2014年8月8日金曜日

<90・姓氏家系>農民よ大志を抱け! ~在地在農主義で読み解く農家論~

 苗字や家系について研究しているうちに、一般的に思われていることとは多少様子が違う、

「真実」

のようなものを感じるようになった。こうしたことは、おそらく専門の研究者の方々であれば、それぞれの立場で把握なさっていることなのかもしれないが、どうもそういうことが一般論として流布していないので、今回まとめてみようと思う。


 テーマはズバリ! 農民よ大志を抱け! 農家農民の重要性を姓氏家系から読み解く!


である。

 
 一般的には、”士農工商”なんてことばがあるように、近世においては一定の階層化と序列化があったように解釈されている。


 それが明治維新の結果、「皇族・華族・士族・平民」といった階層分類に受け継がれていったことは、みなさん御承知の通りである。


 ところが、それは「明治政府と支配層」から一方的に見た分類であって、この国で起きていたリアルな実態とは実はズレがあるように思う。


 では、見方を変えればどんなことがわかるのか?今回は「姓氏家系」のサイドからみた、わが国の在り様を考えてみたいのだ。






<重要視点 その1> 冷凍保存された苗字?!260年の時空を越えて

 江戸時代の身分制度とは「イス取りゲーム」のような側面がある。それまで戦国武将たちが好き勝手に領地を拡大したり、あっちへいったりこっちへ行ったりしていたのが、「天下統一」された時点で、

 はい、その場所でストップ!動いたらダメよ

と言われたような感じなのだ。 

 
 その瞬間、戦国大名だったものは、「その場所で本領安堵される」か、天下統一者(初期は秀吉、のちに徳川家)に「転封させられる」かのどちらか、というわけである。

 武将だったもので、大名下で参戦していなかった者、在地領主化していたものは、そのまま帰農せざるを得なくなり、「土地を所有している農家の親分」としてその場所にとどめ置かれた。

 ひどい場合には、元の親分は違う領地に国替えになっているのに、在地化していたことで(隠居なども含む)、家臣としてついていくわけにもいかず、取り残されたものも多いことになる。


 当家大塚氏の場合は、どうやら天正末期の時点で、三潴に居たことで龍造寺本体に従属してゆくことが困難になったと考えられる。佐賀藩そのものは、天下人秀吉に従い、のち家康に従うのだが、佐賀藩の領土を決めるのは秀吉ないし家康である。

 その領地以外に、「実は、どこそこに家来がいるんですけど」と思っていても、そこは既に別の大名にあてがわれている、ということが起きたのだ。

 同時に、刀狩が行われ、また身分が統制されていくことで「取り残された元武士たち」や「半侍半農」だった武装農民も、みな農家としてその場所に固定化されてゆくわけである。


 そして、江戸時代になり、農民は「苗字が名乗れなくなった」!


 これはすごいことで、苗字という権利が停止させられたことで、天正期の苗字がそのまま冷凍保存されてしまったのである。それも明治期まで260年、凍結されてしまったのである。

 わが大塚家も、恐らくは天正以降凍結された苗字だと考えられる。母方の苗字なんかは、ズバリそのまま天正11年から家が続いていることが記録に残されている。
 

 一方の武士階級については、諸事情で苗字が変わるということが頻繁に起こっている。功績によって変わったり、主君に与えられたり、理由不明のものまで、けっこう苗字が変わっているケースがある。

 苗字を名乗れるということは、苗字を変えて名乗れるということでもある。

 苗字を名乗れないということは、変えることもできないのである。


(幕末~明治維新期の有名人で苗字も名前も変わっている人物が多いことは、言うまでもない)


 つまり、在地領主・帰農武家を発生とする農家の苗字は、中世の氏族の証をそのまま残している可能性がある、という意味で重要なのである。






<重要視点 その2> ”領地”とは誰のものだったのか?庄屋という存在が意味するもの

 ふたつめの超大事ポイントは、領地とは結局誰のものか、という視点である。

 わが国の領地は、もともとは天皇家のものだった。それが「開墾したやつはその土地をもらえる」ことになり、様々な事情で「その土地を朝廷由来の権力で掌握したものや、武力で実行支配したものが領地を我が物にする」ことができるようになった。

