2016年12月1日木曜日

あなたの先祖・苗字のルーツをたった500円(税別)からお調べします! 〜ココナラマスターに認定されました〜


 
 いつもご愛顧いただいております大塚某(おおつかとある)のココナラでのサービスが、たいへんに人気をいただいており、このたび



 ココナラマスター



に認定されました!


 ココナラ
 https://coconala.com/users/137871




 大塚姓の追求からはじまった私の探検ですが、先祖調査方法の方法が確立してからは



 どんな苗字・名字でもOK!


となっております(^^



 というわけで、ココナラさんのシステムを通じて、苗字調べ・ルーツ調べのサービスを提供しているのですが、



 すでに調査件数80件超え



でご愛顧いただいております。



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↑いちばん安いのはこれ!!

 税込み540円で苗字のルーツをお知らせするもので、証拠資料をつけることもできます。

★販売実績40件は、2016年12月現在。






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↑満足度NO.1はこちら!!!



 なんと、高校時代に勉強した日本史の教科書の中に、あなたのご先祖を登場させてしまおう!という物語です。


 日本の歴史を追いかけながら、その時「あなたの先祖はどこで何をしていたのか」まで描きます。

 こちらも、証拠資料をつけることも可能なので、ぜひ一度おためしください。


 教科書作成までついて、なんと税込み1080円という破格のお値段!





他にもココナラでサービスを提供していますので、気になる方はぜひチェックしてみてくださいね!


2016年11月23日水曜日

家紋と戦国武将でおなじみの播磨屋さんにお会いしてきました!




 
(丹波篠山 篠山城大書院)





 今日は、関西ではあいにくの小雨模様でしたが、なんと大塚某はずっとお会いしたかった



 家紋worldの播磨屋さん


にお会いしてきました!ばんざーい!



 家紋world

 http://www.harimaya.com/kamon/



 このブログのファンはもちろんのこと、「歴史マニア」「家紋マニア」「武将マニア」の方なら、必ず一度ならずも何度でもお世話になっているはず(^^;の播磨屋さんですが、私も十年前に自分の苗字調べを始めたときから



 かなりお世話になっており



ました。



 去年も、お会いできそうなチャンスがあったのですが、ちょうどその前に病気でぶっ倒れて10日ぐらい入院するハメになり、断念。


 そして、今年ようやく念願が叶ったわけです。



 お会いして、お話した感想は・・・・



 め、めっちゃいい人!



 物腰も柔らかく、家紋の話もわかりやすく、とても丁寧にお教えいただき、一層ファンになった次第です。


 ワタクシも播磨屋さんのように、いっそう家紋や氏族の勉学に励みたいと思った次第です(^^




 さて、今日は会場となった兵庫県の篠山城大書院を巡ってきました。


 

 (上段の間 復元)


 


 
 手作り甲冑の展示があったり、着付け体験があったり、面白かったですよ!


なんと、食べられるパンで出来た真田赤備えの展示も!!!



 というわけで、また播磨屋さんと家紋の話ができるよう、お会いできるチャンスを楽しみにしています~。


2016年10月31日月曜日

<調査中> 全国の大塚さん・大塚地区 「おおつか」なのかそれとも「おおづか」なのか?!


 久しぶりの更新ですが、いわゆる大塚氏族の調査については、とても地道に行っていて、なかなかまとまって書き込むレベルに達していないものもあったりして更新頻度が落ちています。ごめんなさい。



 さて今回はちょっと面白い資料があったので、みなさんに「問題提起」「なげかけ」だけをしておこうと思います。



 全国の「大塚」なみなさん!あるいは近くに「大塚」という地名があるというそこのあなた!



 それは「おおつか」と読みますか?それとも「おおづか」ですか?




 漢字の検索だけではひっかかってこないこの大問題(なのか?苦笑)。意外と奥深いかもしれません。



 というわけで、今日の元ネタの論文です。


■ 静岡大学リポジトリより


「オ・コ(小)とオー(大)が地名の連濁に与える影響について
: 明治期村名とその後の音変化から連濁・非連濁の傾向と規則性を読み取る」城岡啓二




 この城岡さんの研究は、音韻論的なアプローチですが、明治時代における村名について「おおつか/おおづか」の実例を示して下さっているのでとても参考になります。
 
 
 
 論文によれば、もちろん大半の「大塚」は「オオツカ」と発音されるのですが、
 
 
■ 鳥取市大塚(近世:因幡国高草郡大塚)はオホヅカ(つまり、オオヅカ)
 
■ 伯耆国久米郡大塚 (オオヅカ)
 
をはじめとして
 
■ 群馬県藤岡市
■ 群馬県吾妻郡中之条町
■ 埼玉県深谷市
■ 埼玉県比企郡川島町
■ 広島市安佐南区
■ 福岡県朝倉郡筑前町
 
の大塚はオオヅカであるといいます。
 
(いずれも郵便番号簿において)
 
 
 たしかに、これを裏付けるように、広島安佐南区の大塚駅などはWikipediaでも
 
大塚駅


わざわざ「おおづか」のふりがながありました。
 
 
 というわけで、上記のような地区にゆかりのある大塚さんは
 
 
「おおづかさん」
 
 
である可能性も出てきました。
 
 
 
 もし、われこそは「おおづかです!」という方がいれば、ぜひ教えてくださいね!
 
 
 


2016年8月18日木曜日

<姓氏家系>完全網羅 苗字 近藤姓・近藤氏・近藤さんのすべて! 全近藤氏族 由来・ルーツ 超まとめスペシャル

 今回の記事は、九州少弐系の氏族を中心としながら、横の広がりを調査するためにまとめたものです。


 近藤氏は”近江の藤原氏”などを意味しますが、少弐氏との関係においては、少弐の家祖である武藤資頼の父、武藤頼平の兄が近藤能成であり、その子が大友能直として大友氏の祖となることから採録します。



 全国の近藤氏・近藤さんにまつわる先祖のルーツを完全網羅しています。

 抜けているもの、未調査のものは、随時加筆しています。
(最終更新 2016.8.18)


☆個別の御家のルーツについてより詳しく知りたい方は、記事下部の
「苗字・名字の由来と先祖探しのアドバイスをします」
よりご依頼ください☆



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★ 参考文献 ★

 今回のリスト制作に当たっては、以下の参考文献を元に作成した。

 ① 「寛政重修諸家譜」 索引ならびに影印本 近代デジタルライブラリー 国立国会図書館

    http://kindai.ndl.go.jp/

 ② 「家紋でたどるあなたの家系」 千鹿野茂  八木書店

 ③ 「続・家紋でたどるあなたの家系」 千鹿野茂  八木書店

 ④ 「姓氏家系辞書・姓氏家系大辞典」 太田亮 近代デジタルライブラリー版

 ⑤ 「日本の苗字7000傑」  http://www.myj7000.jp-biz.net/
 

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 今回のリストは、上記参考文献を元に、全国各地に散らばる「吉田姓」「吉田氏」について、なるべく重複を避ける形でわかっていることを列記したものである。

※ 寛政譜に記載のある場合、数字においては【八木書店版】「寛政重修諸家譜」の巻数を表す。

【  】内についてはわかるかぎりの家紋を示した。


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A  近藤氏  藤原氏秀郷流 近江掾の位を得て近藤を名乗る。武藤・少弐氏へ 寛政譜13  【下がり藤】【五三桐】【稲穂】【稲の丸】【丸に軍配】【亀甲】など


B  近藤氏  未勘源氏 寛政譜20  【丸に角】


C  近藤氏   清和源氏村上氏族  信濃国更科郡清野より。元清野から近藤へ 【上り藤】【鷹の羽】


D  近藤氏  斎部氏流、阿波忌部氏より麻殖大宮司家を経て近藤氏




E  近藤氏  藤原南家豊成流より近藤氏


F  近藤氏  藤原氏良門流(勧修寺流)より近藤氏


G  近藤氏  相模国三浦氏の系より杉本氏をへて近藤


H  近藤氏  藤原氏末茂流より近藤氏(途中系不詳) 一宮氏へ続く


I  近藤氏  上鴨社家より出た近藤氏


J  近藤氏  豊後大神氏より大野氏・緒方氏を経て近藤





そのほか、近藤姓の家紋では


【抱き鹿角】

【三つ追い藤】

【三つ割角】

【藤桐】

【轡】

【扇】




などを用いるものがある。


 この他は現在調査中

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<告知です>

500円でなんでも頼めるココナラにおいて「苗字・名字の由来と先祖探しのアドバイスをします」というサービスを開始しました。

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みなさんの「名字・苗字のルーツ調べ」をさくっとお手軽にお手伝いいたします。

詳しいサービス内容は上記リンクをご参照ください。


既に何件かサポートさせていただきましたが、喜んでいただいております(^^


あなたも歴史ミステリーの扉を開いてみませんか?!


