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2020年5月19日火曜日

<121>三潴大塚氏探しの旅は続く 〜史籍集覧に「歴代鎮西要略」発見〜


 まったくもってお久しぶりの投稿です。

 九州の大塚氏探しの研究は一時中断しながら、いまではすっかり他人様の苗字調べ、ルーツ探しの専門家のようになってしまいましたが、この間、ココナラさんを中心にしている活動でテレビに出たり、雑誌に載ったりと、バタバタしておりました。


 で、当家大塚氏のルーツを探す本来のミッションは、年にひとつかふたつくらい、新しい事実が出てくるか出てこないか、ぐらいの


低頻度!

になってしまっています。まあ、ルーツ探しというのはそんなもんで、最初のほうはどんどん資料が出てくるものの、どんどん出現率が下がります。



 さて、今回見つかったのは、我が家の祖先がどうも「大塚隠岐」という人物なのではないか、という仮説の中で探していた「歴代鎮西要略」の電子版を発見したというお話。



 グーグルブックス版 史籍集覧「歴代鎮西要略 七」

 https://play.google.com/books/reader?id=LO1j1yieZbsC&hl=ja&pg=GBS.PP1



 この歴代鎮西要略は、いろんなところに電子版が紛れているんですが、部分部分や一部だったりして、ネットで必要な箇所を探すのが難しくなっています。



 記述の内容については古書で手に入れた歴代鎮西要略より比較検討は済んでいます。





<117>「歴代鎮西志」と「歴代鎮西要略」における、大塚隠岐の記述を比較する

https://samurai-otsuka.blogspot.com/2016/03/blog-post.html



をご参照あれ。




2016年3月7日月曜日

<117>「歴代鎮西志」と「歴代鎮西要略」における、大塚隠岐の記述を比較する

 しばらく新しい展開がなかった当家大塚氏についての記事だが、時間のあるときに「歴代鎮西志」と「歴代鎮西要略」の記述の違いをチェックしておこう。


 というわけで、以前に前半部分の「大塚氏」の由来のあたりについては終えているので、今回は神代長良の土生島の戦いにおける「大塚隠岐」の記述についてまとめてみる。


 ああ、この記事から読んだ人はなんのこっちゃさっぱりわからんと思うけど、ごめんちゃい。





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歴代鎮西志 

(四月)廿四日黎明 納富但馬守龍造寺美作守、并高木副島等兵 其員六百許。急取駆于土生島砦。

江上種自東方、均来囲。三方重囲而大発鬨声。城中男女周章騒。不意之事也。納富信景特進攻寄城戸口也。長良曰、「我所欺乎。隆信已遭不意之囲。運命之所蹙(迫)也」

 当自殺云々。一族臣従頻諌焉。以令出去土生島長良依之。夜中出奔而入。金立山従者僅三人耳。土生島館者。神代左京亮、中野肥後、大塚隠岐、秀島伊賀、福所大蔵。古河帯刀等。



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歴代鎮西要略 巻第七下

(永祿年表 永祿八年乙丑)


(四月)廿四日黎明 納富但馬守龍造寺美作守、并高木別当等兵 其員六百許。急取駆于土生島砦。

 江上種自東方、均来囲三方。重囲而大発鬨声。城中男女周章騒。不意之事也。納富信景特進攻寄城戸口也。長良曰、「我所欺乎。隆信已遭不意之囲。運命之所蹙(迫)也」

 当自殺云々。一族臣従頻諌焉。以令出去土生島長良。夜中出奔而入。金立山従者僅三人耳。土生島館者。神代左京亮、中野肥後、大塚隠岐、秀島伊賀、福所大蔵。古河帯刀等。


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 両者を比較してみると、詳細な部分で差異はあるものの、基本的には丸ごと書き写しているらしき様子がわかる。句読点の打ち方と送りがなの加え方は、実はもう少し両者でばらけているのだが、白文レベルではほぼ同文だと言ってよいだろう。


 「北肥戦誌」では、もうちょっとだけ大塚隠岐が人間らしく描かれているのだが、歴代鎮西志、要略では名前のみである。



 それもなんとなく理由がわかっていて、このあと、長良家臣が1人ずつ壮絶に死んでゆくのだが、さすがに死に様はリアルに描かれる。この討ち死に場面では1人ずつの名前と様子が丁寧に記述されてゆくのである。


 しかし、大塚隠岐は、死なない。というか、死んだという記述がないのだ。これをもって私は、


「大塚隠岐は死んでいない」


と推理するのだが、いかがだろうか?!





2015年7月18日土曜日

<111>講読『歴代鎮西志』『歴代鎮西要略』 ~忘れられた氏族 大塚氏~

 というわけで、前回は心ならずも引っ張ってしまった「歴代鎮西要略」発見の段なのだが、阿波国蜂須賀家に残っていたのは、


 全13巻のうち6巻だけ


なので、主に前半に関わる部分での講読を進めたいと思う。



 さて、この歴代鎮西要略だが、いちおう表向きは「歴代鎮西志のダイジェスト」ということになっている。

 なので、言い方を正せば


「歴代鎮西志があれば、要略のほうはいらないじゃん」


ということになりそうなものだが、果たしてそれでいいのか?!


