いやはや、最後のあがきであることはわかっているのだが、一応念のため、誰がなんと言おうと調べておかなくてはならなかったのがこの資料、そうである。
五ヶ国御領地之節配分帳
異本五箇国配分帳
竜公御幕下并御祈願寺附
という簡単に言えば「龍造寺隆信の家臣一覧」である。
これらの資料、名前が違うのは「写本」がいくつかあって、内容の異同も多いので、いちおうタイトルが分けられているのだが、要するに「くまモンの部下リスト」であることには変わりない。
なぜ山を登るのか?
そこに山があるからさ。
なぜ資料を読むのか?
そこに資料があるからさ!!!!
というわけで、なんでこんなもんを読むのかといえば「隠岐や古賀伊豆」を探したいからである。
もっとも、結論から言うのだが、はい!見つかりませんでした!!!
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上記資料には、「隠岐」は「牧口隠岐守」、伊豆は「岩松伊豆守」しか登場せず、大塚も古賀も名前がない。
その理由として考えられることはいくつかある。
①上記家臣リストは天正8年頃からそれ以前のものと考えられているが、もし隠岐や古賀伊豆が天正4~5年頃に引退していれば、載っていなくて当然という説。
②上記家臣リストには神代長良が載っているが、長良の部下までは細かく載っていないだろう、という説。
などなど。
そういう意味では、ほんの少しだけ時期がずれていて残念でもあるし、仮説がファンタジーのまま残りそうなところがロマンというか永遠の謎というか、まあ感傷的にもならざるを得ないわけで。
載ってたら載ってたで小躍りしただろうし、載ってなかったからといって、「まあそうだろうな」みたいな。
ようするに、
悔しいです!!!
さみしいです!!!
というわけで、また別の資料探しの旅が続きそうです。誰か
天正4年頃の龍造寺隆信の家臣リストください。(ない、っちゅーねん)
あ・・・これ、自分も見たかったのね|壁|_ ̄)じぃー
返信削除水を差すようで心苦しいけど・・・
①は隠居してても息子(または養嗣子)が継いでいれば、同姓の人物がいるはず・・^^;
②の方は可能性高そう
陪臣までは記載しないでしょう (゜゜)(。。)(゜゜)(。。)ウンウン
之って龍造寺家臣団全てが、必ずしも載ってるとは限らないみたいなんです。
ちと名前を失念して申し訳ないんですが、
千葉家一族系列で龍造寺家臣になった某氏が、やはり載ってないんです。
何か事情あったんじゃないかーって言われているけど、その事情がワカランチンヽ(。_゜)ノ
他に推測できる理由としては、安堵関係で書類の手続きに不備あって、記録から漏れてるって事もあるんじゃないでしょうか。
コメントありがとうございます。
返信削除①の件ですが、(以前の記事に書いている通り)単純な引退ではなく、「離反・造反」だと思っています。まだ見つけきれていないのですが、おそらく天正5年前後になにかあって、一定数の造反者が出ているのではないか、という推理です。
気になったんで資料や論文掘ってた~~
返信削除まず、天正5年といえば、北肥戦誌に大塚内蔵允って人物が出てきてますね^^
この後に隆信は嫡男・政家に家督を譲ります。
それまでの領地安堵は隆信から政家が安堵するスタイルに変更されます。
(軍事における権限は隆信が保有)
ただし、隆信隠居領においては限りでなく、隠居領の領主である隆信が安堵します。
つまり龍造寺という組織から見れば、隠居の隆信個人の家臣は陪臣になります。
お探しの人物が、隆信隠居領内の領地を安堵されたのであれば、家臣一覧に載らない事も有り得るんじゃないでしょうか。
さらに、この後の筑後侵攻では、親大友の国衆がいたため、思うように上手く行きませんでした。
天正5年前後数年は、色々と過渡期の時期ですね^^/
なるほど、隆信の家督移譲があったとすれば、家臣団の位置づけがここで大きく変動してもおかしくないですね。
返信削除個人的には、神代長良の養子探しと死去が天正9年前なので、天正後半よりも天正前半がキモだと読んでおります。
隆信家臣は
http://www.geocities.jp/kawabemasatake/hizen.html
のリストは比較的良心的に使えます。いい引用です。
(市販本のほうは、これに各写本ごとの異同が注釈されています)