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<特集で紹介されました~>

「こんなの見たことない!」ワクワクするユニークなサービスまとめ

http://coconala.com/featured/entry/4372



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<新サービス開始>

「戦国武将・歴史上の人物に出会う旅! ~あなたと偉人を繋げます~」

https://coconala.com/services/47988



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2016年8月1日月曜日

大塚某が 晋遊舎さんのMOOK本(ムック本)で取材を受けました! 7月27日発売! 本屋さん、コンビニでね!



 こんにちは


 ふだんは大塚姓に限らず、依頼があればどんな苗字でもルーツや由来を調べているのですが、そんな活動を続けていることもあって


 晋遊舎さんのムック


で取材を受けました!


 まあ、本のテーマが苗字よりも「副業」のほうだったので、そっちがらみですが(笑)


 記事が載っているのはこれ!


【副業完全ガイド稼げる! ずるい副業108】

 http://www.shinyusha.co.jp/media/kanzen147/



 まあ、ほかにもいろんなネタが載ってますが、苗字研究を業務にしている人はあんまりいないと思います(苦笑)



 全国の本屋さんなどで7月27日発売で並んでいると思うので、ご興味のある方はぜひ!


2016年7月18日月曜日

ネットでできるご先祖さま探し/ルーツ調べ 電子書籍 改訂版登場!


 当ブログではおなじみの「ご先祖さまのたどり方」が、電子書籍・改訂新版になって登場です!



「改訂版 ネットでできる ご先祖様の探し方・ルーツ調べ」


がPDFファイル50Pの新版で再び登場しました。


 前回は、直販だったのですが、今回は



 ココナラ
https://coconala.com/services/134664



ココナラさんとタイアップで、サービス提供しております。


 当ブログみたいに、自分でご先祖さま調べをしてみたい!という方は必見です。実践的なアドバイスも多数盛り込んでいますので、ぜひご活用ください。



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<目次> 

はじめに

 1 まずはここから!「姓氏家系辞書」「姓氏家系大辞典」を読んでみよう。

 2 事前準備 「苗字と家紋と出身地」を知っておこう。

 3 調査開始 「戸籍謄本」を取得してみよう。

 4 今の地名と江戸時代の地名を比べておこう。

 5 驚きの技術「地縁血縁解析法」を試してみよう。

 6 江戸時代の「藩」について調べてみよう。

 7 「藩士のリスト(分限帳)」を読んでみよう。

 8 地域の歴史(県・市町村・ムラ)を調べてみよう。

 9 ネット検索のテクニックを学ぼう。

10 専門書・古書の探し方を覚えよう。

11 古文書を読んでみよう。

12 より詳しい調査のために ~現地調査にとりかかろう~

 おわりに


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  ご興味のある方はぜひ!

2016年6月26日日曜日

<調査中> 山梨県の大塚さん

 ちょっとだけ思い出したように、全国の大塚さん調べを続けている。



山梨県東八代郡


の別の氏族の依頼で、苗字とルーツ探しをしていたところ、この地域にも「大塚」姓があることに気づき、ちょっとだけ寄り道をして調べてみた。



 すると、実は東八代ではなく西八代のほうに、「大塚村」を発見!正式には、


甲斐国西八代郡大塚村  (現在は、市川三郷町大塚)


という名称である。



 ちなみに、この大塚村と隣接していたのが



「甲斐国、下九一色村」


である。ん?んん?なんか聞いたことのある名前!!!




 そうである。今はなくなってしまったが、オウム事件で一躍有名になってしまった


「上九一色村」


の”下”のほうだった!




==========


 まあ、地理的にはそんなあたり、ということで完全に余談だったのだが、甲斐国の大塚姓についてはまだ資料をあまり見つけていないので、八代の大塚氏を含めてどういう系統かまだ判断がつかない。



 甲斐といえば武田氏族の支流に大塚氏は存在するようなのだが、この系統も資料がすくなく推測の域を出ていない。



 武田氏家臣の大塚氏については、たとえばこんなのが。


 Wikipediaより 武田信顕

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%A1%95

 

 甲斐から出た武田氏で、天正期に徳島の脇城に入り、長曽我部と戦って最終的には負けるのだが、その遺体を家臣の大塚善太夫が埋めた、ということになっている。


 もちろん、これだけではこの大塚氏が甲斐の系統か、徳島の系統かわからないのでなんともいえないのだが・・・。



 調査続行!




2016年6月25日土曜日

<調査中> 秋田県、山形県、そして宮城県と栃木県?の大塚さん 〜出羽国と大塚氏〜

 久しぶりの全国大塚研究の記事であるが、ふと面白い記述を目にしたので、ご紹介しておきたい。


 北海道の岸本さんという方は、苗字研究の大家で有名なのだが、「税のしるべ」という大蔵財務協会という仰々しいところから出ている雑誌にこんな記事を書かれたことがあったらしい。


” 大塚さんは全国にいるが、一番多く住んでいるのは栃木県である。”


 税のしるべ電子版
 http://shirube.zaikyo.or.jp/article/2014/07/28/19648.html



 というわけで、この系統の大塚さんについて調べたいわけだが、以前にもどこかで書いたけれどこの系統は、近世には「伊達家」の家臣やそのグループに属していることが多い。


 その理由は以下のようなことらしい。



 秋田の中世を歩く さんのサイト
 http://zyousai.sakura.ne.jp/mysite1/kawanisi/ootuka.html


によると、


旧出羽国 山形県東置賜郡川西町中大塚

というところに「大塚城」なる城があり、


藤原道隆の九世の子孫大塚因幡守親行が、「置玉郡長井荘大塚城」に居住した


と「伊達世臣家譜」に書かれているという。



 その後、南北朝時代には伊達氏が一帯を制圧するため、その後は大塚氏は伊達家臣として生きていったと考えられるのだが、このことについては、他でも伊達の資料に大塚の名が散見されることから、一定の信憑性があるように感じられる。


 
 出羽大塚城については、


城郭放浪記 さんのサイト
http://www.hb.pei.jp/shiro/dewa/ohtsuka-jyo/


にも書かれている。



 実は、この系統は


<調査中><59> もう一人の”大塚将監”は何者なのか?! 山形県の大塚さん
http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2014/05/blog-post_2.html


で一度取り上げているが、その時は、「藤原道隆」の系統であることがわからず、地元の氏族だと考えていた。



 なので、今回ちょっと進歩(笑)



 ちなみにこの系統、  


『宮城県姓氏家系大辞典』(角川)では


◇仙台藩家臣、藤原姓、大塚因幡守親行の十四代左衛門佐宗頼が祖。一族に列す。磐井郡(岩手県)西永井村に田宅を置く。
 

◇仙台藩家臣、(1)の宗頼の次男和泉頼賢に始まる。平士。宮城郡七北田村大沢(仙台市)に田宅を置く。
 

◇白石片倉家の家臣、一番座、一貫文。三吉が初代。
 

◇白石片倉家の家臣、士格の一。五〇〇文。清助が初代。


とあるうちの最初のものだと思われる。





 秋田県の大塚氏については、「秋田県史」344Pには



”山本郡河戸村肝煎”


として大塚氏の名前が出てくるので、出羽一帯の大塚姓の分布も要調査であろう。






2016年6月8日水曜日

全国の大塚さんたち!クライマックスが待ちきれない! 聞いて驚け”真田丸”最後の戦地は「大塚城」だったスペシャル!

