最近は、大塚姓に関わりなく、氏族研究、ルーツ探しのノウハウを生かして、すべての苗字を対象に調査研究をしているのですが、このたび、とある福岡藩の藩士に関わるおうちの資料を拝読させていただき、大変貴重な経験をさせていただいた次第。
もちろん、個人情報のことがあるので、該当の苗字については伏せさせていただきますが、
「そのお宅に残っている、家系図や該当人物の資料がしっかり書かれている」
ことと
「『福岡藩分限帳資料集成』に掲載されている人物名がほぼすべて合致する」
という、二重の意味で貴重な調査体験となりました。
いやあ、すばらしいです。大体の場合は、「家に残っている伝承」は、あやふやなものが多く、「どこかに本質は残っているけれど、伝言ゲームのようにずれている」場合が大半なのですが、このおうちの場合は、
「なんでもかんでもかなり正確に記述されたものがある」
ということで、感服しました。
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さすがは武家の家系だなあ、と思ったのですが、少し注意点や課題のようなものも見つかりました。
特に武士の家系においては、上記のように「しっかりした資料が残っている状況じゃないとわからないこと」がたくさんあるように思います。
そうした研究上のポイントや課題点をいくつか例示してみたいと思います。
① 苗字が変更になる場合が多い。
武士はさすがに苗字を名乗れるだけあって「苗字を変えるのも簡単」なところがあります。桂小五郎が木戸孝允とかね。
もちろん、「好きに変えられる」わけではなかったようですが、該当のおうちでは「命によりAからBに改める」みたいな感じで、
なぜAからBなのか?
とか
ちなみにAの経緯とBの経緯は?
とか、そういう情報が全くカットされていたりして、それはそれで難しいポイントだなあ、と思います。
こういうのは、家の由緒書きにしか書かれていなければ、外部資料からはわかりません。
② 養子を入れることが多くて、ほとんどDNA的には繋がらなくなる。
私は久留米藩士の家系図も研究していましたが、福岡藩でも「まあ、びっくりするほど養子が多い」のが実態です。3代とか4代変わると、もう別の家柄になるくらい養子が入ります。
それほどまでに「家を守る」という意識と役職の継承が強かったのでしょうが、今日の感覚では考えられないほどDNA的にはバラバラな家系がひとつの苗字を継ぎます。
そうすると、福岡藩分限帳集成を見る上では、古い時代から新しい時代まで同じ石高のAという苗字の人物が続いていると「ああ、おなじ家系の人たちなんだな」と思いがちですが、実際はびっくりするほど他人だらけになっていて、実はBからの養子、ここはCからの養子、たまにAの実子、みたいな継ぎ方をしていることがわかります。
このあたりも外部資料の限界を感じます。私たちは苗字で基本的には家系を追いかけますが、養子を丁寧に記録した内部資料が見つからなければ、真実は遠い、ということもありえるわけで。
まあ、江戸時代の人は「ボクの本当のお父さんは・・・」なんて二の次だったということでしょうか?
③ 誤記や代々の写し間違いがある。
家伝と分限帳の記載を比較することで、写し間違いや誤記が発見されることが多々あります。土地名くらいだと、客観的資料から修正が可能ですが、人名だとまず難しいでしょうね。
「そういう人物がいた」
とこっちも思い込まざるをえない部分があるし・・・。
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いずれにしても、ルーツ探しのポイントは常に
「私的資料、家の内部資料と公的資料との付け合せ」
がすべてである、ということですね。
資料だけでなく、状況証拠においても、やはり「家の内部の伝承と、外部の状況の付け合せ」は必須です。
どちらか一方を鵜呑みにするのも間違いです。
いやあ、家系って本当に面白いですね。ではさよなら、さよなら、さよなら。
2016年3月9日水曜日
2016年3月7日月曜日
<117>「歴代鎮西志」と「歴代鎮西要略」における、大塚隠岐の記述を比較する
しばらく新しい展開がなかった当家大塚氏についての記事だが、時間のあるときに「歴代鎮西志」と「歴代鎮西要略」の記述の違いをチェックしておこう。
というわけで、以前に前半部分の「大塚氏」の由来のあたりについては終えているので、今回は神代長良の土生島の戦いにおける「大塚隠岐」の記述についてまとめてみる。
ああ、この記事から読んだ人はなんのこっちゃさっぱりわからんと思うけど、ごめんちゃい。
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歴代鎮西志
