判明分ごとに詳細を追加してゆくのでお楽しみに!!
(2014.8.23判明分)
基礎資料
『北肥戦誌』によれば
「九州には肩を並べる者がなく、子孫は次第に繁栄し、朝日・窪・出雲・平井・馬場・山井・志賀・大塚・加茂・吉田と名字が分かれる。一門はそれぞれ肥筑地方に蔓延って大勢の者となった」
との記載があります。
◇「少弐」さん
現在も九州に残る少弐姓、苗字の由来はもちろん大宰少弐の官職による「武藤少弐」の系列だと考えられます。
戦国武将・戦国大名としての少弐本流は滅び、大半の子孫は「武藤」に苗字を戻していますが、「少弐」姓のまま現代にいたる家系も。
福岡県から山口県にかけて現在も分布している苗字だそうです。
◇「武藤」さん
少弐氏の本来の苗字、それが「武藤」氏です。少弐本流が滅びた後、苗字を武藤に戻している家系がおおいとのこと。「少弐さん」の項を参照のこと。
◇「朝日」さん
少弐盛経の子の少弐資法が祖とされています。佐賀県朝日山城を拠点としましたが、本流は断絶しています。
ウィキペディアを参照のこと。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E6%97%A5%E6%B0%8F
◇「横岳」さん
少弐貞頼の子頼房が文安元年(1444)、肥前国三根郡西島を拠点として横岳を称したことからはじまります。
播磨屋さんのサイトを参照のこと。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/yokotake.html
◇「平井」さん
少弐資頼の次男盛氏の子経氏が平井と改姓し肥前に移ったとされています。
室町時代には千葉氏家臣となったことが、佐賀県杵島郡白石町のサイトに示されています。
白石町ウェブサイト
http://www.town.shiroishi.lg.jp/view.php?pageId=2298
◇「馬場」さん
少弐貞経の息子「少弐経員」から始まり、佐賀県綾部城近辺を拠点としました。(現みやき町)
系譜の詳細は「大塚さん」の項を参照のこと。
◇「大塚」さん
当ブログにて追跡中の、少弐系大塚氏は、3系統見つかっています。
① 佐賀の大塚家に伝わる系譜では、少弐冬資の弟、資俊から-某-資忠-資家-俊氏と続き、この少弐俊氏が嘉吉元年に佐賀、三根郡大塚村に来て大塚と名乗ったとのこと。
家紋は、靠目結を略して釘抜の紋に変えたそうです。出典は『武藤少弐興亡史 渡辺文吉著 海鳥社1989』
② 『歴代鎮西志』によると、
『少弐貞経入道妙恵に5人の男子があった。頼尚は世継ぎであり、次男は馬場肥前守経員と号した。三男は頼賢である。四男貞衡は大塚氏を称した。五男は僧宗応』
という系譜で、少弐貞衡から大塚氏がはじまります。
③ 『肥前旧事続編料』によれば、
『永正9年、佐賀本庄神社の宮司別当大塚新右衛門藤原重家という人物がいたが、あるいはこの家は現在は絶えていて、今の大塚氏は與賀神社神官千布氏の次男が家を継いで大塚と称している』
という話が伝わっています。
◇「吉田」さん
少弐資頼の弟宗平の子孫の頼宗が、規矩郡(現在の北九州市小倉近辺)吉田村を開発して土着し吉田を称したことにはじまります。下記サイト参照のこと。
企救の里のサイト
http://www.geocities.jp/kikunosato2005/sub1a.html
◇「古賀」さん
少弐氏系の古賀氏の系譜です。
『永正3年、少弐重房が穂波郡弥山に隠れて、はじめて古賀氏を称し、その子、古賀重儀が天文23年に上座郡に移住、平松村を興した』
という話が、『考証古賀家譜・S13古賀氏同族会』に記されています。
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