 前回は、真田の家臣に「大塚氏」がいた、あるいは真田と遠縁の「大塚一族」がいたお話でしたが、今回は氏族とは無関係です。


 ですが、全国の大塚さんたちが多いに盛り上がりそうなこのお話。


 NHK大河ドラマ「真田丸」のクライマックスが待ち遠しい、地名の



「大塚城」



についてのご紹介です。


 大阪城の戦いにおける「真田丸」といえば、真田信繁が大阪城から外に出て築いた出城としての「真田丸」が有名ですが、 実は、真田の戦いのすごさは、


「真田丸じゃなくて、大塚城」


でそのクライマックスを迎えること、知ってました?



 というのも、真田丸の戦いは、一回目の「大阪冬の陣」でのお話、だからです。


 実際に信繁たちが滅びることになる「大阪夏の陣」は、2回目の戦いですから、ここで要注意なのです。



 2回目の戦いでは、信繁は真田丸を使っていない!!!!ババーン!



と言えば、みなさん驚くことでしょう。



 そうなんです。



 真田氏の2回目の戦いでは、真田丸はあんまり関係ないことになっちゃってるのです。




 では、真田丸の真の舞台は何処だったのか?!


 それが、現在茶臼山古墳として知られる、其の名も



「大塚城」


なのであります!


 ウィキペディアより大塚城
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%A1%9A%E5%9F%8E


 

 この大塚城、実は大阪の陣を象徴するような城で、


1回目の大阪冬の陣では、家康の本陣


が置かれます。


そして

2回目の大阪夏の陣では、真田の陣


が置かれるのです!!!


 どっちから見ても最前線!!!特捜最前線です!!!(←古いわ)



 陣形については、ウィキペディアをご参照ください。


ウィキペディアより大阪の陣
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%9D%82%E3%81%AE%E9%99%A3



(画像はウィキペディアからの引用です)


 ちょうど一番でかい赤い凸型のあるところ、そこが大塚城(茶臼山)です。

冬の陣では、ここに家康がいます。





(画像はウィキペディアからの引用です)


そしてなんと!大阪夏の陣では堺雅人が大塚城にいるのです!!!!


 ちなみに、絵図では、信繁の下に、愛之助の息子「大谷吉治」の名前も。ノリカのこどもではないので、あしからず。



 いやあ、クライマックスが待ち遠しいですね!!!

2016年6月7日火曜日

<調査中> 真田丸と大塚氏 ドキッ?!信濃に真田家ゆかりの大塚氏がいたスペシャル!



 NHK大河ドラマ「真田丸」は未曾有の大人気で、昨今の大河の中でも1,2を争うほどの評判になっていますがみなさまいかがお過ごしでしょうか?(笑)


 そんな大人気の真田丸、もちろん大塚某も欠かさず毎週チェックしているのですが、ワタクシはどちらかといえば本拠が九州なので、信州から関東にかけてお話である真田氏界隈についてはあまりツッコまないように意識しておりました、・・・が。


 んがしかし!


 日本全国20万人を誇る大塚氏の中には、真田丸と無関係とは言いがたい大塚一族がいるので、ぜひその方々には真田丸を100倍楽しんでいただこう!とご紹介する次第です。




 その大塚氏、元々は信州を拠点とする大塚氏は、そもそものルーツを名族・滋野/海野氏に発します。


 真田丸ファンであれば、清和天皇の第四皇子から出たと言われる信濃の滋野氏はご存知と思いますが、その滋野氏は


「海野/禰津/望月」


の三氏に分かれて滋野三家と呼ばれたのは有名な話。


 そのうち、海野氏がいちおう嫡流の系統ということで、本当は禰津系らしい真田氏も、海野に系図をつなげちゃったりしちゃったりなんかして!という


もう!草刈パパったらいつもウソばっかりなんだから!


という状態なのでございますが、それはまた別のお話。





==========




 さて、ここで問題。






 もちろん、真田丸にも登場するこの紋、誰の家紋でしょうか?


といえば、もちろん、誰もが「真田氏」と答えますが、厳密にはこれは



 滋野氏


が用いた六文銭/六連銭紋なのです。



 ということは、滋野も海野も、そして当然真田もこの紋を使います。つまり、これは信濃国小県や佐久地方に根付いた滋野グループだよ~という意味でもあるわけです。



 というわけで、もちろん六文銭を家紋にした大塚氏も存在します。



<8>完全網羅 大塚姓・大塚氏・大塚さんのすべて! 全大塚氏族超まとめスペシャル
http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2013/12/blog-post_8828.html



でも既出で触れていますが、


Eに元真田を名乗る大塚氏がいる


ことがわかっています。



 しかし、厳密にはこの大塚氏、真田の名前が有名になったから「もと真田」を称しているだけで、本当は真田氏ではなく海野系の大塚氏だったのかもしれません。


  真田は滋野グループでも傍流ですが、海野から分かれた大塚氏もちゃんともともと存在するからです。




 日本の名字7000傑さんのサイト
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01210.htm


 だけでなく、


矢久長左衛門さんのサイト
www.geocities.jp/pmrpq000/iwasita.k.pdf


の系図にも出てきていますが、



 海野氏載という人物から、信州の大塚氏が始まっており、「岩下氏」や「矢沢氏」も、このあたりから分かれ出ていることがわかります。


 ちなみに、系図の流れで言えば、真田氏は後ろのほうで、ちょこっとくっつく感じですね。




 というわけで、真田家臣としての大塚氏もちゃんと存在していて、


真田家 家臣団 さんのサイト
http://www.geocities.jp/huckbeinboxer/sanada.html


にも、信繁と一緒に大阪城へ行く 大塚清兵衛 という人物が出ています。





また、加沢記 第一巻にも、そもそも村上義清の頃に



「禰津の親類であった大塚掃部介幸実が、村上家から諏訪に寝返ろうとした」


話なども出てきます。


 意外と、信濃の大塚氏は記録に出てきてるんですね!










2016年4月21日木曜日

<120>久留米梅林寺の謎を解け!!(その3) ~筑後と丹波を結ぶ「点と線」は松本清張ミステリー~

 これまでの研究で、久留米の梅林寺は、もともとは有馬家菩提寺の大龍寺として創建され、有馬則頼の墓を摂津淡河天正寺から移すに当たって、「梅林寺」と改称したらしきことが判明した。


 しかし、あとひとつ、摂津三田にある「梅林寺」の由来が、まだ解決していない。現在は「心月院」として、有馬氏の後に三田に入った九鬼氏の菩提寺になっているこの寺のルーツが、知りたいわけである。


 ちなみに、この「心月院」も、九鬼氏の手によって、江戸におなじ「心月院」が作られていることも、合わせて紹介しておこう。


 遊歩酔々さんのサイトより
 http://www.yuhosuisui.jp/%E6%9D%89%E4%B8%A6%E5%8C%BA-%E5%AF%BA%E9%99%A2/%E5%BF%83%E6%9C%88%E9%99%A2/



 こちらの心月院は、杉並区にあり、寛永12年(1635)に浅草に立地、のち大正時代に現地に移ったという。



 興味深いのは、九鬼氏が、三田の「梅林寺」を「心月院」に改称したのが、寛永11年(1634)のことだという記録である。




 とすると、有馬氏が、三田を出て行ったのが1620年、九鬼氏が三田に入ったのが、1632年なので、話はぴったり合う。


 (途中に、1626~1632年は、松平氏が三田に入っている)


 つまり、1620年~1634年の間、三田に「梅林寺」という寺が存在していた、というわけだ。




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 では、三田梅林寺とは、どんな寺だったのか?!


