2014年7月5日土曜日

<75>三潴「大塚氏」系譜考補遺② ~神代氏を探れ~

 さて、前回は主に少弐氏に着目しながら、当家三潴大塚氏との関係について考察を深めてみたのであるが、今回は


 神代氏


に注目してみる。


 神代氏を取り上げるのは、もちろん当家大塚氏のご先祖様が「神代長良の家臣、大塚隠岐」なのかどうかを検証するためである。



 もちろん、前回<74>でも言及したとおり、仮に当家大塚氏の直接的先祖が「大塚隠岐」でなかったとしても、当家が少弐氏の末裔である可能性はかなり高い。


 従って、神代氏と当家大塚氏が万一「無関係」でも、それはそれでOKということになる。


 というわけで、今回はちょびっと「オプショナルツアー」でもあるので、気を楽にしていこう!






 神代氏というのは、そもそも久留米の高良神社の神主の家系で、そこら辺りが本拠地であるという話は少し前に書いている。


 ところが、そんなざっくりとした話ではなく、「もっともっと詳しい話」をわかりやすく書いている書物があるので、紹介しよう。


 
 それが、現在は佐賀市に編入されている「三瀬村」というところで編纂された「三瀬村史」であり、三瀬村にとって神代氏は


 スーパースター!


であるらしく、史実・伝説全て網羅して何でもかんでも書いてあるすごい書物になっている。


 当然、三瀬村の人たちも


「全部が全部信じてるわけじゃないし、他の資料との整合性もあるので、そこはほれ、まあ、ほれ、おらが村のスーパースターなんだからいいじゃないか」


というスタンスで記述なさっているので、尊重しよう。しかし、おかげで神代氏については、ものすごい分量でまとめられている。こっちは資料が多い分かなり助かっている。





 佐賀市のサイトより 三瀬村史





 三瀬村史の「神代伝説スペシャル」はPDFファイルのうち「第三章 中世」「第四章 近世」の回に跨る。


 内容をざっくりとまとめると、(中世 109ページから読むとわかりやすい)





◇ 神代氏は、武内宿禰の子孫らしく、久留米高良大社の大宮司である物部氏から分かれた。


◇ かつては熊代と書いたのを神代とあらため、高良周辺を治めていた地方豪族だった。


◇ しかし、神代対馬守宗元が没落し浪人となって旅していたところ、上佐賀の千布村の陣内大和守と出会い、逗留するようになる。のち、神代対馬守の子新次郎が(佐賀)三瀬城の野田氏(三瀬氏)の剣術指南役となり、そのままこの地方のボスへと成長していった。


◇ 新次郎(小泉ではない)あらため神代勝利は、三瀬地域の総領主となり、少弐氏の家臣としてその地を支配するようになった。


◇ 少弐家臣といっても、赤松氏が小寺やら別所やらごちゃごちゃ分かれたように、佐賀一帯は「少弐の末裔たちが独立していろいろケンカするように」なっていた。


◇ その時の各氏族の立ち位置は、120ページを見て欲しい。



(図は三瀬村史より引用)



◇ 少弐冬尚の統率力が衰えた結果、各地は少弐系諸氏が乱立してにらみ合い状態。


◇ ”佐賀に龍造寺氏、山内に神代氏、蓮池に小田氏、その他、筑紫、横岳、八戸、高木、江上、姉川、馬場、本告、千葉、大塚、後藤、大竹、有馬、深江、松浦党の諸氏が”(三瀬村史より)ガチバトル。



ところが、ここで要注意。


◇ 地図を目をこらして見ると右上から

鳥栖 「朝日氏」 「筑紫氏」 

三養基郡 「馬場氏」 「横岳氏」

神崎郡 「執行氏」 「犬塚氏」 「少弐氏」 「江上氏」 「姉川氏」 「小田氏」 「本告氏」

佐賀市 「龍造寺氏」 「高木氏」 「鍋島氏」


・・・等とつづいている。


☆大塚と犬塚は、いつも「誤植があやしい」ので、またじっくり比較やります!


