うーん、まあこのブログではけっこう毎回「何かを発見」してしまうのが常であるが、今回もまた変なのだ。
実は、第77回の「大塚(おおつか)?犬塚(いんつか)?それが問題だ。」の段
http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2014/07/blog-post_7.html
で、比較検証したように、「三瀬町史」だけが、天文の頃に佐賀各地の群雄割拠の様子として「大塚」氏の名を挙げていたので、これは「犬塚」氏の誤記である、と判定したわけだが、今回「上峰村史」を入手したところこちらにも
まったく同様の記載
があったのである。変でしょ?
さらに面白いことに、「上峰村史」にも群雄割拠図がついていて、これも「三瀬町史」とおなじよう
に、地図上は「犬塚氏」になっていて、両方ともおんなじ記載なのである。
こ、これがうわさのコピペというやつか!!!!!
・・・まあ三瀬町史・上峰村史の編纂委員会の名誉のために申し添えておくが、コピペというよりも引用元がそもそも「大塚・犬塚の混同」を起こしている可能性がある。
というわけで、ネタの出所をつきとめるべく、調査に入ったのであった。
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まずは記載の確認。
三瀬町史
『天文の頃、肥前の国では、少弐冬尚の威勢が衰え、佐嘉に龍造寺氏、山内に神代氏、蓮池に小田氏、その他、筑紫・横岳・八戸・高木・江上・姉川・馬場・本告・千葉・大塚・後藤・大村・有馬・深江・松浦党の諸氏が』
上峰村史
『これに対し、享禄三年(1530)、大内義興の子義隆は探題渋川氏を後援し、少弐資元・冬尚父子を討たんと筑前守護代杉興運を将として肥前に攻め入り、筑紫・朝日・横岳氏を降し、少弐氏に迫ったが、少弐方は龍造寺・小田・大塚・馬場・江上・姉川・本告・執行らの神埼・佐賀勢を従えて防戦し、遂に大内勢を大宰府に敗走させた。この時、龍造寺家兼の部下鍋島清久・野田清孝らが一族以下農兵100余名に赤熊(しゃぐま)をかぶせて浮立に似せ、敵陣に突入し、勝利の因をつくったという赤熊武者の話は有名である。
同じく天文三年(1534)』
すみれっ、セプテンバーラブアゲーン!♪
それはシャズナ!!! ・・・こっちはしゃぐま。
ボケはいいので、次。図面の比較。
三瀬町史(再掲)
(引用は三瀬町史より)
上峰村史
(引用は上峰村史より)
こうしてみると、「上峰村史」の図は、原本は「三瀬町史」の図で、それを活字に起こしたもののように見えるのだが、いずれにしてもどちらも「犬塚氏」と記載している。
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では、ここから考察。
ネタ元は、おそらく「北肥戦誌」だと思われるので、さっそく読んでみると、やっぱり「犬塚」のほうであった。
北肥戦誌
『軍兵を集めらるるに、先づ中佐嘉龍造寺山城守家兼・子息右衛門大夫家重・同三郎兵衛家門・同名伯耆守盛家・蓮池小田九郎政光・直鳥犬塚安房守家清・子息山城守尚家、其他少弐譜代の輩には馬場肥前守・・・・・・』
ほら、犬塚でしょ?
直鳥城は、佐賀神崎の地にあり、犬塚家久が築城、2代目が家清になる。
というわけで、2冊目の誤記決定!!!
「上峰村史よ、おまえもか・・・・・・」
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おまけ。
「上峰村史」はどうも中津隈城主の記述も間違っていて「大塚氏」だと書いているが、本当は中津隈は「犬塚氏」が正しい。
犬塚家広
です。
こんいちは~時乃栞です。
返信削除グーグルブログが初めてで、アカウント作るところでウロウロしてました~
あぁ~~やっとコメントに成功( ̄ω ̄A;アセアセ
返信削除少弐系大塚氏・・・肥前史を専門にしておりながら知らず、お恥ずかしい限りです。
上峰村史は未読でしたが、三瀬町史の方は普通に犬塚で脳内変換して読んでました^^;
北肥戦誌の方も、文脈が配下国衆を紹介する下りだったので^^
佐賀市史が未読とのことですが、北肥戦誌で地名や人名の解釈で迷ったら、
佐賀市史にアッサリ答えが書いてたりすることありますよ^^/
ただし・・・佐賀市史にも一部ですが若干の間違いがあるんで、精度100%ではないです。
結局、ホントに確認するには可能な限り自分で文献を読み比べるしかないんですよね^^;
シンドイな~と思うけど、気になるから調べるのをやめられないマニアの性ですわ~
時乃栞さま>コメントありがとうございます。
削除私は、自身の「大塚姓」の由来を調べるのに、最初は赤松支流の仮説から入って、最終的には少弐系だとわかってきました。
栞さまの「北肥戦誌」の概説を見つけていなければ、おそらくそっちのヒントを得られなかったので、とても感謝しています。
佐賀市史も、じわじわ読んでます(^^
まあ、でもおっしゃるとおり、「自力で調べる」のが、根本なので頑張ります~!