2016年4月20日水曜日

<調査中>岡山県の大塚さん(追補) 三人の大塚氏の謎?! 

 もうずいぶん前に、岡山の大塚さんについて考察していたのだが、



<調査中><63>岡山県の大塚さん ~陣内孝則さんを見ると涙がでちゃう~ 
 http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2014/05/blog-post_11.html


 玉野市に則武姓から大塚姓へ変わった一族がおられることを挙げていた。
 ところが、興味深いことに、この玉野市に「別の?」大塚氏が存在することがわかったのである。



 大崎歴史コース サイトより
http://tamanokankou.com/kankou/oosaki.htm

 岡山県内五輪塔 さんのサイトより
http://blog.goo.ne.jp/yamane3993/e/3fdedfcf166eeaed785fc7799805d4a6 

 おなじ玉野市でありながら、こちらの大塚氏の元姓は
 「国富氏」
 になっている。




  さらに、おなじ麦飯山城の戦いの後日談として、

 横田コミュニティサイト  さん
 http://www.yokota-chiku.org/culturalassets10.html

 
 を参考にすると、こちらの大塚氏は
「横田氏」
 でもあることがわかる。




 さあ、則武・国富・横田の3つの名字と大塚氏が関係しそうなのだが!この謎やいかに!!!

 ==========
 というわけで、謎解き開始。 



 まず、岡山県玉野に「常山城」と「麦飯山城」が隣同士のように建っている。

 常山城のもともとの城主は「上野氏」であり、彼らは備中の戦国大名「三村氏」の親戚であった、という。

 天正3年に毛利氏によって三村氏は攻撃を受け、三村系が最後に立てこもったのが常山城であり、上野氏も滅亡。

 のちに豊臣時代になって、宇喜多氏家臣の「戸川秀安」がこの地に入る、という流れである。


 
 この戸川秀安は「友林」と号していたので、その廟所が「友林堂」となる。

 ということは、友林の位牌を守っていた則武大塚氏は、宇喜多系・戸川家臣ということになろう。


 前回の記事で、則武氏はもと武田氏で、宇喜多に仕えたということがわかっているので、これは話が合致する。


===========


 さて、おとなりの麦飯山城であるが、ここで起きた戦いは、先の横田コミュニティサイトさんに別に説明がある。

http://www.yokota-chiku.org/culturalassets1.html


カンタンに言えば、麦飯山は、宇喜多氏の支城で「明石氏」の居城だったのだが、毛利・小早川に攻められて滅んだわけである。


 これで、常山と麦飯山の関係がちょっと明らかになった。



==========


さて、国富大塚氏は、常山落城に際して、 玉野市八浜町大崎に帰農して大塚姓となった。つまり、この大塚氏も、宇喜多家臣である。


ところで、明石氏が滅んだのは1579年のこと。

1763年にこの地の大庄屋、大塚与兵衛(子孫は横田氏)が81歳で亡くなっている。

http://www.yokota-chiku.org/whatsnew/shinchaku/yokota_658.html


この家系については


 ごさんべえさんのサイト

http://gos.but.jp/yokotat.htm


に詳しく追跡が載っている。


 そして、これと合致する系図が、おなじごさんべえさんのサイトにあり、


http://gos.but.jp/otsukat.htm


国富氏がルーツである、と合致するのである。



==========

 これで、おおむねの結論が出てきた。


この地の大塚氏には「則武系」と「国富系」の2氏があって、国富系からは、住んでいた土地の名をとって「横田氏」が出た、ということで落ち着きそうだ。






 

0 件のコメント:

コメントを投稿