2014年7月24日木曜日

<83>捜査範囲を拡大するぞ!の段

 基本的には、当家の三潴「大塚氏」のルーツ探しは一定の成果を挙げてお開き、と行きたいところなのだが、気になることがあればどんどん追求してしまう癖があるので、まだまだ調査は終わっていない。


 当ブログを通じてお友達になれた九州戦国期の専門家、栞さんから面白いことを聞いたので、それがずっと引っかかっているのである。

 面白いこと、というのはこういうことだ。


 ①当家の元主君と思われる「龍造寺氏」やその「腰ぎんちゃ・・・ブルブル、忠実な部下の鍋島氏」の本拠地は当然肥前佐賀。

 ②当家のある位置は旧筑後国三潴郡、概ね戦国期のこの地の支配者は大友氏。

 ③三潴の最南端「柳河」地域は、蒲池氏の支配下。蒲池は歴史的に、龍造寺と協力関係にあった時期が多い。でも、最終的に決裂。



 この前提で話をすると、当家の先祖が『龍造寺家臣』だったのであれば、どちらかというと敵の懐に近いようなところに、飛び込んでいって、そこで土着・帰農したことになる。


  それを現代の言葉に訳せば、


 なんで、佐賀県の連中が福岡県に定着したの?理由は?


ということになるわけである。



 そこで栞さんが指摘してくださったのは、「大友氏の支配地域(筑後)に、龍造寺氏が領地を貰った場所があるよ」という点であった。


 こうなると面白い。


 何か、龍造寺家臣が筑後に定着する素地があったことになるからだ。


 
 九州戦国ブログ さんより 大友氏の龍造寺氏への領地あげるよ手紙
 http://blogs.yahoo.co.jp/tokino_siori/10771438.html?type=folderlist などなど



 ところが、その地域というのが、筑後国生葉郡大石村(現福岡県うきは市)あたりだと言う。 

 微妙~にずれてる、というか。微妙~に三潴じゃないというか!


 というわけで、もやもやしながら捜査範囲を拡大している最中に、また面白い発見があった。


 まずは龍造寺隆信の挙動について。


 佐賀市のサイトより
 http://www.city.saga.lg.jp/contents.jsp?id=2611


 一時期、隆信が佐賀を追われて筑後に避難していた話は有名だが、その場所が「大川市一木村」だという。


 ついでに


 城郭放浪記 さんのサイトより
 http://www.hb.pei.jp/shiro/chikugo/sakemi-jyo/


  にもあるが、大川市酒見には、龍造寺方の拠点「酒見城」があったという。



 守っていたのは、鍋島直茂(我々には信生のほうがなじみがある。そうあの信リンだ。)、のちの佐賀藩祖である。



 この地域が天正15年ごろまでは龍造寺の支配下にあったとすれば、



 実に面白い



ことになる。



 城郭放浪記さんの地図を見るとわかりやすいが、佐賀側から見て、柳川近辺までの位置関係が一目瞭然である。


 どういうことか。


 もちろん、三潴地域全体については蒲池氏を始めとして、西牟田氏など筑後メンバーの支配地域が広がるのだが、少なくとも


 筑後川を佐賀から越えて筑後に入ってすぐの地域


までは、龍造寺のエリアということになるわけだ。



 ここに三潴全体を見ていてはわかりにくいポイントがありそうだ。



  のちに、慶長5年(1600年)の江上・八院合戦という


 鍋島による柳川立花氏殲滅作戦


の舞台になるのも、やっぱりこの地域である。


 そして、ついでに言っとくが、鍋島が柳川城を攻めるはめになったのは、今をときめく


 黒田官兵衛ちゃん


の指示だというから恐ろしい。 官兵衛ちゃんの怖いところは、


鍋島が、立花をちゃんとやつけようとするか、すぐそばでじっと見ていた



という性的な意味じゃなくて「やらしい」目線。


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  話が飛んでいったので、引き戻すが、とにかく


大川市をマークせよ


ということだけは確かである。




 



2 件のコメント:

  1. ご紹介ありがとうございますm(__)m
    大友さんが約束したのは100町だったんですが、何やら勘違いしてたか別の事情からか、うきは市では80町しかなかったとです(大爆
    で、不足分20町を下筑後にて知行するから!って言い訳してるんだが、
    下筑後の何処か続きがないのが残念^^

    龍造寺からすると筑後って、子供のママ友みたいな身近な生活圏イメージです。
    逆に博多や大宰府は都会 (人´∀`).☆.。.:*・
    九州を支配する上位者にとって博多を抑えるのが(明や朝鮮など貿易上の対外的な話)絶対条件だったからだと思います。

    それと例の海岸線のヒントになりそうなサイトです
    http://www.ilt.saga-u.ac.jp/~hn_lab/lowland_mystery/ariake_shoreline.html
    大川市側も、かなり変化してます(´Д`;)
    航空写真に切り替えて、海岸沿いの農地部分は戦国期は海と思えば、ほぼ間違いないっす^^/ 

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  2. 栞様>海岸線のサイト、面白いです!うーん。龍造寺軍団が、どういう目線で三潴を見ているかがはっきりわかりますね。
    当家の位置づけも、海岸線が下がると大きく意味合いが変わってきます。
    ご紹介ありがとうございます!

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