三潴郡絵下古賀もしくは八丁牟田あたりに来住した「隠岐」は、もともと神代長良の家臣であった「大塚隠岐(守)」ではないか?
というのがこのブログの大きな流れなのだが、その後のさまざまな調査で、草創期の佐賀藩に属した
■ 大塚隠岐(守)
は
■ 大塚新兵衛(尉)
と同一人物である、ということまでわかってきている。
(神代家とその一族 1980)
上記2つの文書のうち7名の侍の名簿が合致するようになっている。
彼らはもともと神代家の家臣で、龍造寺家臣、のち鍋島家臣に吸収されていったと考えられる。
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これに「武藤少弍興亡史 1989渡辺」に収録されている「大塚系譜」を当てはめてみると、仮説ながら興味深いことがわかる。
この系譜は、少弐系大塚氏(佐賀藩士)の系統を明らかにする興味深い資料なのだが、この一族は
■ 少弐氏
の分かれでもあり、
■ 西氏
を名乗った
■ 大塚氏
ということになる。
厳密に言えば、神代家に仕えた大塚隠岐の出自は、まったく良くわからない。隠岐の事績は突然、土生島城の戦いの時に現れ、龍造寺に攻められ神代長良が脱出する時に、大塚隠岐が城に残って長良夫妻を逃がした、という功が「北肥戦誌」などに記載されているのみだからである。
ところが大塚隠岐はこの戦いで亡くなったりはしておらず、そのまま長良にくっついて(再会して)龍造寺家臣に組み込まれていったようだ。
さらに鍋島の家臣にもなってゆくのだが、前述の7人については、すっきりと鍋島直茂の言うことを聞かなかったようにも読み取れる。
家臣が継承される段階で、どうもこの7人については、ゴタゴタがあったようなのである。
それはさておき、「大塚新兵衛=隠岐守」が、もしかすると佐賀藩「大塚系譜」に出てくる
「大塚新兵衛家房」
なのではないか?という新しい仮説が立てられることになった。
そもそも隠岐守・新兵衛とも諱がはっきりしていないため、可能性としては
「大塚新兵衛=隠岐守=家房」
である、とも考えられるわけだ。これは、今回はじめて登場した新説である。
系譜を見ると、佐賀藩大塚家は、大塚家房の兄弟である「大塚宗清」から続いていることになっている。
この系統は佐賀藩士として続くが、「家房」が分かれてからのち、どうなったかは言及がないわけだ。
ちなみに、家房と宗清の親類は、
「大塚左京(亮)盛家」
である。 この系統は代々「大塚左京亮」を名乗っており、「北肥戦誌」にもよく登場する武士だ。小城勢として名前が出てくるグループということになる。
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大塚隠岐守・新兵衛・家房 が同一人物であり、彼が三潴郡絵下古賀に来た「龍造寺家臣の隠岐」であったと仮定すれば、
絵下古賀の小字(こあざ)である 西屋敷 に大塚姓が居住することと合致する
のかもしれない。
(実は絵下古賀と八丁牟田には、「沖屋敷」(隠岐屋敷の転か?の小字もある。)
西屋敷の名称はあるが、東屋敷は無く、また何を持って「西」なのかが判然としない地理であることも勘案すると、「西屋敷」とは「西氏の屋敷」とも解釈できることになる。
とすれば、やはり私の家系は、西氏系・大塚氏の末裔ということになるのだろうか?


