「木を見て森を見ず」という言葉があるように、物事の一部だけを取り上げていると、全体像を見失うことになりかねない。
というわけで、基本的になんでもかんでも「網羅的に」研究を続ける大塚某の前に、
また新たな情報が!!!!
今回の話は、時間的にも、空間的にもより深く広がってしまうのだが、頑張ってついてきてほしい。
見つかった資料というのは、まずは「空間」のほうから説明しよう。 場所は宇佐市、現在大分県に属する旧国名では豊前国宇佐である。
宇佐といえば、宇佐八幡宮が超有名である。宇佐八幡は、なんと、全国の八幡神社の総本宮であり、宇佐八幡信託事件でも有名。
そう、あの弓削道鏡が「天皇になるんがいいっちゃない?」という神のお告げが出た、という 奈良時代のクーデター未遂事件の舞台でもあるのだ。
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その宇佐八幡の2番目に重要な歴史的社寺が「宇佐 大楽寺」である。
そこに、こんな文書があるのだ。
”大楽寺雑掌申す、豊前国上毛郡節丸名已下散在の田地等の事、先度仰せらるるの処、猶遵行せずと云々、早く垂水宮内大夫・大塚孫次郎・新巻新兵衛入道・柳田兵庫入道・原孫太郎等の違乱を止め、注文の旨に任せ、不日これを沙汰し付け、寺家の請取を執り進めらるべきの状、仰せに依り執達件の如し、
正平十八年(1363)五月二十三日 (坊門資世)右中将 (花押)
大宰少弐(頼澄)殿”
これは懐良親王が少弐頼澄に対して、「宇佐大楽寺領で好き勝手している奴らがいるから、ちゃんと取り締まれ」と命令している文書なのだが、その好き勝手しているやつら(大楽寺領で言うことを聞いていないやつら)の中に、大塚孫次郎なる人物がいるのである。
だ、誰なんだお前は!!!
さきほど「空間」の話を先にすると言った。つまり、それは肥前や筑後を離れて、ここは豊前だということである。現代語に直すと、佐賀県と福岡県の話ではなく、大分県に飛んだというわけだ。
こんどは「時間」の話である。1363年というのは、足利義詮のころ。つまり、一休さんでおなじみの義満(金閣寺を建てたおっさん)の直前なのだ。
このころ、朝廷は南北朝に分かれており、懐良親王は南朝方の「征西将軍宮」として九州地方を管理していた。
さあ、ここで問題になるのは「大塚孫太郎」が何者かということである。少弐頼澄が出てくるので、そこに引きずられそうになるが、まずは整理しておこう。
「歴代鎮西志」によれば、大塚氏の祖は、少弐貞経の四男、貞衡ということになっている。貞経の長男が頼尚で、頼尚の子が頼澄なので、時代の流れで言えば、
1363年には既に、少弐系大塚氏は存在する
ということになる。ところが、場所がずれている。少弐関係者がうろちょろしているのは、基本的には大宰府周辺からのちに佐賀にかけてなので、豊前宇佐というのがひっかかる。
そりゃたしかに、豊前に少弐大塚氏がいてもおかしくはないのかもしれないが、一緒に徒党を組んでいる悪い仲間
垂水宮内大夫・新巻新兵衛入道・柳田兵庫入道・原孫太郎
が、全員肥前筑後では聞きなれない苗字なので、こりゃ、また別の大塚氏なのではないか?と思うわけだ。
この文書の出典である「宇佐宮 大楽寺」という本では、これらのギャングのことを
『豊前の北朝系の人で、大楽寺領を占有していたやつらではないか?』
と推測しているが、この辺りをもう少し突き詰めてみたい。
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しかしである。天正前後の「戦国時代の様子」はなんとなく把握できてきたが、さすがに南北朝時代がどうなっていたか、はまだリサーチしていないので、
さっぱりわからない
中での、調査なのだ。というわけで、この件はまた何かわかったら追跡報告したい。
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