(四月)廿四日黎明 納富但馬守龍造寺美作守、并高木副島等兵 其員六百許。急取駆于土生島砦。
江上武種自東方、均来囲。三方重囲而大発鬨声。城中男女周章騒。不意之事也。納富信景特進攻寄城戸口也。長良曰、「我所欺乎。隆信已遭不意之囲。運命之所蹙(迫)也」
当自殺云々。一族臣従頻諌焉。以令出去土生島長良依之。夜中出奔而入。金立山従者僅三人耳。土生島館者。神代左京亮、中野肥後、大塚隠岐、秀島伊賀、福所大蔵。古河帯刀等。
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歴代鎮西要略 巻第七下
(永祿年表 永祿八年乙丑)
(四月)廿四日黎明 納富但馬守龍造寺美作守、并高木別当等兵 其員六百許。急取駆于土生島砦。
江上氏種自東方、均来囲三方。重囲而大発鬨声。城中男女周章騒。不意之事也。納富信景特進攻寄城戸口也。長良曰、「我所欺乎。隆信已遭不意之囲。運命之所蹙(迫)也」
当自殺云々。一族臣従頻諌焉。以令出去土生島長良。夜中出奔而入。金立山従者僅三人耳。土生島館者。神代左京亮、中野肥後、大塚隠岐、秀島伊賀、福所大蔵。古河帯刀等。
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両者を比較してみると、詳細な部分で差異はあるものの、基本的には丸ごと書き写しているらしき様子がわかる。句読点の打ち方と送りがなの加え方は、実はもう少し両者でばらけているのだが、白文レベルではほぼ同文だと言ってよいだろう。
「北肥戦誌」では、もうちょっとだけ大塚隠岐が人間らしく描かれているのだが、歴代鎮西志、要略では名前のみである。
それもなんとなく理由がわかっていて、このあと、長良家臣が1人ずつ壮絶に死んでゆくのだが、さすがに死に様はリアルに描かれる。この討ち死に場面では1人ずつの名前と様子が丁寧に記述されてゆくのである。
しかし、大塚隠岐は、死なない。というか、死んだという記述がないのだ。これをもって私は、
「大塚隠岐は死んでいない」
と推理するのだが、いかがだろうか?!
というわけで、以前に前半部分の「大塚氏」の由来のあたりについては終えているので、今回は神代長良の土生島の戦いにおける「大塚隠岐」の記述についてまとめてみる。
ああ、この記事から読んだ人はなんのこっちゃさっぱりわからんと思うけど、ごめんちゃい。
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歴代鎮西志
(四月)廿四日黎明 納富但馬守龍造寺美作守、并高木副島等兵 其員六百許。急取駆于土生島砦。
江上武種自東方、均来囲。三方重囲而大発鬨声。城中男女周章騒。不意之事也。納富信景特進攻寄城戸口也。長良曰、「我所欺乎。隆信已遭不意之囲。運命之所蹙(迫)也」
当自殺云々。一族臣従頻諌焉。以令出去土生島長良依之。夜中出奔而入。金立山従者僅三人耳。土生島館者。神代左京亮、中野肥後、大塚隠岐、秀島伊賀、福所大蔵。古河帯刀等。
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歴代鎮西要略 巻第七下
(永祿年表 永祿八年乙丑)
(四月)廿四日黎明 納富但馬守龍造寺美作守、并高木別当等兵 其員六百許。急取駆于土生島砦。
江上氏種自東方、均来囲三方。重囲而大発鬨声。城中男女周章騒。不意之事也。納富信景特進攻寄城戸口也。長良曰、「我所欺乎。隆信已遭不意之囲。運命之所蹙(迫)也」
当自殺云々。一族臣従頻諌焉。以令出去土生島長良。夜中出奔而入。金立山従者僅三人耳。土生島館者。神代左京亮、中野肥後、大塚隠岐、秀島伊賀、福所大蔵。古河帯刀等。
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両者を比較してみると、詳細な部分で差異はあるものの、基本的には丸ごと書き写しているらしき様子がわかる。句読点の打ち方と送りがなの加え方は、実はもう少し両者でばらけているのだが、白文レベルではほぼ同文だと言ってよいだろう。
「北肥戦誌」では、もうちょっとだけ大塚隠岐が人間らしく描かれているのだが、歴代鎮西志、要略では名前のみである。
それもなんとなく理由がわかっていて、このあと、長良家臣が1人ずつ壮絶に死んでゆくのだが、さすがに死に様はリアルに描かれる。この討ち死に場面では1人ずつの名前と様子が丁寧に記述されてゆくのである。
しかし、大塚隠岐は、死なない。というか、死んだという記述がないのだ。これをもって私は、
「大塚隠岐は死んでいない」
と推理するのだが、いかがだろうか?!
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