九州北部の大塚さんからどんどんメールが寄せられているこの週末。かるーく返信させていただいているが、それぞれ「かなり濃密な」情報をお知らせくださっているので、これから詳細な調査に入りたいと思っている。
なかでも、神代家に関わりのありそうな大塚さんのゆかりの方から、たいへん重要なデータをいただいた。
龍造寺氏にとって、「おまえだけには勝てねえよ」な相手だった神代勝利。その息子、神代長良の代になって、いよいよ龍造寺隆信は神代氏を打ち負かすことができたのだが、そんなこんなで、
今の私がいる
かもしれないと思うと、感慨深い今日この頃。
ちょっとおさらいだが、
神代氏の親戚となった千布氏は佐賀與賀神社の神主で、そのとなりの本庄神社の神主が、大塚氏で、千布氏が大塚の名前を継いだ話
を以前当ブログに書いた。
この話が、前回の記事とも関係していて、つまりは千布氏も大塚氏も、神社ネットワークを支配するために
「少弐・龍造寺・鍋島」あたりの誰かから送り込まれている潜入部隊
であることがわかってきた。 (本庄神社の場合は、登場人物が全員少弐氏だったので、まあ少弐から送り込まれたんでしょう)
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さて、近世になると佐賀藩に大塚氏がやたら存在することがわかっているのだが、私は何系統かパターンがあるように考えている。
ひとつは、少弐本流から分かれて、いつのまにか少弐~龍造寺~鍋島にくっついてゆくことになった本流系「大塚氏」、そして、ちょっと回り道をして神代氏についていった神代系「大塚氏」である。
この2系統は、最終的に佐賀藩士として一緒に戻ってゆくので、ちょっとわかりにくい。
もちろん、近世に至るまでに帰納して在地農家になっていった大塚氏もたくさんいるように思う。
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さて、今日の本筋のお話。それは神代系大塚氏の別の人間を発見した、ということである。
佐賀市史より
http://www.city.saga.lg.jp/up_download_file/s34608_20121227125631.pdf
神代長良の子は、養子である。あれだけ龍造寺方と戦った神代一族だったが、勝利はともかく、長良は隆信の家臣となり、そして子供もいなかった。
そこで長良は、龍造寺氏もしくは鍋島氏から養子がほしいと考え、結局「鍋島信生あらため鍋島信昌(最終的に直茂)」の養子になっていた信生の弟の子(つまり甥っ子)だった犬法師丸を養子に迎えることになった。
これが神代家良である。
これが天正7年ごろのことで、長良は結局病気で天正9年に亡くなったので、まあこの判断は良かったとしよう。
さて、神代家は佐賀のちょっと山奥「山内」地方を本拠地としていたが、山内軍団はもともと龍造寺とガチンコバトルをしていたこともあり、結束が強かった。
そこで、龍造寺から権力を継承した鍋島は、(家良が親族だとわかってるけど)、あえて、神代を領地替えして地元から引き離そうとした。
よって、神代氏の領地は、山内から芦刈(現在小城市)へ移動した。
さて、それから話が進んで佐賀市史でいうところの168ページ、関が原の戦いに参戦した神代長良の家臣に
大塚半助
という人物が出てくる。
物語は、この半助が、夜間に敵の斥候とたまたま出会ってしまい、ガンガン斬り合ってなんとか撃退したけどヘロヘロになった、というエピソードである。
で、まあよく頑張ったね、と大塚半助は「嘉光の腰物」と三十石を拝領したらしいのだが、まあほうびが安っぽいので、半助はそれほど身分が高くなかったのだろう。
しかし、神代氏の家臣に大塚氏がいた証としては面白い話である。
おとうちゃんの側近「大塚隠岐守」はもう少し位が高かったであろうし、千布氏系大塚氏もただの一平卒ではなさそうなので、
ある程度(身分の上から下まで)大塚一族が広がっていた
と考えることができる。
ただ、ひとつ気をつけたいのは「神代家良」とはすなわち鍋島の庶子なので、この大塚半助は
鍋島系から与えられた家臣(少弐系大塚氏であって、純粋な神代系大塚氏ではない)
可能性もある。
というわけで、大塚半助さんのご子孫の方、メールください!
(関が原の戦いで戦功を挙げて、鍋島の殿さんから刀をもらった伝説がある大塚さん)
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