2016年4月21日木曜日

<118>久留米梅林寺の謎を解け!!(その1) ~筑後と丹波を結ぶ「点と線」は松本清張ミステリー~



 縁とは不思議なもので、私の父の実家は久留米藩領であり、久留米藩主有馬氏は、私の母方の曾祖母とおなじ赤松氏の系である。



 そしてまた、現在私が居を構えているのも、久留米に赴任する前の有馬氏の領内であり、兵庫県には、有馬氏の痕跡がいたるところに残っている。



 ということもあって、実は仕事がらみで旧有馬藩、つまり現在の兵庫県三田市の「心月院」へと赴くことになった。





 実は、兵庫県の三田藩は、有馬氏のあと九鬼氏が治めていたのだが、三田城の跡地は


「有馬高校」


という県立高校になっている。

 心月院も、ほぼおなじエリアにあり、九鬼家の廟所が境内にある。









 お庭も手入れが行き届いており、古刹らしさをうかがわせる。


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 さて、この心月院、興味深いことが書いてある。


『この地にあった梅林寺を増築し、心月院とした』


 ここで、久留米藩に近しい人ならピンとくるはずである。
 九鬼家が、この寺を心月院として菩提寺としたのはよくよくわかるが、その前身が

梅林寺


だというのであれば、これは先代藩主の有馬氏の寺であることは瞭然である。 


 なぜなら、現在の久留米においても、久留米城ほど近くの藩主有馬氏の菩提寺はおなじく「梅林寺」と称するからである。





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 梅林、という寺号は、そもそも有馬則頼の戒名である「梅林院」に発する。慶長7年に三田において死去した則頼は、おそらくは当初この心月院となる前の「梅林寺」に葬られたことであろう。


 だが、だがしかし。ここから、謎のミステリーがはじまるのである!!!
 まずは、ウィキペディアの梅林寺の項目を読んでみよう。


 ウィキペディアより「梅林寺」


 賢明な諸氏なら、すぐに不可思議な点に気づくはずだ。なぜなら、ウィキ的には、


「はじめ、寺は丹波国福知山に立地、瑞巌寺と称していたが、1620年に福知山から久留米に転封された有馬豊氏が、翌年に今の場所に遷座して大龍寺と称した」
と書かれているからである。


 ここには、三田の心月院のことはいっさい出てこない。それどころか、梅林寺の前身は、「福知山の瑞巌寺だというのである。



 ここで、ひとつ押さえておかなければならない事情があり、それは、久留米へ移動する前の有馬氏は、


① 丹波国福知山城を拠点として有馬豊氏が、6万石の福知山藩を立藩した。

② 豊氏の父有馬則頼は、それとは別に摂津国三田に2万石領有していた。

③ 慶長7年(1602)に則頼が死去したため、豊氏は父の領地ももらい計8万石になった。

という経緯である。


ここで、福知山と三田がまずは、繋がる。



☆ おまけに蛇足を書いておくと、有馬豊氏は福知山に来る前は横須賀にいたが、そのこと自体は「単なる転勤」である。それよりも、有馬氏が有馬温泉の「ありま」を名乗っているように、室町時代~戦国時代までの本来の本領はむしろ摂津三田、摂津有馬地域であり、その意味で三田藩の立地は重要ポイントだという事情が裏に隠れている。



  さて、話を続けよう。三田と福知山を領地にした有馬氏が、実際に久留米に飛ぶのは、18年後の1620年のことである。


 そして父の菩提を弔うために1621年には、久留米梅林寺を建立することになるので、カンタンに言えば、豊氏は、愛する父の仏壇を持っていったことになるわけである。

 そこで、クエスチョンである!

 
 久留米梅林寺の前身は、どうして福知山説と三田説があるのか?


 18年間、有馬頼則の菩提寺は、結局福知山と三田のどちらにあったのか?


 心月院の正体とは?


 以下、その謎を解き明かすべく、次回へつづくのであった!!
 


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