 戦国時代がまさにそれで、戦国大名が武力で実行支配した地域は、その戦国大名のものとされたわけである。

 ところが、江戸幕府ができると、すべての領地は徳川家のものであり、諸国の大名は、それを徳川家の権威の下で預かり支配できることになった。


 だから徳川の意向に沿わない場合は、領地変えや取り潰しにされたのである。


 ここからが重要ポイント。


 明治維新になって、徳川家が領地支配を放棄した際、土地は誰のものになったのか、というナゾを考えて欲しい。

 支配権は天皇家に移った。とすれば国内の土地はすべて天皇家の領地になったのか?!


 違うのだ!


 明治6年地租改正により、それぞれ土地は「土地所有者」のものとなった。それはつまり、誰なのか。誰が土地を持っていたのか!


 江戸時代に戻ろう。農村には2種類の農民がいた。土地を所有していた農民と、耕作を請け負っていた土地を持たない農民である。

 土地を持っていた農民とは何者か、・・・・そうなのだ。それはかつてその土地を実行支配していた、直接統治していた武家の家臣たちなのである。


 ちょっとわかりにくいが、こういうことだ。

 守護大名も、戦国大名も、領地を所有してはいても実行支配していたのは部下たちであった。戦国武将たちも、石高制で領地を貰っていたが「そこに住んでいた」わけではなかった。石高が多ければ多いほど、名目上広い土地を所有できたが、


 その場所にいて、その大地を踏みしめているわけにはいかなかった


のである。

 とすれば、その場所に住んでいたのは誰か?それは戦国武将にもなれなかったその家臣団の誰それという一武士である。(その大半は武将たちの親族や縁の深いものだっただろう)


 その者達は、江戸時代には「庄屋層」として「土地持ちの農民」という位置づけを受けていた。


 彼らが、最終的に、現地にいてその土地を実行支配しており、明治になって「実際にその土地を所有」することになったのである。


 だから、ここからが結論!


 日本という国を最終的に実行支配し、わが国の最後の領主となったのは「庄屋層」、つまり農民だったのだ。


(☆荘園・寺領・天領などその他いろいろの要素は、あえて省いて簡略化しています)





<重要視点 その3> 在地在農主義で読む わが国のカタチ


 明治維新とは何か。それは、天皇家にしろ、徳川家にしろ「朝廷的権威に裏付けられた領地所有」の終焉を意味した。


 そして、ある意味恐ろしいことに、特権階級だった武士たちに対して「実は何も与えるものが残っていなかった」という放置プレイと化したのである。


 自分たちが所有していたと勘違いしていた石高・領地は、実はまったく仮想のものであり、米を生み出す土地を実行支配していた農民(ただし、庄屋層)がそれらを名実ともに掌握してしまったのである。


 経済史的には、これをもって近代型資本主義が成立した(資本=土地を所有している連中が生まれた)とするが、もっともっと基本的なことを確認しよう。


 そうなのだ。土地は実行支配したやつが勝つのだ。


 某竹島みたいなもんで、名目上の支配権は、実行支配に立ち向かえないのである。



 この「実行支配」の重要性を、私は「在地在農論」「在地在農主義」ということばで表したい。


 わが国の国土形成をしているのは、すくなくとも戦国時代の終わりに「在地」を実効支配した層である。

 そして、彼らは「在農者(造語)」として、その地で農民として過ごしてきた。


 この農民は、一般的な歴史観で捉えられている農民とはまったく違う。

 歴史学的には、こうした庄屋層が支配者サイドに立っていた例がたくさんあるが、


士・農


というラベルだけでこれらを論じるのは軽率である。


 明治維新が明らかにしたように、”士”は、名目上の領主に過ぎず、実態としての庄屋層”農”が実の領主だったとすれば、わが国の歴史観は大きく変わってくる。






 というわけで、超激論でお届けした今回の結論はこちら!


 農民よ大志を抱け!わが国の最終領主は、田舎の農家のみなさんなのだ!


 たとえ耕作を放棄していても、わが国の国土と国体を維持しているのは、戦国志士の末裔である農家のあなたがたなのです!



ババーン!!!!!

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