 ってことで、歴代鎮西志と歴代鎮西要略の記述を追いながら、そのあたりのことも考察してゆこう。



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 大塚氏の由来については歴代鎮西志では「大永四年」の項に説明がある。原文は漢文であり。返り点や送り仮名はついているのだが、ネットだと表現しにくいので、白文で失礼させていただく。




『歴代鎮西志』 

 四年甲申

 春正月十八日 馬場肥前守頼周 以謀殺戮 筑紫満門父子三人 於所々(満門之廟在 綾部 或曰 四月四日也) 

 千葉胤勝之属衆 逃山中 蓋此馬場氏者少弐氏一族也

 玄祖少弐貞経入道妙恵 有五男子 頼尚為世子 次男号馬場肥前守経員 三男頼賢 四男貞衡(称大塚氏) 五男僧宗応也

 経員生頼興 頼興生頼継(於那須城討死) 頼継之子肥前守資幸(資一作頼) 斉名源幸 頼周者源幸之適孫也



『歴代鎮西要略』

 四年 甲申

 春正月十八日 少二一族馬場肥前守頼周 謀而殺戮 筑紫満門父子三人(或曰 二月四日也 満門之廟在綾部)

 資元称誅 得満門以報父兄之仇 略其采地而与之 馬場頼周矣 夫頼周其先筑前人 太宰府之司馬而 与少二蓋同胞也




 こうして読み比べてみると、最初の2行についてはよく似ているものの、後半部分は


 それぞれ言っていることがだいぶん違う


ことに気付くと思う。


「鎮西志」のほうは、「少弐貞経に5人のこどもがおってじゃな」、と系譜をつらつら喋りだしているのに、「鎮西要略」のほうは、

「少弐資元はこれでやっと父と兄の仇を報いることができた」

なんて感傷に浸っているわけである。   



 こうしてみると、「歴代鎮西要略は歴代鎮西志のダイジェストなんかではない」と言うことがよくわかる。


 取り上げている事象は共通しているかもしれないが、視点の置き方や、着眼点がそれぞれ違うのだ。


 これはすなわち、執筆者の姿勢や立場を暗示しているのではないか、と考えられる。



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 さて、ここにきて判明したのは「歴代鎮西要略」では大塚氏の由来が著述されていない、ということである。


 これで少弐系大塚氏の成り立ちについて記載しているのは「歴代鎮西志」と「北肥戦誌」の2つだけだ、ということがわかった。

 悲しいかな、戦国北部九州の歴史において、大塚氏はそれほど活躍しなかったからである。




<110>講読『歴代鎮西志』『歴代鎮西要略』 幻の史書がいよいよ登場!

 以前の記事でがっちり読み込んだ「北肥戦誌」講読の段であるが、北肥戦誌だけ取り上げるのはさすがにツメが甘いので、ここはぜひとも


「歴代鎮西志」と「歴代鎮西要略」


についても、読み込んでいきたいところではある。しかし、まあ慌てなさんな。



 古きをたずねて新しきを知る、というが、書物は逃げはしない。時間はたっぷりあるのだ。


 というわけで、大塚隠岐に関する神代長良受難の戦いの場面は、とりあえずお楽しみにとっておくことにして、今回は「大塚氏」そのものの記述について読み込んでいくことにする。



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「歴代鎮西志」は青潮社から平成になって影印復刻されているため、比較的入手しやすく現時点でも古本屋で何冊も出物がある。


ところが、一方の「歴代鎮西要略」は、オリジナルの「史籍集覧」には一度採録されたものの、新編集の時に欠落してしまいそのままになっているという幻の書である。


 我々一般人が読むには、文献出版から出された「増補 歴代鎮西要略」を購入・閲覧するしかないのだが、これも限定300部で作られたお宝書物なのである。


 というわけで、戦国九州を学ぼうとするものの間では、必読の書でありながら、入手が難しいマニアよだれだらだらな資料となっている。


 ああ、失礼。つい本音が飛び出してしまった。よだれだらだらを熟語で書くと


「マニア垂涎(すいぜん)の資料」


と表現する。けして水前寺清子とは関係ないので、答案にそう書かないように。



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 さて、その幻のお宝「歴代鎮西要略 全13巻」のうち、前半部分を今回は特別にお届けしよう!


 そして、「歴代鎮西要略 原本(写本)」を読みながら、大塚氏の成立について大いに考察しようではないか!!!バババーン。


 
 ずっと探し求めていた歴代鎮西要略だが、今回大塚某の国際的「情報収集能力」により、6巻までの閲覧に成功した。


 これぞまさしくIT(いんふぉめーしょん・てくのろじー)である。自分をほめてやりたいので、


「情報日本文学会」(情報国文学会)ならびに「情報日本史学会」


を勝手に立ち上げそうなくらいである。



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 さて、どこかのテレビ番組のように、ネタを引っ張っているが悪意があるわけではないので、そろそろ本題に突入しよう。

 「歴代鎮西要略」はここにある。



 徳島県立図書館 デジタルライブラリ 阿波国文庫
 http://www.library.tokushima-ec.ed.jp/digital/monjyo/awadegitalhyouzi.php



なんと阿波藩主であった蜂須賀家が、藩政期に収集した資料の中に眠っていたのだ。


ありがとう蜂須賀小六!

長政が”いとちゃん”を離縁したけど、そろそろ許してやってくれ!



と声を大にして言いたいところである。



 それにしても、大塚某が長い間見つけられなかったのはリストに「鎮西要略」という名前で登録されているからだった。


 表紙にはたしかに「鎮西要略」と書いてあるが、見開きにはちゃんと「歴代鎮西要略」と書かれているのだからそこらへんはちゃんと登録しとけーーーー!!!


 こういう書誌情報ひとつにとっても、こんな小さなことで検索に漏れたりするんだから、情報国文学の視点はとても大事なのだ!



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 というわけで、長くなったのでつづきはまたのちほど・・・・


(この節つづく。前置き長すぎwww)