実は、そろそろいい加減に最終章に突入しているので、あといくつか資料の到着を待って、自家の調査は本当に根幹部分は終わりになるはずである。
というわけで今日はその待ち時間の間に、一冊文献を読んでみよう!
今回ご紹介するのは、「肥陽軍記」という軍記物である。
そもそも戦国時代の資料は、まず「その時代の、リアルタイムの資料」というものがあり、それから、後の人が書いた資料というものが出てくる。
前者を1次資料(同時代資料)、後者を2次資料(後代の資料)というように分けて考えておく必要がある。
我々、ご先祖様探偵団は、一次資料に当ることは、まずない。
というのも、その時代の資料というのは、「A武将からB武将への手紙そのもの」とか、「C神社の屋根裏に打ち付けられていた棟札」とか、そういうものなので、その現物を見たり調べたりすることは、なかなかチャンスがないのである。
その代わりに、地方の市町村誌やら、歴史の研究書などには「どこそこにこんな文書があるよ」とか、「誰それが誰それに宛てた手紙があるよ」とか、それらの内容を引用して記述してくれていることが多い。
というわけで、私たちはそうした文書(2次以降の資料)を読むことが大半なのである。
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当ブログではおなじみの「北肥戦誌」や「歴代鎮西志」は、古い時代の資料ではあるが、「1次資料」ではない。
そりゃそうだろう。戦国時代のことを、江戸時代になってから、全然別の人が書いているわけだから、
「おまえ、見たんか?!」
とつっこまれること請け合いである。
そのため、「どういう経緯で」「どういう意図で」それが書かれたかを理解しなくてはならない。
幸いなことに「北肥戦誌」や「歴代鎮西志」は、いちおう作者が「できるだけ1次資料に当り、かつ当時のことを知っている人物から話を聞いたり、できるかぎり伝承を丁寧に収集しよう」という姿勢があるので、こっちからすれば
大変に助かっている
のだが、同じように戦国期のことをまとめたものの中には
「売れたらええねん!」
というスタンスで、おもしろおかしく書かれているものもあるので要注意である。
しかし、そこまでひどくなくても、基本的にはこうした軍記物は
「うちの初代の殿様は、こんなにすごいんでっせ」
ということを主張するバイアスがかかっている場合が多い。
当然、北肥戦誌や歴代鎮西志には「鍋島バイアス」がかかっていると言ってよい。
今回取り上げる「肥陽軍記」は、「龍造寺バイアス」がかかった書物である。
なので、逆に言えば龍造寺家臣の手のものである我々三潴大塚氏からすると、それなりに都合が良かったりする。
そう、龍造寺関係のことは、レバレッジが効いてより深く載っている可能性があるからだ。
というわけで、「肥陽軍記」のありかを伝授。
近代デジタルライブラリーより 「史籍集覧 第15冊」
の中にひっそりと収録されている。
この「史籍集覧」というのも面白いシリーズで、岡崎藩の近藤瓶城が編纂した江戸時代までの日本の国史のコレクションである。
そう。江戸のディアゴスティーニなのである!(ちがうわ)
そして、すごいことに、なんと明治16年版「史籍集覧 第99巻」には、あの伝説の
歴代鎮西要略
が収録されているのだが、ネットでも古本でも転がってないんじゃーーーー!!!!
(号泣モードで読んでね)
というわけで、ちっとも本編に進まないまま。
まて次回!
|壁|_ ̄)じぃー
返信削除高橋紹運記に宗像軍記もある( ゚д゚)ンマッ!!
陽肥軍記は古書で数万したから諦めてたんだが、まったり読ませて頂きます(-人-)☆彡感謝!
北肥戦誌は佐賀藩5代目藩主・鍋島宗茂が編纂させた官制軍記物だから、
鍋島の鍋島による鍋島のための資料ですね^^
あと北肥戦誌は肥前がメインですが詳しいのは東肥前で、西肥前はデータ欠落がポツポツあります(´;ω;`)ウッ
ただ、大塚様の場合は少弐関連になるから、西肥前データはあんまり関係ないかもですね^^
たしかに、各市町村誌でも西肥前にはあまり言及がありませんね。近世を調べていると、長崎と大分は、基本あるんだかないんだかよくわからない扱いです。
返信削除(飛び地支配みたいになってますね)
福岡と佐賀が一帯。あとは熊本と鹿児島しかない、みたいな(笑)
長崎県・大分県のみなさんごめんなさい。