神代長良」がもともとの主君で、「龍造寺隆信」配下になり、最終的には「鍋島直茂」の配下になったのかどうなのか?というあたりを調べている真っ最中ですね。


 古賀伊豆(守)については、その後「筑後国の大庄屋」になったことがわかっており、その後も古賀氏とその子孫についての記録はちらちらと散見できるのですが、実は「古賀伊豆の”それ以前”」がよくわからないのです。


 そこで、今回は、そのあたりがチラリと推測できそうな記述が見つかりましたので、メモ書きしておきます。



 ネタ元は「筑後国史」です。ある意味有名な「大庄屋のはじまり」の部分ですが、見落としがありました。


” 天正15年 小早川は筑前15郡と肥前のうち2郡、筑後のうち生葉・竹野2郡を賜う。

 隆景の代官、入江輿三兵衛と木原善右衛門が下向し、鍋島より原田大蔵を差し副えられ、3人同伴にて吉井に来たり、石井和泉(いまの大庄屋石井氏の祖)、古賀伊豆(数代大庄屋役たり、今下見役、古賀氏の祖)、田代興善(いま大庄屋田代氏の祖)、この三家に止宿し、この3人に大庄屋役を命ず”


となっています。


 小早川隆景により、筑後の大庄屋3人が命じられた、という話はこれまでに何度もしていますが、


■ 鍋島から「原田大蔵」という案内役が一緒に来ていた


という点は、完全に見落としですね。


 そうすると、現地案内役が鍋島から派遣されているので、大庄屋に任命された3人も、なんらかの形で鍋島の影響下にあったと考えてよいと思います。