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2022年10月4日火曜日

<123> 筑後大庄屋の正体を探せ1 ~大塚氏探求、スピンオフ~

  今年の大河ドラマは、「鎌倉殿の13人」で、源頼朝や北条氏を取り巻く鎌倉幕府の面々が陰謀に継ぐ陰謀で殺しあうバトルロイヤルになっています。

 

 実はその裏面としてアニメの「平家物語」も放送されていて、メインの放送は終了したものの、いろいろなサブスク系メディアで現在も視聴できるようになっているので、ぜひどちらもご覧になってください。

 

 というわけで、我らが九州の「大塚氏」も、実はこの「平家物語」と「鎌倉殿の13人」に絡んできます。

 さすがにご先祖さま本人が登場人物にはなっていないのですが、 かなり近い人たちがドラマとアニメに登場しています。


 九州少弐系大塚氏のルーツは、源頼朝に仕えた「武藤資頼」ですが、実は奥さんが「梶原景時」の娘です。

 

  その前段階として、武藤資頼は、「平知盛」の武将でしたが、一ノ谷の合戦の時に、資頼は平家方を脱出して「梶原景時」のもとへ駆け込むんですね。降参する、と。

 

 ここで中村獅童が登場です(笑)

 そのまま、三浦義澄の預かりになります。つまり、佐藤B作です。

 

 平知盛は、その後壇ノ浦で、碇を自らにくくりつけながら水中へ自害します。


 武藤資頼は、その後源頼朝の家人となり、大友能直とともに九州へ送り込まれるわけですが、能直の養父となったのが「中原親能」です。川島潤哉さんが演じています。

 

 能直から見て、実父の弟(つまり、おじさん)が武藤頼平で、この人が資頼の養父ですね。

 

 というわけで、うちの先祖が九州にいるのは、すべてこの時の政策のせいということになってしまいます。



==========

 

 さて、そんなあたりから再び戦国の世へと話は移ります。

 

 三潴郡近辺は、龍造寺氏亡き後、けっこうごちゃごちゃして、そのまま秀吉配下の黒田官兵衛ちゃんがやってきたり、強制的に戦が収束へ向かいます。 


 肥前のくまモンこと「龍造寺隆信」は、その直前に死んでしまい、佐賀勢の権力は「鍋島信生」つまり直茂へと移ります。

 

 天正16年には、旧龍造寺氏の権限を実質的に直茂が掌握したと見られています。


 この頃、うちの先祖と思われる「大塚隠岐」は、なぜか直茂のもとには帰参せず、佐賀城ではない別のどこかにいて直茂からどうやら

 

「おまえ、どこにおるねん、帰ってこい!」

 

という命令を受けているらしいのですが、それを無視してうちのおじいちゃんの家の地域に留まったのではないのか?と推定しています。

 

 さて、すこし話を戻しましょう。うちのおじいちゃんの家は、現在の福岡県三潴郡であり、佐賀とは筑後側を挟んで対岸。天正年間は、龍造寺が柳川あたりまで支配圏を広げていたので、ぶっちゃけ佐賀エリアでした。

 

 いわば、佐賀勢の駐留エリアとしての筑後国内ということになりましょう。

 

 ところが、この天正年間に、まず隆信が死んで(天正12年)しまいました。おまけに秀吉勢がやってきて(天正14年)

 

「はい、そこまで、ストップストップ!」

 

と戦乱を強制的に止めてしまいます。なので、三潴郡などへ駐屯していた佐賀勢の武将たちは、佐賀へ帰れず、あるいは帰らずに、おいてけぼり、もしくは自立することになります。

 

 

==========

 

 

さて、ここで「福岡県史資料 第6輯」には、

 

”因みにいわく、御国大庄屋の始まりは天正15年寅年、小早川隆景より石井和泉・古賀伊豆・田代興膳三人に命ぜらる。これ大庄屋の始まりという”

 

とあります。天正14年からの九州征伐で、小早川隆景には筑前・筑後・肥前が与えられたので、その折のことでしょうが、天正15年(1587)から慶長5年(1600)まで隆景は九州を支配することになります。この間13年間です。

 

(その後、関ヶ原の戦いの後備前へ移封)

 

 古賀伊豆と大塚隠岐が三潴へやってきたのは天正年間とされていますが、おそらくは天正10年前後と推測され、天正15年には秀吉政権下へ移り、彼らの立ち位置も確定したと思われます。

 

 古賀伊豆は、大庄屋として帰農したと推測して間違いではないと思います。(少し領地、場所を移動した?)

