前回、南北朝時代の豊前国にナゾの大塚氏がいた資料を挙げた。
しかし、時間的にも空間的にも、いまいちピンとこないので、歴史のはざまを彷徨っている最中である。
というわけで軽-くおさらいしておこう。現在の地理関係で、把握してほしい。
長崎県 | 佐賀県 | 福岡県 | 山口県
| 熊本県 | 大分県
地図くらい絵で描けよ!というツッコミはなしね。
これを旧国名で描き直すとこんな感じ。
肥前 | 筑前 | 豊前 | 長門
| 筑後 | 豊後 |
| 肥後 |
上下の図を対比させながら、イメージするとわかりやすいが、現在の福岡県というのは、「筑前・筑後・豊前」が合体してできていることになる。
もっとざっくり言えば、「福岡県とは博多と久留米と小倉でできている」ともいえるのだ。
もちろん、詳しく言えば、豊前国は現在、福岡県と大分県に分割されている。
大宰府との位置関係で言えば、大宰府は現在の太宰府市~筑紫野市とされているので、
すぐ肥前 ← 大宰府 → すぐ豊前
↓
すぐ筑後
ということになる。 なるほど、少弐系大塚氏が豊前に行くことは不可能ではない。
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そこで、豊前国の番を張っていた「大友氏」を中心に大塚氏との関係を見てゆこう、と思い立った。
九州トップクラスの戦国大名「大友氏」の家臣に大塚氏がいたのか?!
という壮大な調査である。
大友氏は、そもそも関東人である。少弐(武藤)氏も関東人であり、鎌倉時代に平家グループの多かった九州において源氏サイドからの「見張り役」の意味で、送り込まれた東国御家人たちだったのである。
その大友氏、豊後守護職として豊後を拠点に活躍する。
(ちなみに武藤氏は、最初は平家方であり、一の谷合戦の後源氏方に投降。そののち、源氏サイドの九州見張り番として鎮西奉行を任ぜられる)
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戦国期に入ると、豊後大友氏と佐賀龍造寺氏は永遠のライバルとして戦うことになるわけで、当ブログではおなじみの
「茗荷丸の家紋をゲットだぜえええええ!by信生」
伝説へと繋がるわけだ。ポケモンか!
さて、肝心の「大友家臣大塚氏」について二つばかり記録を発見した。
①<中世> 戦国大名城下町の移転と大名権力 八木直樹(大分大学)
http://www.ed.oita-u.ac.jp/kykenkyu/bulletin/kiyou/yagi34-1.pdf#search='%E5%A4%A7%E5%8F%8B%E6%B0%8F+%E5%A4%A7%E5%A1%9A%E6%B0%8F'
上記論文に収録されている戦国期の大友家臣団リストに「大塚氏」が見える。
『臼杵宝岸寺過去帳』より 天正15年4月19日 大塚民部
さて、記載はこれだけなので、大塚民部が何者かよくわからなかったのだが、下の資料に面白いことが載っていることがわかった。
②<近世> 中川氏と旧大友領民 芦刈政治(別府大学)
http://bud.beppu-u.ac.jp/xoops/modules/xoonips/download.php/kc09001.pdf?file_id=6902
これはまた別の論文だが、近世江戸時代の「大友家臣団のその後」について説明がなされている。
江戸期になり、中川秀成が初代豊後岡藩主として入部した際、旧大友家臣たちがどのように藩政に組み込まれたかを示すのがこの論文だが、そこに2氏大塚氏が見えるのだ。
大塚利兵衛 (旧主家)朽綱家 長野邑千石庄屋(直入町)
文禄三年
大塚武左衛門 (旧主家)朽綱家 枌原村小庄屋(直入町)
宝永三年
直入町は、現在の大分県竹田市に当たる。 この村の庄屋として大塚氏が存在していたが、もともとは大友家臣団の大塚氏が、中川藩政にあっても「庄屋として重用された」ことがわかる。
ちなみに現在の大分県竹田市直入町近辺に大塚さんがたくさん存在していることが判明。
しかし、この地区の大塚さんの大友氏従属以前のルーツが、まだわからない。
さて、この論文において「大塚民部」について解説があった。(以下引用)
『また、大塚民部は、朽綱家没落のときに浪人となったが、その子善右衛門は中川久盛の嶋原一揆出陣に従った。その子武左衛門は父の武功によって枌原村小庄屋に任ぜられている。(郷中旧家系図)』
これで大友氏家臣大塚氏の「戦国期~近世初期」の系譜が繋がったわけだが、残念ながらこの大塚氏が「どこから来たのか」はわからない。
ナゾがナゾを呼ぶ豊前近辺の大塚氏については、今後の調査を待て!
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