まいどおなじみ大塚某でございます。
全国の「大塚姓」調査、まだまだ進んでいますが、今日は「滋賀県」に注目!
滋賀県は、わが大塚家にもほんの少しだけゆかりがあって、バブル以前に何を思ったか「親父が土地を買っていた」ので、もしかしたら今頃滋賀に住んでいたかもしれないという縁です。
まあ、財テクのようなものだったのでしょうが、つわものどもが夢のあと、既に売り払って久しくなっております。
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そんな親近感のある「滋賀県」ですが、この地にも「大塚一族」が見え隠れしています。
滋賀県には、現在も”東近江市大塚町”という地名が残り、そこに「大塚城」なるものがあったとか。
近江の城郭さんのサイトより
http://www.oumi-castle.net/second_page/ootuka/ootuka.html
詳しいレポが上記にありますが「城屋敷」なんて字(あざ)名が残っているところなんて素敵です。
おなじ城ですが、
歴史さんぽ 戦国山城探訪さんのサイト
http://blog.goo.ne.jp/kkkk_015/e/cde18f65ec7f3aa003e9ba2cb63944b5
にも、現在のより詳しい様子が載っています。
さて、この城の城主である大塚氏は、六角氏の家臣で、のち蒲生氏に仕え、天正12年に蒲生氏が奥州に異動になった際についていった、とのこと。
いつもの「全大塚氏族総まとめスペシャル」によれば、
http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2013/12/blog-post_8828.html
<K>大塚氏 近江国蒲生郡大塚村より起こる。寛政譜19 宇多源氏佐々木氏流 〔家紋〕大文字
が、この一族ということでしょうか。
レファレンス協同データベースには、
http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000097857
「大塚平左衛門」の名前などがあり、明応八年(一四九九)の『永源寺文書』に名前が出てくるので、年代が特定できます。
また、天文年間(一五三二-五五)に佐々木定頼のもとで大塚八郎右衛門が湖水の舟奉行をしている旨も出てきており、佐々木氏との関連もありそうです。
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ところがです。この「大塚氏」は、先にも出てきたとおり、天正期に異動になっているため、武将・武家としての大塚氏は奥州へ行っていることになります。
この一連の動きと関連するかどうかわからないのですが、ここで気になる発見が。
ウィキペディアより「菖蒲城」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%96%E8%92%B2%E5%9F%8E
話は一見、全然ちがうところに飛びます。
菖蒲城というのは、埼玉県・武蔵国のとある戦国城で、ぶっちゃけ簡単にいえば
のぼうの城
の成田氏系列の支城です。
ご存知のとおり、小田原攻めによって、結局「忍城」以外のサブメンバーは完全敗北するわけですが、記事によれば、城主の金田氏は、
菖蒲佐々木氏と呼ばれ、近江佐々木氏の末裔とされ、
かつ、
秀吉による関東制圧により廃城後は、帰農して大塚姓を名乗る
とありますから、
「わたし、気になります!」(by 氷菓)
全開ですね。
近江佐々木系大塚氏が全然別に2系統生まれたのか、それとも、何らかの故があって金田氏は大塚をわざと名乗ったのか!
一見バラバラの話が、変なところで繋がっているから、気になりまくりです。
というわけで、滋賀県もしくは、埼玉の大塚さん、家紋を教えてください!!!
埼玉 菖蒲城血筋の大塚です。
返信削除家紋は隅立て四つ目です。
私も、先祖のルーツに興味があります。
コメントありがとうございます。
返信削除四つ目(目結)紋は、佐々木氏の家紋なので、多いに関係がありそうですね。
http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000041434
をご参考に。
菖蒲大塚氏から遡っての佐々木氏について言及があります。
ご返信ありがとうございます。
削除私の父の実家が菖蒲城を所有しており、幼い頃に槍とか刀とかで遊んだと聞いております。
家系図があり宇田源氏〜近江佐々木氏が祖先みたいです。
諸説あるみたいですので、眉唾かもしれませんが、今となってはわかりません。
祖父が研究やらで家系図原本を持ち出し行方知らずみたいですので。
何かご存知あればご教示いただければ幸いです。
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返信削除見沼代用水沿いの菖蒲あたりで休息スポットを探しておりましたらたまたまこのサイトを発見しました。
返信削除30年位前ですが、その家系図やら狩野松栄作の屏風やらが新堀の永昌寺にあると聞いたことがあります。
今でもあるかどうかはわかりませんが。
興味深い情報ありがとうございます。
削除確かにお寺さんでしたら家系図もしくは記録が残っていても不思議ではなさそうですね!
永昌寺は大塚五郎左衛門の墓がある菩提寺ですから、御本家の方が行けば何か聞けるかもしれませんね。
返信削除その大塚五郎左衛門ですが、佐々木六角云々とあったような・・・
出雲の太田氏(多氏か)や市原氏(和邇一井)などをおっかけていたら
返信削除太田氏と一井姓高宮氏は千葉で出雲の馬潟→麻賀多神社を篠塚さんといっしょに祀ってました。
どうもこの篠塚氏は笹→佐々木氏の塚(古墳)という意味のようで千葉には千葉市寒河神社の周辺に大塚さんの一族と近くにいらっしゃいました。まず群馬上毛野氏の古墳は高句麗の技術で造れたそうで寒河神社は高句麗の祖廟で、千葉市にいる方は佐々木氏や物部氏和邇一井氏と共に来た古墳造りの集団ではと思われます。大塚さんも大きな塚古墳という名前です。篠塚さんも大塚さんも群馬栃木など古墳があるところにいらっしゃり武蔵国造も大彦から四代目が母方は佐々木山公で
毛氏も近江毛氏で近江和邇息長や佐々木と血縁のようで佐々木氏が豊城入御子を祀っています。
古代で佐々木と関係あり交流が中世まであったので名乗ったのではないかと。
ただしそのルーツは九州大分竹田〜阿蘇で宇佐の媛を首長とする直入物部氏や中臣氏の集団に佐々木氏阿部氏の先祖もいてそこで一回滅んだあと千葉に来訪したようです。