 

 「久留米市史 第2巻」では

 

”地侍出身の古賀伊豆・石井和泉・興膳善右衛門三名が初めて大庄屋に任命されたという”

 

とあり、同じ内容の記述ですね。

 

 

========

 

 さて、ここで、今回からしばらく、この3人の正体について探ってゆきたいと思います。

 

 彼らはそれぞれに特徴的な名前を持っていて、由来を探ることで見えてくるものがあるかもしれません。

 

 特に「田代興膳」は「興膳善右衛門」とも呼ばれています。苗字なのか名前なのかよくわからないこの部分にも、謎が隠れていますよ~。

 

 

 そのあたりもじっくり探ってゆきましょう。

 

 

(つづく)

 

 


2018年1月27日土曜日

<調査中>織田信長と相撲取り ~信長家臣の大塚氏をめぐる謎を解く~



 すっかり全国の大塚姓の方に知られてしまった当ブログだが、何度も「わたしも大塚です」という方から情報提供を頂くことがあるので、可能な範囲で紹介できるところは紹介している次第である。



 さて、今回、とても興味深いお話を教えていただいた。もちろん、個別の事情については、苗字と言うとても個人情報に関わることであるので、十分配慮しながら取り扱いする所存。




 今回のお話は、なんとあの織田信長と大塚氏にまつわる新情報!



 信長の家臣である大塚氏には、すでに3氏がよく知られ、戦国武将系の書物やサイトでもよく言及されている。まずはおさらい。



<調査中>織田信長と大塚氏
https://samurai-otsuka.blogspot.jp/2014/05/blog-post_13.html



この記事でも取り上げているとおり、


■ 大塚新八郎(資料によっては新八)

■ 大塚孫三(資料によっては弥三)

■ 大塚又一郎


の3氏は、とくによく引用されていると言ってよい。



 さて、大塚新八郎であるが、「相撲取りであったらしく、信長主催の相撲大会で何度か出場し、召抱えられた」という話が信長公記あたりの引用でよく語られる。


 そのあたりの経緯は、信長の記録についてまとめておられる書物やサイトをご参照願いたい。




 ところで今回、この大塚新八郎について、新しい情報が見つかった。


 教えてくださった方は、大塚新八郎のそれ以前の経緯とその子孫について言及した文書の写しを所有しておられ、今回拝読させていただいた次第。



 では、信長の真実に迫るかもしれない新情報を、まとめてみよう。





<新事実1>


 大塚新八郎の父親の名前は、大北重兵衛という。

・・・相撲大会に出たという縁で信長家臣となった件は既出だが、新資料によれば「信長から大塚姓を拝領し、大塚を名乗った」とある。

 ということは本来は大塚姓ではなく「大北姓」の人物だった、ということである。

 ちなみに父親の本姓も記載があり「藤原氏」。


 大北重兵衛は、近江佐々木氏に仕え、のちに信長家臣となったらしい。




<新事実2>


 大塚新八郎は、本能寺で死んでおらず、関が原にて戦死したらしい。


 ・・・信長家臣の大塚氏のうち、残りの二人は本能寺で死んだ説があるが、大塚新八郎については言及がなかった。それもそのはず、亡くなったのは関が原の合戦においてだというのである。


 新八郎が信長に召抱えられてからの経緯は次のとおり。


■ 天正7年 蒲生氏付きになる。(蒲生氏郷は信長家臣。近江国蒲生郡。)

  ということは、天正9年の天正伊賀の乱には、氏郷の下で参戦したか?