 その回答になりそうな記述が、


 花雲雀の旅とハイキング さんのブログ
  http://blogs.yahoo.co.jp/k4216503/67251397.html



 寺社めぐりと映画と酒と、ときどき旅 さんのブログ
 http://blogs.yahoo.co.jp/imoimochan1911co/33542845.html


 大阪西ロータリークラブ さんのサイト
 http://www.osaka-westrc.org/takuwa/%E3%80%8C%E7%A7%81%E3%81%AE%E7%94%BA%E4%B8%89%E7%94%B0%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%81%A8%E6%96%87%E5%8C%96%E3%80%80%E3%81%A1%E3%82%87%E3%81%A3%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%9F%E8%A9%B1/



にあった。



 これらを総合すると、



① 三田梅林寺は、天正13年(1585)に秀吉が建てた有馬温泉の寝殿の一部であり、

② 秀吉の有馬温泉御殿の一部が、有馬氏に譲られたもので、

③ やはり有馬豊氏によって整えられたもの。


だということになるのだった。


 ということは、もともとは寺社というよりは、別荘御殿のような場所だったのが、現在のように寺院へとしつらえ直されたものなのかもしれない。




 ところで、「梅林寺」とは、則頼の戒名「梅林院」にちなんで名づけられたのであろうか?



 則頼の葬送に関しては、実は三田心月院はいっさい話に出てこない。淡河天正寺と、福知山大龍寺だけが、話に登場する。


 それなのに、三田にある「梅林寺」が無関係ないのは、解せないではないか?!



 そこで、どなたか詳しい人がいればお教え願いたいのだが、



① 秀吉の寝殿遺構を用いた居所が、有馬城の付近にしつらえられた。

② そこを「梅林寺」と呼んだか、「梅林院」と呼んだかわからないが、生前の三田藩主としての則頼が居所にしていた。

③ その場所にちなんで、則頼の戒名が「梅林院」となった。

④ その名にちなんで、久留米の大龍寺は「梅林寺」に改称した。



という説はどうだろう!!!




 というわけで、このネタ、裏づけ史料をもうちょっと探してみることにしよう。



「有馬郡誌」によると、もう少しわかりやすい解説が載っていた。


 近代デジタルライブラリー 「有馬郡誌 上」 コマ206
 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1174068



 原文古語につき、訳しておく。

『 心月禅院  ・・・天正13年太閤秀吉有馬温泉へ入湯の折、この地に寝殿を建設した。

 後に有馬法印が領主となると、これを西山に移し、僧舎を建てて梅林寺と呼んだ。

 これが、現在の心月院の跡址である。

 それからおよそ50年間の住職交代などは詳細がわからない。

 そして、寛永10年に鳥羽城主九鬼嘉隆が三田に入ると、梅林の跡址に一寺を建立し、天翁院心月と称した 』


 ・・・ただし、上記には錯誤があって、実際に三田藩に入ったのは、嘉隆の孫の代、「久隆」であることは要注意である。


また、現在の心月院の山号は「清涼山」に変わっている。



 さて、有馬法印とは誰あろう、「有馬則頼」その人である。 その則頼自身が、この寺を


「梅林寺」


と呼んだのである。


 だとすれば、則頼が亡くなった後、「梅林院」の戒名がついたのは、この「梅林寺」が元になっているに相違ない。





 これで、すべての謎がとけたのである。


 もう一度、まとめてみよう!


 久留米の梅林寺の前身は、福知山の大龍寺であり、これは、有馬氏と有馬藩の全体の菩提寺という意味合いが強かった。

 そこへ、有馬豊氏は、父の菩提寺である、淡河天正寺から、父の霊を久留米に改葬する。

 そして、父の戒名である梅林院にちなんで、新しい久留米大龍寺を「梅林寺」と称した。

 しかし、その梅林の名は、本来三田にあった有馬則頼個人の寺(屋敷)であった、「梅林寺」に由来するものであった。


 つまり、梅林寺には


「お寺としてのルーツ」と「名前のルーツ」の二つ


があったのである!!バババーン。



 以上、QED。



<119>久留米梅林寺の謎を解け!!(その2) ~筑後と丹波を結ぶ「点と線」は松本清張ミステリー~

 前回に引き続いて、


兵庫県三田市の「心月院(もと梅林寺)」と

京都府福知山市の「瑞巌寺(梅林寺前身)」との


謎に迫ってゆくわけだが、新たな事実が登場する。



 なんと!三田で亡くなった有馬則頼は、まずは淡河の「天正寺」へと葬られたというのだ!!


 ウィキペディアより 有馬則頼
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E9%A6%AC%E5%89%87%E9%A0%BC



 前回の記事を参照してほしいが、淡河地域というのは、三田・有馬地域に隣接する、いわば「有馬氏の本領中の本領」である。


 そのため、則頼は、まっさきに「実家のエリア」に葬られたということになる。


 じゃ、じゃあ、心月院と瑞巌寺は何なんだ?!


となるのだが、さらに謎が深まるところ。



 では、謎解きを進めていこう。



==========



 福知山の瑞巌寺は、これまた資料によると、「わけのわからない」事情が隠されている。


 角川地名大辞典 引用

『天明2年「奥野部村庄屋弥兵衛覚書福知山領田高畑高控」によれば木村後ろ町高191石余の記載があり,同高のうち3石余は奉公人屋敷というこの地は享保8 年受取主を絹屋小兵衛として城下町分に渡されたもので(天田郡志資料),城下町の富豪が町民や村民に小作させていたというなお稲葉紀通時代の絵図には,木村口を出たところに瑞巌寺跡が見えるもと同地には,慶長5年有馬豊氏が大竜寺を創建したが,転封に伴い筑後久留米へ移され,その後に岡部長盛の手により瑞巌寺が建てられた同寺も長盛の転封に伴い美濃大垣に移された」


 福知山は、丹波国天田郡に属するが、そのうち木村というところに、福知山城が建てられた。

 この木村付近に「瑞巌寺」があったらしく、この地に、



 慶長5年に有馬豊氏が「大竜寺」を創建



それを久留米を持ってゆく



跡地が岡部氏による「瑞巌寺」となり




それを美濃大垣へ持っていった


という流れだという。


さらにしっちゃかめっちゃかである!!(笑)


 ということは、



① 福知山にあった寺の名前は、「大竜(龍)寺」であり、それを久留米に持っていって、当初「大龍寺」と称した。

② その跡地を岡部氏が「瑞巌寺」として再建し、さらに移動させたたので、そこが瑞巌寺跡になった。

③ 瑞巌寺跡という地名が残ったので、梅林寺の前身が「瑞巌寺」だと誤解された。



ということなのであろう。



 そして、さらに興味深いことに、有馬豊氏が「大龍寺(福知山)」を建てた時は、まだ則頼パパは生きているのである!!

