前回、前々回の話のように、佐賀藩の草創期において「神代家良」の側近として、鍋島家に仕えた「大塚隠岐・大塚新兵衛」が、もし仮に
■ 佐賀藩に残る大塚系譜の「大塚新兵衛」と同一人物、あるいは関係者とすれば、
その系譜を丹念に追ってゆけば何か新事実がわかるのではないか?と考えた。
まず、「大塚左京盛家」という人物は「北肥戦誌」に多々登場する。
したがって、肥前の戦国時代に生きていた人だとわかり、それに近い世代である「大塚新兵衛」が同時代の大塚隠岐であるとしても矛盾はない。
また、大塚隠岐が活躍した「土生島(はぶしま)の戦い」(別名:千布崩れ)は、永禄8年(1565年)の出来事であり、隠岐がまだ若侍であったと仮定すれば、
■ 天正10年=1582年ごろは、それから15年程度の経過であり、まだ壮年と思われる。
■ 慶長5年=1600年ごろは、土生島の戦いから35年であり、隠居前の家老級・重鎮としても矛盾はない。(六兵衛家良、という記載から)
絵下古賀村の伝承としては「天正年間に隠岐がやってきた」となっているので、天正期にいったん領地として絵下古賀を得たとすれば、これも大きな矛盾はないことになる。
このように、人名・時代などは、常に大きな矛盾や破綻がないから、真正面から否定することもできないのだが、もちろん可能性としては
■ 隠岐や新兵衛が、親子2代に渡っての通名である可能性も、もちろんある。
ということは、頭の片隅においておこう。
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さて、実際には「隠岐」が「大塚系譜」につながる人物かはまったくわからない。
ここまで丹念に調査しているが、まだ「状況証拠」にすぎないからだ。
そして、状況証拠としては「大塚氏が絵下古賀の西屋敷」という字名に存在することから、これは
■ これは少弐系「西氏」の系譜なのではないか?
という状況証拠もある、ということだ。(もちろん、単なる位置関係、方角を示す可能性もある)
そこで、今回は、もう少し「西氏族」とはどんな系譜なのかを追求してみよう。
<着眼点1> 通字が気になる。
系譜では大塚新兵衛家房より以前は「盛家」「家清」「家宗」「家光」「家国」「家郷」「家俊」「家政」と、通字が「家」で統一されている。
それより以前は「資」になっていて、これは少弐らしい通字だ。(初代の武藤資頼に由来する)
では「家」の偏諱はどこから来ているのか? これはおそらくは「龍造寺氏」から来ているのではないだろうか?
戦国時代の隆信近辺の当主名は「胤」が多用されているが、それ以前は「家」が多用されていて、その流れではないか?と思われる。
(胤はむしろ九州千葉氏からもらっているようだ)
ただ、そうすると不都合な真実もある。大塚隠岐がもし「家」の通字を持っているとすれば、龍造寺家と対立していた神代氏にずっと仕えているのは、やや矛盾を感じる。
家房・新兵衛・隠岐のみが、もともとの大塚氏を離れていた「はぐれ武将」であったとすれば、なんとか言い訳は立ちそうに感じるが・・・。
<着眼点2> 倉町氏が気になる。
系図によれば
「大塚家郷=西上総介」「大塚家国=西陸奥守=倉町上野介家直」「大塚家光=倉町蔵人」
という人名が見られる。
戎光祥出版の「歴史研究」では
”その二十九代の孫、倉町上野介は初め西陸奥守家国、家道といい、その子直家が初めて「倉町」姓を名乗った”
とあるので、家直と直家の混同は見られるものの、この一族だろう。
直家については、佐賀県近世史料第八編第一巻において”西筑前守資俊七代”の注釈もあることから、これもおおむね系譜に合致するだろう。
「北肥戦誌」にも
「副島民部大輔、倉町上野介、倉町大隅守などの軍勢が駄市川原の神代陣へ攻めかかってきた。」
とあり、”神代側ではない”武将であることがわかる。
また「佐賀県史料集成 古文書編 第28巻」には、筑紫家文書として、「佐賀郡新庄金丸取帳」に
”下牟田 一所一段 倉町蔵人 ”
の領地表記がある。
さて、系図には登場していないが、ここで「倉町家定」という人物が登場する。
「佐賀県史料集成 第3巻」に収録されている「倉町家定起請文」は天正9年のもの。
この久家とは龍造寺政家の改名前の名であろう。
倉町右衛門兵衛尉家定が、龍造寺久家に忠誠を誓う内容になっている。
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二度拝礼し、謹んで天神地祇(すべての神々)に申し上げます。
私(久家尊公様)に対し、倉町の右衛門兵衛尉(家定)は、今后二心(裏切り)を持たず、野心や悪事、また毒殺などを企むような悪行は一切いたしません。
不可有之事(あってはならないこと) 一、どのような事柄であっても、もし神仏への祈祷などの儀式において、少しでも不審な点や手抜かりがあってはならないこと。 一、代替わりなどの際、その他のどのような時であっても、御所務(公的な務め)の儀式において、もし不審な点や手抜かりがあっては、自分勝手に横暴を働いてはならないこと。 一、どのような些細な御密事(秘密の事柄)であっても、その作法や段取りはすべて知っているのであるから、少しも門外不出(他人に漏らすなど)の例外的な事柄を作ってはならないこと。 一、如木甲冑(にょもっかっちゅう ※鎧兜の一種)共に、その心(本心)を入れ、取り返しがつかないような御用(失敗や失態)をしてはならないこと。 右条々、於相違申上者(右の条々に違反した者)
梵天(ぼんてん)、帝釈(たいしゃく)、四大天王(しだいてんのう)、ならびに日本国六十余州の大小の神祇(神々)、別しては伊豆、箱根、三嶋、大明神、賀茂下上(上賀茂・下鴨神社)、春日、稲荷、祇園、殊に当国(丹波国など)の鎮守である千栗八幡大菩薩(ちりくはちまんだいぼさつ)、河上大明神、氏神、賀茂大明神、本庄大明神、殊に当村(倉町)の龍造寺八幡大菩薩、天満大自在天神、神罰冥罰(神仏の罰)が身に加わり、忽ちに滅ぼされるべき者である。よって起請文をこのように差し出す。 天正九年八月二日 進上 久家尊公様 倉町右衛門兵衛尉 家定(花押)
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(訳出はGemini)
さらに「諸家系譜 六十、六十一」の龍造寺隆信の系図を見ると、面白いことが書かれている。
隆信には「江上家種」となった又四郎という子がいるのだが、その妹が
■ 大塚民部少輔尚茂 室 (→これは犬塚の誤記と思われる)
■ 神代大和守勝利 室
の妻となっており、そのあと「隆平」「政家」と続いていって、
■ 倉町右衛門尉 室
の記述があるのだ。
これらにより倉町氏ががっちり龍造寺グループに組み入れられていることがわかる。
今回はここまで・・・。








