2016年4月21日木曜日

<120>久留米梅林寺の謎を解け!!(その3) ~筑後と丹波を結ぶ「点と線」は松本清張ミステリー~

 これまでの研究で、久留米の梅林寺は、もともとは有馬家菩提寺の大龍寺として創建され、有馬則頼の墓を摂津淡河天正寺から移すに当たって、「梅林寺」と改称したらしきことが判明した。


 しかし、あとひとつ、摂津三田にある「梅林寺」の由来が、まだ解決していない。現在は「心月院」として、有馬氏の後に三田に入った九鬼氏の菩提寺になっているこの寺のルーツが、知りたいわけである。


 ちなみに、この「心月院」も、九鬼氏の手によって、江戸におなじ「心月院」が作られていることも、合わせて紹介しておこう。


 遊歩酔々さんのサイトより
 http://www.yuhosuisui.jp/%E6%9D%89%E4%B8%A6%E5%8C%BA-%E5%AF%BA%E9%99%A2/%E5%BF%83%E6%9C%88%E9%99%A2/



 こちらの心月院は、杉並区にあり、寛永12年(1635)に浅草に立地、のち大正時代に現地に移ったという。



 興味深いのは、九鬼氏が、三田の「梅林寺」を「心月院」に改称したのが、寛永11年(1634)のことだという記録である。




 とすると、有馬氏が、三田を出て行ったのが1620年、九鬼氏が三田に入ったのが、1632年なので、話はぴったり合う。


 (途中に、1626~1632年は、松平氏が三田に入っている)


 つまり、1620年~1634年の間、三田に「梅林寺」という寺が存在していた、というわけだ。




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 では、三田梅林寺とは、どんな寺だったのか?!


 その回答になりそうな記述が、


 花雲雀の旅とハイキング さんのブログ
  http://blogs.yahoo.co.jp/k4216503/67251397.html



 寺社めぐりと映画と酒と、ときどき旅 さんのブログ
 http://blogs.yahoo.co.jp/imoimochan1911co/33542845.html


 大阪西ロータリークラブ さんのサイト
 http://www.osaka-westrc.org/takuwa/%E3%80%8C%E7%A7%81%E3%81%AE%E7%94%BA%E4%B8%89%E7%94%B0%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%81%A8%E6%96%87%E5%8C%96%E3%80%80%E3%81%A1%E3%82%87%E3%81%A3%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%9F%E8%A9%B1/



にあった。



 これらを総合すると、



① 三田梅林寺は、天正13年(1585)に秀吉が建てた有馬温泉の寝殿の一部であり、

② 秀吉の有馬温泉御殿の一部が、有馬氏に譲られたもので、

③ やはり有馬豊氏によって整えられたもの。


だということになるのだった。


 ということは、もともとは寺社というよりは、別荘御殿のような場所だったのが、現在のように寺院へとしつらえ直されたものなのかもしれない。




 ところで、「梅林寺」とは、則頼の戒名「梅林院」にちなんで名づけられたのであろうか?



 則頼の葬送に関しては、実は三田心月院はいっさい話に出てこない。淡河天正寺と、福知山大龍寺だけが、話に登場する。


 それなのに、三田にある「梅林寺」が無関係ないのは、解せないではないか?!



 そこで、どなたか詳しい人がいればお教え願いたいのだが、



① 秀吉の寝殿遺構を用いた居所が、有馬城の付近にしつらえられた。

② そこを「梅林寺」と呼んだか、「梅林院」と呼んだかわからないが、生前の三田藩主としての則頼が居所にしていた。

③ その場所にちなんで、則頼の戒名が「梅林院」となった。

④ その名にちなんで、久留米の大龍寺は「梅林寺」に改称した。



という説はどうだろう!!!




 というわけで、このネタ、裏づけ史料をもうちょっと探してみることにしよう。



「有馬郡誌」によると、もう少しわかりやすい解説が載っていた。


 近代デジタルライブラリー 「有馬郡誌 上」 コマ206
 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1174068



 原文古語につき、訳しておく。

『 心月禅院  ・・・天正13年太閤秀吉有馬温泉へ入湯の折、この地に寝殿を建設した。

 後に有馬法印が領主となると、これを西山に移し、僧舎を建てて梅林寺と呼んだ。

 これが、現在の心月院の跡址である。

 それからおよそ50年間の住職交代などは詳細がわからない。

 そして、寛永10年に鳥羽城主九鬼嘉隆が三田に入ると、梅林の跡址に一寺を建立し、天翁院心月と称した 』


 ・・・ただし、上記には錯誤があって、実際に三田藩に入ったのは、嘉隆の孫の代、「久隆」であることは要注意である。


また、現在の心月院の山号は「清涼山」に変わっている。



 さて、有馬法印とは誰あろう、「有馬則頼」その人である。 その則頼自身が、この寺を


「梅林寺」


と呼んだのである。


 だとすれば、則頼が亡くなった後、「梅林院」の戒名がついたのは、この「梅林寺」が元になっているに相違ない。





 これで、すべての謎がとけたのである。


 もう一度、まとめてみよう!


 久留米の梅林寺の前身は、福知山の大龍寺であり、これは、有馬氏と有馬藩の全体の菩提寺という意味合いが強かった。

 そこへ、有馬豊氏は、父の菩提寺である、淡河天正寺から、父の霊を久留米に改葬する。

 そして、父の戒名である梅林院にちなんで、新しい久留米大龍寺を「梅林寺」と称した。

 しかし、その梅林の名は、本来三田にあった有馬則頼個人の寺(屋敷)であった、「梅林寺」に由来するものであった。


 つまり、梅林寺には


「お寺としてのルーツ」と「名前のルーツ」の二つ


があったのである!!バババーン。



 以上、QED。



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