2016年4月21日木曜日

<119>久留米梅林寺の謎を解け!!(その2) ~筑後と丹波を結ぶ「点と線」は松本清張ミステリー~

 前回に引き続いて、


兵庫県三田市の「心月院(もと梅林寺)」と

京都府福知山市の「瑞巌寺(梅林寺前身)」との


謎に迫ってゆくわけだが、新たな事実が登場する。



 なんと!三田で亡くなった有馬則頼は、まずは淡河の「天正寺」へと葬られたというのだ!!


 ウィキペディアより 有馬則頼
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E9%A6%AC%E5%89%87%E9%A0%BC



 前回の記事を参照してほしいが、淡河地域というのは、三田・有馬地域に隣接する、いわば「有馬氏の本領中の本領」である。


 そのため、則頼は、まっさきに「実家のエリア」に葬られたということになる。


 じゃ、じゃあ、心月院と瑞巌寺は何なんだ?!


となるのだが、さらに謎が深まるところ。



 では、謎解きを進めていこう。



==========



 福知山の瑞巌寺は、これまた資料によると、「わけのわからない」事情が隠されている。


 角川地名大辞典 引用

『天明2年「奥野部村庄屋弥兵衛覚書福知山領田高畑高控」によれば木村後ろ町高191石余の記載があり,同高のうち3石余は奉公人屋敷というこの地は享保8 年受取主を絹屋小兵衛として城下町分に渡されたもので(天田郡志資料),城下町の富豪が町民や村民に小作させていたというなお稲葉紀通時代の絵図には,木村口を出たところに瑞巌寺跡が見えるもと同地には,慶長5年有馬豊氏が大竜寺を創建したが,転封に伴い筑後久留米へ移され,その後に岡部長盛の手により瑞巌寺が建てられた同寺も長盛の転封に伴い美濃大垣に移された」


 福知山は、丹波国天田郡に属するが、そのうち木村というところに、福知山城が建てられた。

 この木村付近に「瑞巌寺」があったらしく、この地に、



 慶長5年に有馬豊氏が「大竜寺」を創建



それを久留米を持ってゆく



跡地が岡部氏による「瑞巌寺」となり




それを美濃大垣へ持っていった


という流れだという。


さらにしっちゃかめっちゃかである!!(笑)


 ということは、



① 福知山にあった寺の名前は、「大竜(龍)寺」であり、それを久留米に持っていって、当初「大龍寺」と称した。

② その跡地を岡部氏が「瑞巌寺」として再建し、さらに移動させたたので、そこが瑞巌寺跡になった。

③ 瑞巌寺跡という地名が残ったので、梅林寺の前身が「瑞巌寺」だと誤解された。



ということなのであろう。



 そして、さらに興味深いことに、有馬豊氏が「大龍寺(福知山)」を建てた時は、まだ則頼パパは生きているのである!!

パパが亡くなったのは、慶長7年なので、大龍寺(福知山)は、福知山藩の鎮守でこそあれ、パパ則頼の慰霊寺ではないということになる。



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 さて、大龍寺が出来て2年後、パパ則頼が死去する。そこで、その亡骸は、本領である淡河の「天正寺」へと葬られた。


 このあたりの事情は、


 神戸大学さんのページ
 http://www.lit.kobe-u.ac.jp/~area-c/ougoseminar.html


 ㈱河上建築事務所さんのサイト
 http://www.kawakami-arch.com/08text/08text3_index.html



を読めば概略が見えてくる。


① 淡河の「長松寺・天正寺」には、江戸時代になっても則頼の位牌があり、久留米藩士にとって、ルーツであることが確認されていた。


② 1620年に、福知山から久留米へ転封になった豊氏は、1621年に久留米梅林寺(ただし、その時はまだ大龍寺)を建立。


③ 1626年になってから、淡河天正寺から、則頼のお墓を久留米へ改葬する。


のがこの間の動きだというわけだ。



 ということは、久留米大龍寺は、もともと「有馬家にとっての菩提寺、鎮守寺」であり、そこに、「父のお墓を持ってきた」ということになる。

 そして、父則頼の「梅林院」にちなんで、大龍寺を「梅林寺」と改称した、ということなのである。




 では、三田にあった「梅林寺」はいったいどういう由来によるものなのであろうか?!



 謎は、まだ残っているのであった!


 つづく!




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