2024年4月2日火曜日

<128> 古賀伊豆関連の補足 〜新史料発見!〜

  

 八丁牟田村の「古賀伊豆」と、絵下古賀村の「大塚隠岐」は基本セットでみてゆくべきものなのですが、古賀伊豆のその後について新しい史料が見つかったので紹介しておきます。


 なかなか新しい資料や情報というのは、年にひとつかふたつくらい出てくればいいほうで、そのためにルーツ探しの解像度というのは、細かいところを突けばつくほど難しくなるものなのですが、新データがでてきてウキウキです(笑)


 その史料というのは、「上毛及上毛人」(上毛郷土史研究会)の昭和4年の記事でした。



 まずは大石久敬という群馬県の高崎藩士だった人物から、話は始まります。


https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E7%9F%B3%E4%B9%85%E6%95%AC-38995


 この人は、高崎藩士なのですが、もともとは久留米出身で、「古賀貞房」の子から、城島の大庄屋大石家に養子に入ります。

 その後、いろいろあって流浪し、なんと高崎藩で召し抱えられた、という人物。


 この久敬の略歴を追ってゆくと、なんとそこに「古賀伊豆」が登場するというわけです!


■ 大石久敬は、もと古賀氏であった。

■ 古賀氏は、菅原道真の子孫で、筑前古賀村を拠点として「古賀」を名乗った。

■ 中世に「古賀伊豆守」が出て、彼は筑後国八丁牟田に移り、国士となった。

■ 龍造寺隆信に属し、その後は鍋島氏に仕えた。

■ 伊豆守の養子は宗乗。

■ その後、帰農した。


 という流れ。


 大石氏の話も、それはそれで面白いのですが、それはまた別のお話として、引用しておきましたので、お暇があればお読みください。


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 以前の記事


<125> 筑後大庄屋の正体を探せ3 ~古賀伊豆を追いかけて~

https://samurai-otsuka.blogspot.com/2022/10/blog-post_13.html


あたりと比較しながら読んでゆくと、ふんわりと状況が見えてくるのですが、


□ 筑前古賀村出身/三潴郡古賀村出身 と話にすこし齟齬がある。 

□ けれど、結局龍造寺隆信に従った。のち鍋島にもついた。


というあたりは、概ね正しいのではないでしょうか?ところがさらに言えば


□ 秀吉勢が押し寄せてきたあとは、小早川に従った


というオチだと思います。


 特に龍造寺隆信亡き後からのバタバタは、とても大塚隠岐の動きと似ている感じがしますね。


 逆に、すこし謎なのは


□ 古賀氏の祖を菅原氏としている点


です。筑前国の古賀村はいくつかあるのですが、(上座郡古賀 糟屋郡古賀 など)たとえば上座郡の大庄屋古賀氏は少弐系だったり、

http://hiramatsu-asakura.jp/bi-liang-song-yomoyamahua/gu-he-da-zhuang-wu/

するので、この話はどこが出処なのかな〜、と思ったりもします。


 しかしまあ、結論としては、


「なんやかんやで地場にいた(筑前から筑後にいた)古賀氏から伊豆守が出て八丁牟田を拠点としたことは間違いなさそうで、なおかつ彼は龍造寺に従った」


という点については、確実っぽいですね。


 前後の文脈は難しくて、龍造寺に送り込まれて八丁牟田に来たのか、八丁牟田にいた者が龍造寺の軍門に下ったのかは微妙です。

 逆に考えると「大塚隠岐」はどうもある一定の時期以前は絵下古賀にはいなさそうなので、「送り込まれて絵下古賀に来た」と考えるのが自然なのですが、そうすると寛延記にあるように、


「大塚隠岐は古賀伊豆の家来?」


というニュアンスも、なんとも言えないなあ、と思います。同時期にやってきて、格上が古賀伊豆だった、ということは、ここまでは確かだろうとは思います。


 直接の主従関係なのか、それとも「格上・格下」の議論なのか。まだまだ探っていければ嬉しいですね。


 とりあえずは、ここまで!