2014年7月10日木曜日

<79>なななんと!大塚隠岐守の出自が分かった!! ~ご先祖様は関西人?~

 えらいこっちゃ!

 である。



  赤松系大塚氏だと言ってみたり、少弐系大塚氏だと言ってみたり、常に言いたい放題な当ブログであるが、今回はさらに驚きの発見をしてしまった。


 だって、仕方ないではないか!常に新資料が飛び出してくるのである!


 どういうことか。これまでのおさらいをしておこう。


 当三潴大塚氏のルーツとして神代長良の家臣『大塚隠岐守』が怪しいのではないか、という展開で進んできたのだが、実は大塚隠岐から先が、


 すっとんで


少弐大塚氏へと繋いでいた感は否めなかった。もちろん、神代も少弐家臣なのだが、少弐系大塚氏の本拠地は三根郡近辺であり、神代氏の本拠地とのつながりがいまいちわからなかったのである。


 むしろ、三根郡近辺から出た大塚氏は、龍造寺や鍋島の支配地域に近く、佐賀勢の「大塚」となるには簡単な気がするが、神代氏とのリンクが繋がらなかったのである。



 そのミッシング・リンクが出てきた、というわけだ。



 念のため書いておくが、当家のルーツは「龍造寺家臣の隠岐、もしくは古賀伊豆の家中の者」ということは確からしいが、それが「大塚隠岐」と合致するかはまだわかっていない。


 というわけで、ここから先の話は確率としては50%:50%だと思ってほしい。





 その新資料と言うのは、「肥前叢書 第一輯」に収録されている『肥前旧事続編料』という資料である。

 永正9年(1512年)の項に以下のような記事がある。




『本荘淀姫神社奉再興、肥前州與賀庄本荘大塚大明神御宝殿一宇 大檀那太宰都督司馬少卿藤原朝臣資元 願主武藤書雲民部大輔藤原冬雪 宮司別当大塚新右衛門藤原重家  (或曰此家絶ゆ 今の大塚氏は與賀神社神官千布氏の次男 絶家を□き大塚と称したる者) 願主鍋島平右衛門尉清久 永正九年壬申蜡月下浣日、或曰伊勢松坂の人山田 (或は松本)五郎大夫則之 呉祥瑞と号す 明に航し磁工を学び永正十年帰朝し肥前伊万里に窯を開き、盛に其の業を修め遂にその地に没す』



 この書物は明治三十四年4月中に糸山貞幹によって清書された、とあるのだが、もともとは古い資料を集めてきて年毎に並べ記載したものである。


 さて、内容を精査してみよう。記述がだらだら続くのでわかりにくいが、後半は別の話であるっぽい。


 まず、『本荘淀姫神社』とは佐賀市本庄町の本庄神社のことである。



 さがの歴史・文化お宝帳 さんのサイトより
 http://www.saga-otakara.jp/search/detail.php?id=755

 

 なぜ、”大塚”なのかと言えば、こういういわれがある。

 
 (参照)新古代学の扉 さんのサイトより 
  http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/simin11/yomitiyo.html

  
 「肥陽古跡記」に ”佐賀郡本荘妙見山淀姫大明神 云々 知僧元年九月二十八日夜於大塚妙見社来現垂跡給之神霊也”とあるのだがこれを簡単に訳すと、

 本庄神社はもとは大塚妙見社であり、そこに佐賀本庄の淀姫大明神が現れたというのだ。


 これを昔話風に書いているのが、佐賀の文化・お宝帳の記事で、農夫が薪取りをしていると、突然大地が鳴り響いて淀姫の霊が現れたくだりである。


 
  さて、この本庄神社、実は佐賀城のすぐとなりで当然鍋島氏ゆかりの神社ということになる。それが元の記事内容で、
 
 永正9年(1512)2月に鍋島清久(直茂の祖父)が再興したとき
 
の願主であったり宮司であったりが記録されているわけである。


  人物について、詳しく見てみると、

■ 大檀那(檀家のいちばんえらい人)太宰都督司馬少卿藤原朝臣資元  

  少弐資元のこと。本姓の藤原を名乗っている。少弐氏16代の当主である。

■ 願主(祈願した人)武藤書雲民部大輔藤原冬雪

  よくわからないが民部大輔は役職なので、本姓藤原氏の武藤書雲冬雪なる人物だと思われる。調査中。武藤氏であるので少弐氏であろう。


■  宮司別当 大塚新右衛門藤原重家

   当時は神仏習合だったので、神主さんと僧侶がダブル役割になっており、宮司が神主、別当が僧侶を意味する。 藤原氏なので、この流れでいくと基本少弐一族だと考える。


■ 願主 鍋島平右衛門尉清久

  鍋島清久は佐賀藩祖「鍋島直茂(北肥戦誌でいう信生である)」の祖父。少弐氏孫であり、母方の鍋島姓を継いでいる。


 さて、ここに登場する人物は、全員「少弐氏」だと思われる。とすれば、大塚重家は、少弐氏であり、「大塚大明神の宮司」として大塚を名乗った可能性もある。


 ただし、ここからだ。

 
 注記によれば、この大塚氏の家は絶えており、となりの与賀神社の神主であった千布氏の次男が、大塚を(養子縁組しない形で)継いで名乗っている、というのだ。


 千布氏とは何者か?!


 そう、ここがミッシングリンクなのだ。


 筑後を追われ放浪の旅をしていた神代対馬守の子新次郎は千布氏の娘と結婚し、ついに新次郎あらため神代勝利は三瀬・山内の総領として立ち上がるわけである。


 大塚隠岐守は、神代長良の側近であった。とすれば、この大塚氏は、千布あらため大塚氏である可能性が大である。


 千布氏のルーツは、



 さがの歴史・文化お宝帳 さんのサイト
 http://www.saga-otakara.jp/search/detail.php?id=1776



 によれば、陣内氏とともに大阪住吉大社の縁で九州へやってきたという。


 ☆「三瀬村史」では、摂津住吉大社を千布村に勧請した際に、摂津より神を供奉してきたのが陣内氏と千布氏であるとしている。



  つまり、バリバリの関西人ということになるんや!



 ☆ついでに「三瀬村史」によると、千布氏の系譜は

 『千布氏の遠祖は甲斐弥次郎の三男、千布次郎兵衛尉利明である。彼岐郡から来て上佐嘉郡安富庄の地頭となり、千布に土生島の城を築き、姓を千布氏と名乗った。利明十二代千布兵庫入道浄貞、その子十三代千布因幡守家利、十四代千布太郎左エ門茂利に至る。茂利は鍋島直茂の御側役、のちに小城鍋島光茂の附人となった。その後、姓を改めて柴田宗俊と言い、子孫は皆柴田姓を名乗っている』

とある。







==========

 いちおう整理しておく。


 大塚隠岐守の出自が元千布氏だとしても、苗字としての大塚はやはり少弐由来であることには相違ない。ただし、DNA的には、この時点でコテコテの関西人の血が流れていることになる。


  もちろん、ぶっちゃけ少弐氏の始祖である武藤資頼その人が、武藤氏ではなく養子だったので、すでに藤原氏のDNAは途絶えているわけで、またここで血筋が変わっていることが判明したことになる。


  実におもしろい。ハマる!


 というわけで、もう少し調査は続くのであった。

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