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 クマシロ=スーパースター伝説はまだ続くのだが、ちょっと中断。


 いったん、話をまとめたい。


 大塚氏の位置は、前回出てきた少弐大塚氏の本拠地、


「三根郡大塚村」 (三養基郡をへて現在みやき町もしくは(三根郡)上峰町)


である。


 で、その隣に同じく少弐家臣である「犬塚氏」が神崎郡に陣取っている。


 ややこしいことに、大塚氏の本拠地のとなりに「犬塚氏」がいたのである。

 
 まあ、そこらへんはまたじっくり説明するとして、


 まさか三瀬町史の記事のほうも「大塚じゃなくて、犬塚の誤植だったりしねえよな!」とつっこみたくなる。



 話を戻そう。


 朝日、筑紫、馬場氏などの少弐庶流メンバーは、皆、三養基郡周辺に固まっている。


 そして、北に少弐氏、西に龍造寺氏と鍋島氏、はるか北上して「神代氏」という領地図である。



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 さて、この後の流れだが、平たく言えば


 ザ・スター神代勝利 VS 龍造寺隆信(くまもん


の永遠のガチンコバトルがいつまでも繰り広げられる、という展開である。しつこい。


 そして、神代勝利の息子が「神代長良」で、おとうちゃんの代は、あまりくまもんに負けなかったのだが、最終的には神代長良はくまもんに負ける、という展開へと続いていゆく。長い。




 大事なことは、次の点である。


「神代長良の家臣、大塚隠岐は、どこから来た何者か?」


・・・その答えは、これまでのあらすじを見る限り、やはり少弐系大塚氏と見ざるを得ないのだが、諸君はどのように考察なさるだろうか。


 

 犬塚氏が、ちらちらさっきから横切っている姿があるのだが、そこはちょっと無視して。
 


 歴史的経緯(少弐家臣としての神代氏)、地理的関係、など総合的に見て、「別の大塚氏が入り込む余地」は果たしてあるのだろうか。


 ちなみに、余談だが、鍋島家臣には「大塚姓」はやたら出てくる。「北肥戦誌」しかり、「大塚家譜」しかり、そこらへんの大塚氏は、少弐系で間違いないと考えられる。



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 さて、最後にどうしてもふれておきたいのが、「大塚隠岐は隠居したのでは?」という仮説である。


 「三瀬町史」の159ページ(近世)に面白いことが書いてあるのだ。


 天正4年、原田氏の兵が神代長良たちを襲う、という話があり、そこに


「小副川出雲守、同隠岐守」が討ち死にした


と書いてあるのだ。


 面白い、というのは”隠岐守”という言葉である。


 神代長良の家臣「大塚隠岐守」は永禄8年(1565)年の記事に登場する。

 そして、天正4(1576)年には、神代家中における隠岐守は小副川氏になっている。



 神代長良その人も、天正9(1581)年には亡くなり、その直前天正7年には養子、神代家良(実は鍋島氏)を迎えるのである。



 たたみかけるように書くが、R和尚がX寺を建てたのが天正5年で、「おっかしいなあ、蒲池殺人事件は、天正9年なのに話が合わんなあ」とちょっとした疑問符がついていた。




 古賀伊豆と隠岐が、当家の村に来れたのは、天正5年から天正15年の間と推測しているし、ほぼ間違いない。



 重ねて書くが、天正4年に「小副川隠岐守」が存在する。



 これらの点と線を結ぶ答えがあるとすれば、


 天正4年頃に、大塚隠岐は引退している。あるいは、最前線を離れている。はたまたあるいは、蟄居した。


などの仮説が立てられるのではないか?


 細かいかもしれないが、天正4年・5年頃にも、きっと龍造寺家臣団に何かがあったのだ。


 あるいは大塚隠岐は、この頃「神代氏の中心部」から離れていたのだ。


 引退していたからこそ、三潴に蟄居帰農した可能性もある。裏づけというには弱い証拠だが、


わたし、気になります!


(しつこい)



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