■ 天正18年 蒲生氏の奥州入りへついてゆく


■ 不明    のち、滋賀へ戻ってくる。


■ 慶長5年  関が原の合戦にて死去

 どういう立場で参戦したかは明記がない。




 ・・・・・・文禄4年に、蒲生氏郷の子、秀行は、秀吉によって会津領を没収の上、近江へ2万石で封されたという説があり、これに関連するのか気になるところ。

 しかし最終的には、蒲生秀行は関が原前に宇都宮に封されていたため、このとき近江がどうなっていたのか、あるいは大塚氏がどうしていたのかは要調査であると思われる。


 蒲生秀行は、関が原の合戦では徳川秀忠の指揮下で動いている。(しかし、宇都宮周辺で守りについていたらしい)


 とすれば、大塚新八郎が、どの立場で関が原戦死ということになるのか、いろいろな可能性が考えられる、ということになろう。


 さらに、興味深いのは、新八郎の子が「安藤対馬守」付きになっていることである。これはおそらく安藤重信のことであろうと推測され、彼は慶長16年より秀忠の老職を務め、のちに上野高崎藩主となっている。

 安藤重信は、慶長5年時点では秀忠軍下で真田の上田城攻めに参戦している。


 どうもこの秀忠家臣団の中で、大塚氏が活動している感触がある。




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 まだまだこの大塚新八郎をめぐっては考察すべき部分が多いと思われる。


 情報がまとまりしだい、またご紹介する予定!






 







2017年8月24日木曜日

<調査中> 高知県の大塚さん




 高知県の氏族は、いわゆる長宗我部時代と、そのあとの山内時代で大きく変動があり、むしろ旧来の豪族達はちょっとだけ圧力をかけられていた節があるので、調べるのに苦労することが多い。


 高知土佐と言えば坂本竜馬だが、坂本家が士分を後から購入したとはいえ

 
「上士と下士」


に身分が別れていた、なんてのはよく知られた話である。



 竜馬もののドラマなんかを見ていると、いばり散らす上士と、いじめられる下士のシーンが良く出てくる。


 この待遇の違いは、簡単に言えば長宗我部の旧家臣などの古い時代の豪族や戦国武将の子孫が「下士」で、新しく統治を任された「山内一豊」ら、後から入ってきた武士達が「上士」ということになる。


 このほか土佐では、侍待遇なんだけれど、城下ではなく郡部に住んでいる「郷士」格もたくさんいたので、そのあたりは本当にややこしい。


(ちなみに土佐以外では郷士に当たる地場の戦国武将の末裔は、帰農して庄屋になったりしていることが多いので、武士身分は失っていることがある)




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 さて、というわけで、土佐にも大塚氏の記録が。


ウィキペディアより

大塚八木右衛門
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%A1%9A%E5%85%AB%E6%9C%A8%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80


土佐一条氏の家臣ということなので、古い時代の武家である。


土佐一条氏はバリバリの元貴族で、藤原氏の直系5摂家のひとつ。それが応仁の乱あたりに自分の荘園があった土佐へ移動してきたもので、格式が高いまま武家へと変化していった。


 戦国の争乱では、最終的には長宗我部に負けてしまうのだが、その長宗我部も・・・ねえ。




 で、大塚八木右衛門は、国侍なので中央からの下向組ではなく、元は地元の豪族であったか。


 
 現在でもこの土佐大塚氏が続いているのかは、不明。高知県の大塚さん、なにか伝承があれば教えてください!
  

2017年1月16日月曜日

発見!NHK大河ドラマ真田丸、幸村最期のそばに大塚氏がいた?!スペシャル!



 いやああああ!終わってしまってからの大発見。なんということでしょう。



 昨年一年間私たちを多いに楽しませてくれたNHK大河ドラマ真田丸ですが、最終回の第50回で


 幸村・作兵衛、そしてきりちゃんのお父さん高梨内記が最期を遂げる


シーンがあったのはまだ記憶に新しいところ。



 幸村は最期、ドラマでは明確に描かれないものの、佐助と疲れた表情で座り込んだシーンがが忘れられませんが、なんとその横に




 実は大塚氏がいた!!!!



というのですから「真田丸ファンの大塚さん」は黙っていられませんね。





 そしてなんとこの資料!灯台もと暗しとはこのことで、



「幸村を最終的に討った西尾仁左衛門」の話


が書かれているまさにその場所だったのであります!!!なんてこった!