パパが亡くなったのは、慶長7年なので、大龍寺(福知山)は、福知山藩の鎮守でこそあれ、パパ則頼の慰霊寺ではないということになる。



==========


 さて、大龍寺が出来て2年後、パパ則頼が死去する。そこで、その亡骸は、本領である淡河の「天正寺」へと葬られた。


 このあたりの事情は、


 神戸大学さんのページ
 http://www.lit.kobe-u.ac.jp/~area-c/ougoseminar.html


 ㈱河上建築事務所さんのサイト
 http://www.kawakami-arch.com/08text/08text3_index.html



を読めば概略が見えてくる。


① 淡河の「長松寺・天正寺」には、江戸時代になっても則頼の位牌があり、久留米藩士にとって、ルーツであることが確認されていた。


② 1620年に、福知山から久留米へ転封になった豊氏は、1621年に久留米梅林寺(ただし、その時はまだ大龍寺)を建立。


③ 1626年になってから、淡河天正寺から、則頼のお墓を久留米へ改葬する。


のがこの間の動きだというわけだ。



 ということは、久留米大龍寺は、もともと「有馬家にとっての菩提寺、鎮守寺」であり、そこに、「父のお墓を持ってきた」ということになる。

 そして、父則頼の「梅林院」にちなんで、大龍寺を「梅林寺」と改称した、ということなのである。




 では、三田にあった「梅林寺」はいったいどういう由来によるものなのであろうか?!



 謎は、まだ残っているのであった!


 つづく!




<118>久留米梅林寺の謎を解け!!(その1) ~筑後と丹波を結ぶ「点と線」は松本清張ミステリー~



 縁とは不思議なもので、私の父の実家は久留米藩領であり、久留米藩主有馬氏は、私の母方の曾祖母とおなじ赤松氏の系である。



 そしてまた、現在私が居を構えているのも、久留米に赴任する前の有馬氏の領内であり、兵庫県には、有馬氏の痕跡がいたるところに残っている。



 ということもあって、実は仕事がらみで旧有馬藩、つまり現在の兵庫県三田市の「心月院」へと赴くことになった。





 実は、兵庫県の三田藩は、有馬氏のあと九鬼氏が治めていたのだが、三田城の跡地は


「有馬高校」


という県立高校になっている。

 心月院も、ほぼおなじエリアにあり、九鬼家の廟所が境内にある。









 お庭も手入れが行き届いており、古刹らしさをうかがわせる。


==========

 さて、この心月院、興味深いことが書いてある。


『この地にあった梅林寺を増築し、心月院とした』


 ここで、久留米藩に近しい人ならピンとくるはずである。
 九鬼家が、この寺を心月院として菩提寺としたのはよくよくわかるが、その前身が

梅林寺


だというのであれば、これは先代藩主の有馬氏の寺であることは瞭然である。 


 なぜなら、現在の久留米においても、久留米城ほど近くの藩主有馬氏の菩提寺はおなじく「梅林寺」と称するからである。





==========

 梅林、という寺号は、そもそも有馬則頼の戒名である「梅林院」に発する。慶長7年に三田において死去した則頼は、おそらくは当初この心月院となる前の「梅林寺」に葬られたことであろう。


 だが、だがしかし。ここから、謎のミステリーがはじまるのである!!!
 まずは、ウィキペディアの梅林寺の項目を読んでみよう。


 ウィキペディアより「梅林寺」


 賢明な諸氏なら、すぐに不可思議な点に気づくはずだ。なぜなら、ウィキ的には、


「はじめ、寺は丹波国福知山に立地、瑞巌寺と称していたが、1620年に福知山から久留米に転封された有馬豊氏が、翌年に今の場所に遷座して大龍寺と称した」
と書かれているからである。


 ここには、三田の心月院のことはいっさい出てこない。それどころか、梅林寺の前身は、「福知山の瑞巌寺だというのである。



 ここで、ひとつ押さえておかなければならない事情があり、それは、久留米へ移動する前の有馬氏は、


① 丹波国福知山城を拠点として有馬豊氏が、6万石の福知山藩を立藩した。

② 豊氏の父有馬則頼は、それとは別に摂津国三田に2万石領有していた。

③ 慶長7年(1602)に則頼が死去したため、豊氏は父の領地ももらい計8万石になった。

という経緯である。


ここで、福知山と三田がまずは、繋がる。



☆ おまけに蛇足を書いておくと、有馬豊氏は福知山に来る前は横須賀にいたが、そのこと自体は「単なる転勤」である。それよりも、有馬氏が有馬温泉の「ありま」を名乗っているように、室町時代~戦国時代までの本来の本領はむしろ摂津三田、摂津有馬地域であり、その意味で三田藩の立地は重要ポイントだという事情が裏に隠れている。



  さて、話を続けよう。三田と福知山を領地にした有馬氏が、実際に久留米に飛ぶのは、18年後の1620年のことである。


 そして父の菩提を弔うために1621年には、久留米梅林寺を建立することになるので、カンタンに言えば、豊氏は、愛する父の仏壇を持っていったことになるわけである。

 そこで、クエスチョンである!

 
 久留米梅林寺の前身は、どうして福知山説と三田説があるのか?


 18年間、有馬頼則の菩提寺は、結局福知山と三田のどちらにあったのか?


 心月院の正体とは?


 以下、その謎を解き明かすべく、次回へつづくのであった!!
 


2016年4月20日水曜日

<調査中>岡山県の大塚さん(追補) 三人の大塚氏の謎?! 

 もうずいぶん前に、岡山の大塚さんについて考察していたのだが、



<調査中><63>岡山県の大塚さん ~陣内孝則さんを見ると涙がでちゃう~ 
 http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2014/05/blog-post_11.html


 玉野市に則武姓から大塚姓へ変わった一族がおられることを挙げていた。
 ところが、興味深いことに、この玉野市に「別の?」大塚氏が存在することがわかったのである。



 大崎歴史コース サイトより
http://tamanokankou.com/kankou/oosaki.htm

 岡山県内五輪塔 さんのサイトより
http://blog.goo.ne.jp/yamane3993/e/3fdedfcf166eeaed785fc7799805d4a6 

 おなじ玉野市でありながら、こちらの大塚氏の元姓は
 「国富氏」
 になっている。




  さらに、おなじ麦飯山城の戦いの後日談として、

 横田コミュニティサイト  さん
 http://www.yokota-chiku.org/culturalassets10.html

 
 を参考にすると、こちらの大塚氏は
「横田氏」
 でもあることがわかる。




 さあ、則武・国富・横田の3つの名字と大塚氏が関係しそうなのだが!この謎やいかに!!!

 ==========
 というわけで、謎解き開始。 



 まず、岡山県玉野に「常山城」と「麦飯山城」が隣同士のように建っている。

 常山城のもともとの城主は「上野氏」であり、彼らは備中の戦国大名「三村氏」の親戚であった、という。

 天正3年に毛利氏によって三村氏は攻撃を受け、三村系が最後に立てこもったのが常山城であり、上野氏も滅亡。

 のちに豊臣時代になって、宇喜多氏家臣の「戸川秀安」がこの地に入る、という流れである。


 
 この戸川秀安は「友林」と号していたので、その廟所が「友林堂」となる。

 ということは、友林の位牌を守っていた則武大塚氏は、宇喜多系・戸川家臣ということになろう。


 前回の記事で、則武氏はもと武田氏で、宇喜多に仕えたということがわかっているので、これは話が合致する。


===========


 さて、おとなりの麦飯山城であるが、ここで起きた戦いは、先の横田コミュニティサイトさんに別に説明がある。

http://www.yokota-chiku.org/culturalassets1.html


カンタンに言えば、麦飯山は、宇喜多氏の支城で「明石氏」の居城だったのだが、毛利・小早川に攻められて滅んだわけである。


 これで、常山と麦飯山の関係がちょっと明らかになった。



==========


さて、国富大塚氏は、常山落城に際して、 玉野市八浜町大崎に帰農して大塚姓となった。つまり、この大塚氏も、宇喜多家臣である。


ところで、明石氏が滅んだのは1579年のこと。

1763年にこの地の大庄屋、大塚与兵衛(子孫は横田氏)が81歳で亡くなっている。

http://www.yokota-chiku.org/whatsnew/shinchaku/yokota_658.html


この家系については


 ごさんべえさんのサイト

http://gos.but.jp/yokotat.htm


に詳しく追跡が載っている。


 そして、これと合致する系図が、おなじごさんべえさんのサイトにあり、


http://gos.but.jp/otsukat.htm


国富氏がルーツである、と合致するのである。



==========

 これで、おおむねの結論が出てきた。


この地の大塚氏には「則武系」と「国富系」の2氏があって、国富系からは、住んでいた土地の名をとって「横田氏」が出た、ということで落ち着きそうだ。






 

