NHK大河ドラマ「軍師官兵衛ちゃん」では、いよいよ次週が「本能寺の変」ということで、さらに面白くなってきました。
それはさておき、先日の回では
突然の後藤又兵衛の登場
に、ちょっと拍子抜け、というかポッカーンと口を開けてしまいました。
後藤又兵衛といえば、間接的にではありますが、播磨大塚氏の祖と言ってよいくらいの大塚氏にとっては縁の人物。それをあんなないがしろな扱いにしては、いけませんぞ。
※注 後藤又兵衛の父、後藤将監基国のあとを継いだ後藤基こと二代目後藤将監は、のちに現在の姫路市山田町にて隠居、大塚将監となって香呂・溝口周辺の大塚氏の祖となった。
後藤又兵衛基次は、次男なので「基次」、という説・解釈もある。
「軍師官兵衛ちゃん」では、”又兵衛と叔父は赤鼻のトナカイ野郎(小寺)についていって、黒田を裏切ったのでごめんね”という展開にしているが、これは黒田藩につたわる貝原益軒の伝承に拠っている解釈で、真実を知りたければ
三木合戦前後における春日山城(後藤家本家)・南山田城(弟又兵衛の城)などの動向
をきちんと踏まえなければならない。
三木城落城以前に、これらの後藤氏族の城は落ちており、三木合戦の間に又兵衛は黒田家に召抱えられた可能性が高い。
時系列を見ると
天正6年5月 春日山城落城(後藤本流敗北)
天正6年7月 毛利が上月城を攻略。(秀吉軍は書写まで撤退。三木城戦優先する)
天正6年10月 荒木村重離反(三木攻めに参加していたのに、伊丹有岡城にひきこもる)
天正6年10月 官兵衛有岡城に行き、そのまま幽閉
天正7年10月 有岡城陥落 官兵衛救出される
天正8年1月 三木城開城 別所自害
となる。
後藤氏はそもそも赤松本流に従っており、赤松本流は早々に織田に下っていたのに、別所らが逆心して離反した、という流れを考えると、後藤氏が別所に呼応しておなじく離反したとしても、播磨攻めの早期に
すでにやられている(もしくは降参している)
のである。だから大塚将監は「すんまへん。もう隠居しときまっさ」と早々に蟄居するのだ。
よって、又兵衛については
①そもそも後藤本流は離反しても、当人は織田方を離反しなかった可能性もある。
②後藤本流とともに織田方を離反したとしても、早期に降参している。
わけだ。
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ちなみに、歴史的には、又兵衛は三木攻めのあと、浪人して仙石秀久に仕え、仙石が島津家久に負けてまた浪人したので黒田長政に召抱えられたことになっている。
長政は栗山善助に又兵衛を預けて家臣とする、という流れである。
(しかし、長政と又兵衛は仲が悪く、結局又兵衛は黒田家を飛び出して盗んだバイクで走り出すので、真実は
官兵衛が早期に召抱えた又兵衛は官兵衛のために頑張るが、息子の代になってボンボンと意見が合わず、「お前の親父には世話になったが、お前とはやってられんわ」と辞めてしまった
というあたりがリアルなところであろう)
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さて、この後藤又兵衛と大塚氏について、気になる点がいくつかある。
① 「播州後藤氏の栄光」によれば、大塚将監の子孫は大分にもいるらしい。
② ウィキペディア 後藤又兵衛によれば、実は生き延びていて大分県中津で死んだらしい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E8%97%A4%E5%9F%BA%E6%AC%A1
③当方の調査で、大分日田地方に由来のある「ナゾの大塚氏がいる」ことがわかっている。
どうも、播磨後藤系大塚氏は、大分県と不思議な接点をいくつも持っているらしいので、今後の調査に期待するところである。
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