お盆休みの間、あまりブログの更新はしていなかったものの、地道な調査は継続して行っていた。
そんな折、前々回の記事に少し書いたのだが、「九州地方を旅して大塚さんの先祖を探している方」というのが登場したらしく、当家を取り巻く事態に大きな展開があったのだが、それは個人情報のこともあるので、まろやかにぼやかしながら書いておこう。
なぜ、そのような方がいることを、兵庫県に住んでいる私が知っているのか、というミステリーのナゾが解ければ、意味がすぐ理解できるに違いない。
そう!賢明な読者諸君ならもうおわかりのことと思う。
その大塚さん、もしくは大塚さんに関わりがある方が訪ねていった先は、うちの先祖と共通なのである。
というわけで、もし当ブログをお読みでしたら、ご連絡をいただきたい!
あ!っと驚くようなさらに深い真実と、綿密な調査に基づくものすごい情報を
お伝えできるのに、残念でならない。
メールアドレスは
samurai_otsuka@yahoo.co.jp
なので、心あたりのあなた!ぜひメールください。
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さて、夏の間どこに引きこもっていたかといえば、当家、三潴の大塚家について
「ミッシング・リンク」
を探していた。
おさらいがてら説明しよう。
そもそも、当家に伝わる伝承は、久留米藩に仕えていた武士の大塚氏が当家の先祖である、というおじいちゃんの昔話であった。
そこから、「久留米藩の藩士の名簿」、「久留米藩の藩士の系図」などをしらみつぶしに当たり、また「久留米藩内の浪人のリスト」や「久留米藩内の旧家の経歴」などまでガッツリ調査したのである。
しかし!あえて言おう!
どこにも当家の痕跡が出てこないのである。
もちろん、久留米藩の藩士名簿に大塚氏は存在する。しかし、最も石高の高い馬廻りクラスの大塚氏は、天領日田から移動してきた幕府直轄の代官の手下であったし、それ以外の大塚氏も文献から判明する限りは、大分系からの移動者であった。
そして、今回新たに判明したのだが、
「久留米藩 有馬家」が、関西から久留米に連れて行った武士の中に、「大塚」の苗字がなく、また久留米藩の初期体制の中にも、「大塚」の苗字の武士がいない
ということがわかったのである。
つまり、お隣の黒田家と違って、久留米藩と大塚氏の関わりはそもそも薄いということがわかってきたのだ。
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これは、ある意味では当ブログの調査結果と合致する。
というのも、前半戦こそ「有馬家と大塚氏」の線で調べていたが、後半戦では「佐賀勢大塚氏」の線が色濃くなっている。
三潴の大塚氏は、久留米藩よりも、佐賀系武士と関わりが強いことがわかってきているのだ。
そこで、「ミッシングリンク」の話である。
旧三潴地域は、
<天正の頃・戦国時代は> 龍造寺氏の支配化にあった(可能性が限りなく強い)
<秀吉の天下統一時は> 立花氏が柳川城に入った。
<江戸時代草創期は> 田中氏が三潴を領した。
<江戸時代初期以降は> 久留米藩有馬氏・柳川藩立花氏が分割統治
という流れになっている。
そして、このブログの推論によれば、当家大塚氏は「龍造寺の現地駐留部隊として三潴地域に屋敷を構えたまま、帰農」した可能性が高い。
ついでに言えば、有馬氏が田中氏から三潴を引き継いだ際、旧田中がらみの家臣をほとんど取り立てず、家臣団はすでに足りているという判断をしたので、
この時点で三潴大塚氏(旧龍造寺家臣グループ)はおそらく「庄屋止まり」で完全に農民化されただろうと推測できるわけだ。
さらに言えば、このあと江戸時代宝暦期を中心に、久留米藩内では大規模な一揆が起きており、その際に各三潴地域の庄屋たちが一揆の標的になったり、あるいは農民側についたり、大混乱が起きていることがわかっている。
つまり、宝暦時点でも「庄屋としての仕置」に何らかの処分が行われた可能性もある。
(農民側についた庄屋は、打ち首になった者もいるし、藩側にいた庄屋も打ち壊しの被害や庄屋交代などの処分もあった)
事実、当家に存在する江戸期の墓碑は、宝暦の時点で止まっており、それ以降に建立された墓碑が現存していないことが、何かの事情を指し示している可能性が高い。
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つまりだ。
田中藩政から有馬藩政の移行の際と、宝暦一揆前後の2つの時期に、当家をめぐる藩政上の処遇が大きく変わった可能性があるわけで、そこで情報が途切れているのである。
そこをつなぐものが、まだ見つかっていない。
頑張れ!大塚某!負けるな!大塚某!
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