2016年4月18日月曜日

<基礎資料> 戦国「軍記物」総覧 <常に追加更新中>



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注意:今回の記事は、歴史研究や先祖探しのために皆さんが利用し易いようにまとめた目録のみです。


最終更新日 2016.4.18


★当目録は、姓氏調査のために使用できる戦国時代の争乱に関する「軍記物(ならびにその類)」についてまとめたものである。

★当目録では各軍記物類について、

 ①書名・発行者などの情報

 ②現在における入手・閲覧方法(特にWEB等)

を随時更新して記載してゆく。


★分類についてはウィキペディアに準ずる。

軍記物
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8D%E8%A8%98%E7%89%A9



====================



■ 両細川の乱~三好家の台頭(畿内)

◇ 「室町殿物語」

国史叢書 国史研究会T3
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/948825


◇ 「瓦林正頼記」

史籍集覧 第十三冊
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920348



■ 永享の乱~享徳の乱(関東)

◇ 「鎌倉公方九代記/鎌倉九代後記」

国史叢書 国史研究会T3
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/948807


http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3441709


■ 東北の戦乱

◇ 「老士雑談」

史籍集覧 第十三冊
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920348


◇ 「会津四家合考」

国史叢書 国史研究会T4 その1
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3441723

国史叢書 国史研究会T4 その2
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3441724



■ 関東の戦乱

◇ 「加沢記」

上毛郷土史研究会T14
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1020961


 「上州知乱記」

国史叢書 国史研究会T4
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3441725


◇ 「小田軍記」「千葉伝考記」「里見九代記」

国史叢書 国史研究会T5
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3441729


◇ 「北条五代記」

史籍集覧 第五冊
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3431172


 「那須記」

史籍集覧 第十四冊
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920363



■ 甲信越の戦乱

◇ 「武田三代軍記」

国史叢書 国史研究会 その1
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3441730


国史叢書 国史研究会 その2
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/948812



◇ 「甲乱記」「理慶尼の記」「甲陽異聞録」

国史叢書 国史研究会
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/948812


◇ 「川中島五度合戦次第」

史籍集覧 第十四冊
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920363


■ 東海の戦乱

◇ 「美濃国諸旧記」

国史叢書 国史研究会T4
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/948838


 「飛州軍覧記」「飛州千光寺記」「飛州三沢記」

史籍集乱 第十四冊
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920363




■ 近畿の戦乱

 「勢州兵乱記」

史籍集覧 第二十五冊
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920418



◇ 「浅井日記」「浅井物語」

国史叢書 国史研究会T4
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/948832





■ 中国の戦乱


◇ 「安西軍策」

史籍集覧 第七冊
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3431174


◇ 「芸候三家誌」

国史叢書 国史研究会T7
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/948831




■ 四国の戦乱

◇ 「南海通紀」

史籍集覧 第七冊
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3431174




■  九州の戦乱


 「豊薩軍記」

史籍集覧 第七冊
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3431174


◇ 「北肥戦誌(九州治乱記)」


国史叢書 国史研究会T7 第一巻
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3441745


国史叢書 国史研究会T7 第二巻
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3441746


◇ 「肥陽軍記」

史籍集覧 第十五冊
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920302


◇ 「大友公御家覚書」

国史叢書 国史研究会T5
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3441727



◇ 「島津家譜」「島津家代々軍記」

史籍集覧 第十五冊
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920302


◇ 「菊池伝記」

史籍集覧 第三冊
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3431170




■ 織田信長の合戦

◇ 「信長公記」

史籍集覧 第十九冊
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920322


 「名古屋合戦記」「清須合戦記」

史籍集覧 第十三冊
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920348


◇ 「長篠合戦物語」

史籍集覧 第十三冊
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920348


◇ 「浅井三代記」「朝倉始末記」

史籍集覧 第六冊
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3431173


◇ 「高松城攻之物語」

史籍集覧 第十五冊
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920302




■ 豊臣秀吉の合戦

◇ 「太閤記」

史籍集覧 第六冊
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3431173


◇ 「佐久間軍記」

史籍集覧 第十三冊
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920348


 「蒲生氏郷記」

史籍集覧 第十四冊
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920363




■ 徳川家康の合戦

◇ 「石田軍記」「仙道軍記」

国史叢書 国史研究会T3 
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/948827


 「会津陣物語」

史籍集覧 第十四冊
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920363


◇ 「豊内記」

史籍集覧 第十三冊
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920348


 「真田記」「真田氏大阪陣略記」

史籍集覧 第十四冊
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920363


◇ 「島原記」

史籍集覧 第二十六冊
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920433




■ その他

◇ 「毛利秀元記」

国史叢書 国史研究会T4
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3441722



 「脇坂家伝記」

史籍集覧 第十五冊
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920302


 「一柳家記」

史籍集覧 第十四冊
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920363


◇ 「有馬晴信記」

史籍集覧 第十五冊
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920302



2016年3月9日水曜日

とある福岡藩士のルーツ調査に携わりました! ~衝撃の合致度にちょっと興奮~

 最近は、大塚姓に関わりなく、氏族研究、ルーツ探しのノウハウを生かして、すべての苗字を対象に調査研究をしているのですが、このたび、とある福岡藩の藩士に関わるおうちの資料を拝読させていただき、大変貴重な経験をさせていただいた次第。



 もちろん、個人情報のことがあるので、該当の苗字については伏せさせていただきますが、


「そのお宅に残っている、家系図や該当人物の資料がしっかり書かれている」


ことと


『福岡藩分限帳資料集成』に掲載されている人物名がほぼすべて合致する」


という、二重の意味で貴重な調査体験となりました。



 いやあ、すばらしいです。大体の場合は、「家に残っている伝承」は、あやふやなものが多く、「どこかに本質は残っているけれど、伝言ゲームのようにずれている」場合が大半なのですが、このおうちの場合は、


「なんでもかんでもかなり正確に記述されたものがある」


ということで、感服しました。


==========

 さすがは武家の家系だなあ、と思ったのですが、少し注意点や課題のようなものも見つかりました。

 特に武士の家系においては、上記のように「しっかりした資料が残っている状況じゃないとわからないこと」がたくさんあるように思います。


 そうした研究上のポイントや課題点をいくつか例示してみたいと思います。



① 苗字が変更になる場合が多い。

 武士はさすがに苗字を名乗れるだけあって「苗字を変えるのも簡単」なところがあります。桂小五郎が木戸孝允とかね。

 もちろん、「好きに変えられる」わけではなかったようですが、該当のおうちでは「命によりAからBに改める」みたいな感じで、


 なぜAからBなのか?


とか


 ちなみにAの経緯とBの経緯は?


とか、そういう情報が全くカットされていたりして、それはそれで難しいポイントだなあ、と思います。


 こういうのは、家の由緒書きにしか書かれていなければ、外部資料からはわかりません。

  
② 養子を入れることが多くて、ほとんどDNA的には繋がらなくなる。

  私は久留米藩士の家系図も研究していましたが、福岡藩でも「まあ、びっくりするほど養子が多い」のが実態です。3代とか4代変わると、もう別の家柄になるくらい養子が入ります。

 それほどまでに「家を守る」という意識と役職の継承が強かったのでしょうが、今日の感覚では考えられないほどDNA的にはバラバラな家系がひとつの苗字を継ぎます。


 そうすると、福岡藩分限帳集成を見る上では、古い時代から新しい時代まで同じ石高のAという苗字の人物が続いていると「ああ、おなじ家系の人たちなんだな」と思いがちですが、実際はびっくりするほど他人だらけになっていて、実はBからの養子、ここはCからの養子、たまにAの実子、みたいな継ぎ方をしていることがわかります。



 このあたりも外部資料の限界を感じます。私たちは苗字で基本的には家系を追いかけますが、養子を丁寧に記録した内部資料が見つからなければ、真実は遠い、ということもありえるわけで。


 まあ、江戸時代の人は「ボクの本当のお父さんは・・・」なんて二の次だったということでしょうか?



③ 誤記や代々の写し間違いがある。

  家伝と分限帳の記載を比較することで、写し間違いや誤記が発見されることが多々あります。土地名くらいだと、客観的資料から修正が可能ですが、人名だとまず難しいでしょうね。

「そういう人物がいた」


とこっちも思い込まざるをえない部分があるし・・・。


 
==========

 いずれにしても、ルーツ探しのポイントは常に


「私的資料、家の内部資料と公的資料との付け合せ」


がすべてである、ということですね。


 資料だけでなく、状況証拠においても、やはり「家の内部の伝承と、外部の状況の付け合せ」は必須です。


 どちらか一方を鵜呑みにするのも間違いです。



 いやあ、家系って本当に面白いですね。ではさよなら、さよなら、さよなら。











2016年3月7日月曜日

<117>「歴代鎮西志」と「歴代鎮西要略」における、大塚隠岐の記述を比較する

 しばらく新しい展開がなかった当家大塚氏についての記事だが、時間のあるときに「歴代鎮西志」と「歴代鎮西要略」の記述の違いをチェックしておこう。


 というわけで、以前に前半部分の「大塚氏」の由来のあたりについては終えているので、今回は神代長良の土生島の戦いにおける「大塚隠岐」の記述についてまとめてみる。


 ああ、この記事から読んだ人はなんのこっちゃさっぱりわからんと思うけど、ごめんちゃい。





==========


歴代鎮西志 

(四月)廿四日黎明 納富但馬守龍造寺美作守、并高木副島等兵 其員六百許。急取駆于土生島砦。

江上種自東方、均来囲。三方重囲而大発鬨声。城中男女周章騒。不意之事也。納富信景特進攻寄城戸口也。長良曰、「我所欺乎。隆信已遭不意之囲。運命之所蹙(迫)也」

 当自殺云々。一族臣従頻諌焉。以令出去土生島長良依之。夜中出奔而入。金立山従者僅三人耳。土生島館者。神代左京亮、中野肥後、大塚隠岐、秀島伊賀、福所大蔵。古河帯刀等。



=========


歴代鎮西要略 巻第七下

(永祿年表 永祿八年乙丑)


(四月)廿四日黎明 納富但馬守龍造寺美作守、并高木別当等兵 其員六百許。急取駆于土生島砦。

 江上種自東方、均来囲三方。重囲而大発鬨声。城中男女周章騒。不意之事也。納富信景特進攻寄城戸口也。長良曰、「我所欺乎。隆信已遭不意之囲。運命之所蹙(迫)也」

 当自殺云々。一族臣従頻諌焉。以令出去土生島長良。夜中出奔而入。金立山従者僅三人耳。土生島館者。神代左京亮、中野肥後、大塚隠岐、秀島伊賀、福所大蔵。古河帯刀等。


=========





 両者を比較してみると、詳細な部分で差異はあるものの、基本的には丸ごと書き写しているらしき様子がわかる。句読点の打ち方と送りがなの加え方は、実はもう少し両者でばらけているのだが、白文レベルではほぼ同文だと言ってよいだろう。


 「北肥戦誌」では、もうちょっとだけ大塚隠岐が人間らしく描かれているのだが、歴代鎮西志、要略では名前のみである。



 それもなんとなく理由がわかっていて、このあと、長良家臣が1人ずつ壮絶に死んでゆくのだが、さすがに死に様はリアルに描かれる。この討ち死に場面では1人ずつの名前と様子が丁寧に記述されてゆくのである。


 しかし、大塚隠岐は、死なない。というか、死んだという記述がないのだ。これをもって私は、


「大塚隠岐は死んでいない」


と推理するのだが、いかがだろうか?!





2016年2月21日日曜日

黒田官兵衛のルーツを探しております。 ~黒田孝高のルーツの謎に挑む~

 NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」はすでに終わって久しく、今年の「真田丸」が盛り上がっている最中ですがいかがお過ごしでしょうか?


 真田丸のほうは歴史マニアからみれば突っ込みどころ満載なのですが、エンターテイメントとしては


超一級の出来


であることは間違いなく、 間違いなくおすすめの大河ドラマのひとつとなるでしょう。


 詳しいことは、長野において真田氏に中世城郭を追い出されたほうの「横尾氏」などをリサーチしているブログのほうでレポしているので、そちらをどうぞ。



 ちなみに、今年の大河の見所は



「現代語で喋る長澤まさみ」のラブコメ


です。 可愛いよね。まさみちゃん(^^


==========

 さて、官兵衛ちゃんは終わってしまったのに、故あって「官兵衛黒田氏のルーツ」をまだ追いかけています。専門家ですら太刀打ちできない黒田氏の謎について、果敢に挑んでいる大塚某ですが、この



大冒険



がのちにえらいことになるので、それはまた別のお話ということで。



 あ、ちなみに前回のブログでおしらせしました「ウンベルト・エーコ」に捧げる物語、はいよいよ執筆を開始しました。


こちら千本通文学研究室 ~シメオンの偽計~
http://senbon-bungaku.blogspot.jp/


不定期連載ですが、じわじわ面白くなります。たぶん(笑)






2016年2月20日土曜日

ウンベルト・エーコさんが逝去されました ~「薔薇の名前」は20世紀最高のミステリーのひとつ~

 映画にもなった小説「薔薇の名前」の作者、ウンベルト・エーコさんが84歳でお亡くなりになったそうです。


 ウンベルト・エーコ氏死去
 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160220-00000005-jij_afp-int



 エーコさんは、一般的には「作家」として知られていますが、本職はもともと大学教授で、それも


「記号論(記号学)」


という、ちょっとばかし難解な領域を扱っておられたので、彼の書くミステリーは、その学問的ベースによって深みを増していたのですが、いやあ、薔薇の名前、面白かったなあ。


 ちなみに大塚某が、一番最初にその著作を知ったのはもちろんショーンコネリーの映画版(1986)でしたが、


 神秘的かつ緻密、理性的でありながら人間的でかつ清濁併せ持つドロドロ感


にすっかりハマってしまい、


「これは原作ではどう書いてあるんだ?」


と、イタリア語は読めないので(笑)日本語版書籍と、英語版ペーパーバックを読み比べながら、注釈作業を


途中で断念した(爆)


思い出の書であります(^^;;




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 さて、記号学者・キリスト教・大学教授というモチーフは、のちに「ダヴィンチコード」のロバート・ラングドン教授に受け継がれていることは、なーんとなくイメージできるところ。



 ダヴィンチコードシリーズの作家ダンブラウンがそれに言及しているかどうかは知りませんが、ちょっとウンベルト・エーコをかじった人はついつい


「ラングドン教授って、エーコがモデルなんだろうなあ」


と思ってしまうようです。




 ラングドン教授は、作品の中で、「宗教象徴学」を教えています。実際、ラングドンシリーズの「天使と悪魔」「ダヴィンチコード」などでは、バチカンとカソリックにまつわるいろいろなエピソードが虚実入り乱れながら描かれており、これまたマニアにとっては


「おお、現代版”薔薇の名前”みたいやな」


と思わずにはいられません。



 ・・・で。


 もうすでにお気づきのとおり、ワタクシ大塚某は、エーコもファンだし、ダンブラウンもファンです。


 このブログが「俺ん家コード」というタイトルなのも、源流はそのあたりにあるわけです。


 いま、現実に中世の時代に立ち戻っては、「氏族についての謎解き」をやっているわけですが、それはまさに、


「薔薇の名前やダヴィンチコードの世界を地でいっている」


のとおなじ。(ただし、日本版ですが 笑)





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 さて、今日、エーコさんの逝去のニュースに触れて、構想2年ぐらいかけて考えていた話を、いよいよ書き始めようと決意を新たにしたところ。



 世界的作家のエーコさんや、ブラウンさんには及ばないのは承知の上で、ワタクシなりに書きたいものを書上げていこうと思っています。


 ずっと「書こう、書こう」と思っていて、そのまま熟成されていたわけですが、大好きなエーコさんに背中を押してもらったつもりで、東洋の小さな国のちょっとばかし歴史に目覚めた男子が、彼を目標に追いかけるスタートを切る、というわけです。



 さて、書きあがった頃には、無事


「日本版 薔薇の名前」や「日本版 ダヴィンチコード」


になれるような作品が出来るでしょうか?!



 こうご期待、というわけで。




 ブログシステムを用いて書く小説「こちら千本通文学研究室 ~シメオンの偽計~」は、すでに



こちら千本通文学研究室 ~シメオンの偽計~ 
http://senbon-bungaku.blogspot.jp/



に場所だけは確保してあります。2015年5月16日に、開設だけはしてあるのですが、そのままほったらかしにしてあるので、近日まじめに動き出します。



 気が向いたら、そっちのほうもたまにチェックしてみてくださいませ。







2016年2月13日土曜日

<姓氏家系>完全網羅 苗字 武藤姓・武藤氏・武藤さんのすべて! 全武藤氏族 由来・ルーツ 超まとめスペシャル

 今回の記事は、九州少弐系の氏族を中心としながら、横の広がりを調査するためにまとめたものです。


 全国の武藤氏・武藤さんにまつわる先祖のルーツを完全網羅しています。

 抜けているもの、未調査のものは、随時加筆しています。
(最終更新 2016.2.1)


☆個別の御家のルーツについてより詳しく知りたい方は、記事下部の
「苗字・名字の由来と先祖探しのアドバイスをします」
よりご依頼ください☆



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★ 参考文献 ★

 今回のリスト制作に当たっては、以下の参考文献を元に作成した。

 ① 「寛政重修諸家譜」 索引ならびに影印本 近代デジタルライブラリー 国立国会図書館

    http://kindai.ndl.go.jp/

 ② 「家紋でたどるあなたの家系」 千鹿野茂  八木書店

 ③ 「続・家紋でたどるあなたの家系」 千鹿野茂  八木書店

 ④ 「姓氏家系辞書・姓氏家系大辞典」 太田亮 近代デジタルライブラリー版

 ⑤ 「日本の苗字7000傑」  http://www.myj7000.jp-biz.net/
 

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 今回のリストは、上記参考文献を元に、全国各地に散らばる「吉田姓」「吉田氏」について、なるべく重複を避ける形でわかっていることを列記したものである。

※ 寛政譜に記載のある場合、数字においては【八木書店版】「寛政重修諸家譜」の巻数を表す。

【  】内についてはわかるかぎりの家紋を示した。


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A  武藤氏  武蔵国の藤原秀郷流、あるいは武者所の藤原氏より。【五三桐】【藤菱】


B  武藤氏  伊予北条・河野氏より武藤氏 四国地方。


C  武藤氏  清和源氏義光流 武田氏族


D  武藤氏  滋野氏流より海野氏族武藤氏。信濃地方。【六連銭か】


E  武藤氏  称海野氏流真田氏より、武藤姓。信濃地方 Dと同族か?


E  武藤氏  武田氏族大井氏より、武藤姓。


F  武藤氏  伊豆国造一族より三島神主家流武藤氏。


F  武藤氏  藤原秀郷流より近藤氏族(少弐氏の源流) 【目結】


G  武藤氏  九州少弐氏のうち武藤復姓。【目結】





そのほか、武藤姓の家紋では


【対藤菱】

【下り藤】



などを用いるものがある。


 この他は現在調査中

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<告知です>

500円でなんでも頼めるココナラにおいて「苗字・名字の由来と先祖探しのアドバイスをします」というサービスを開始しました。

 https://coconala.com/services/41874


みなさんの「名字・苗字のルーツ調べ」をさくっとお手軽にお手伝いいたします。

詳しいサービス内容は上記リンクをご参照ください。


既に何件かサポートさせていただきましたが、喜んでいただいております(^^


あなたも歴史ミステリーの扉を開いてみませんか?!


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<特集で紹介されました~>

「こんなの見たことない!」ワクワクするユニークなサービスまとめ

http://coconala.com/featured/entry/4372



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<新サービス開始>

「戦国武将・歴史上の人物に出会う旅! ~あなたと偉人を繋げます~」

https://coconala.com/services/47988



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歴史好きなあなたに 「あなただけの日本史の教科書」を作成します。


 あなたのためだけの、あなたの家だけの「日本史の教科書」を作ってしまう!という全く新しいサービスを始めて、早くも11件の依頼を完成させたところです。


 もともとは、ココナラというサイトでのサービスとして提供しているのですが、


 
 ココナラ

 「あなただけの日本史」教科書を作成します~あなたが生まれるまでの1000年の物語~
 https://coconala.com/services/79457




 上のサイトは関係なく、このブログを見て製作依頼を下さる方もいるので、再度のご紹介をしておきます(^^


 当ブログのファンの方にはすでにご存知の通り、「苗字を辿ってルーツを探る」という手法がある程度完成しているので、別に大塚姓だけでなく


「日本中のすべての名字のルーツを探る」


ことだけはできるようになりました(^o^


☆まあ、一生懸命調べた結果、由来が不明に終わってしまうこともたまーにありますが。




 で、教科書づくりサービスでは、最初に御家のルーツや由来に関わりがありそうな事項を徹底的に探って、いろいろな仮説や可能性にアプローチしてゆきます。


 そのあとで、まとまってきた内容やわかってきたことを教科書に仕立てる、という作業をしています。


 依頼を下さった方には、とても喜ばれている「斬新かつ、ほかではあまりない」サービスですので、もし気になる方はご依頼くださいませ。



 ココナラ経由以外でも、このブログにコメントやメールを下さっても大丈夫です。


 納品はPDFファイルになりますが、ココナラ経由以外でのご依頼だとなんと



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を郵送することが可能です!!



 ココナラだと、実物を送ることができず、ファイル渡しだけになってしまうので・・・。



 教科書作成費は、1000円お願いしていますが、印刷物を郵送する場合には、送料が加算されます。

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 一部でよければ定形外郵便でお送りしますし、数部複製して家族や親類に読んでほしいという場合にはレターパックで送ることもできます。


 1冊のみの場合は 1000円+送料


 複数冊の場合は、1000円+送料+(2冊目以降の複製分につき100円)


でお願いできれば幸いです。




 たとえば家族の分を含めて3部ほしい場合は、1000円+200円+レターパックライト360円=1560円、という考え方です。

※ココナラさんにおいて実物郵送機能が実装されました。

価格等はココナラさんの設定に準じます。



 一冊あたりのページ数は、約30ページ。完成品は教科書と同じサイズの小冊子風になります。