では、いきましょう!!




出典は、「徳川諸家譜 4 越前家支流美作津山松平(忠直)」の項です。


『真田左衛(門佐脱)身数瘡を蒙り猶縦横馳突す。西尾仁左衛門槍を接して之に克其首を得たり、真田勘解由、大塚清安、高梨主膳等一所にて戦死す』





 おなじ話が、 「武辺咄聞書 7話」にも出てきます。


『左衛門佐は秀頼 御馬の出る事の延引を待かね、大助を人質に本丸へ入ける。其跡にて軍始りしかは、真田勘解由・大塚清安・高梨主膳と一所に左衛門佐討死す。』




 高梨主膳は、内記(きりちゃんのお父さん)ですね。ドラマでは、昌幸の位牌を握りしめながら、徳川勢と戦って亡くなりました。よよよよ(泣)



 真田勘解由は、のちの時代にお通の孫「真田信就」が勘解由を名乗りますが、これは別人です。


 おそらく血縁ではなく、真田姓を与えられた家臣だと考えられています。



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 さてこの大塚清安。かなり謎があって、別資料では九度山へ従い、かつ幸村と一緒に死んだメンバーとしては


「青柳清安(あるいは清庵・千弥)」


と書かれている人物がいます。





「銕醤塵芥抄」ではこんな感じ。



『真田勘ヶ由、大塚清兵衛、高階主膳、海野小平太、望月善太夫、禰津小六、山岡軍平、柏田玄仲、角輪佐吉、利光久兵衛、沼田清次郎、真田権太夫、森川隼人、瀧川平大夫、丹生弥二郎、星田勘平、馬淵六郎大夫』



ここでは大塚清兵衛が登場ですが。




「真武内伝追加」では、こうなります。


『真田組子真田与左衛門、江原左平太、福岡平三郎、本郷左近、早川平左衛門、真田勘ヶ由、青柳清安、高梨主膳、幸村公が危きを見て、中に隔り枕をならべ討死す』




 こうして並べると、なーんか大塚清安は、記述が混じって出来た人物っぽい感じもするし、気になりますね。



 調査続行!

2016年6月7日火曜日

<調査中> 真田丸と大塚氏 ドキッ?!信濃に真田家ゆかりの大塚氏がいたスペシャル!



 NHK大河ドラマ「真田丸」は未曾有の大人気で、昨今の大河の中でも1,2を争うほどの評判になっていますがみなさまいかがお過ごしでしょうか?(笑)


 そんな大人気の真田丸、もちろん大塚某も欠かさず毎週チェックしているのですが、ワタクシはどちらかといえば本拠が九州なので、信州から関東にかけてお話である真田氏界隈についてはあまりツッコまないように意識しておりました、・・・が。


 んがしかし!


 日本全国20万人を誇る大塚氏の中には、真田丸と無関係とは言いがたい大塚一族がいるので、ぜひその方々には真田丸を100倍楽しんでいただこう!とご紹介する次第です。




 その大塚氏、元々は信州を拠点とする大塚氏は、そもそものルーツを名族・滋野/海野氏に発します。


 真田丸ファンであれば、清和天皇の第四皇子から出たと言われる信濃の滋野氏はご存知と思いますが、その滋野氏は


「海野/禰津/望月」


の三氏に分かれて滋野三家と呼ばれたのは有名な話。


 そのうち、海野氏がいちおう嫡流の系統ということで、本当は禰津系らしい真田氏も、海野に系図をつなげちゃったりしちゃったりなんかして!という


もう!草刈パパったらいつもウソばっかりなんだから!


という状態なのでございますが、それはまた別のお話。





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 さて、ここで問題。






 もちろん、真田丸にも登場するこの紋、誰の家紋でしょうか?


といえば、もちろん、誰もが「真田氏」と答えますが、厳密にはこれは



 滋野氏


が用いた六文銭/六連銭紋なのです。



 ということは、滋野も海野も、そして当然真田もこの紋を使います。つまり、これは信濃国小県や佐久地方に根付いた滋野グループだよ~という意味でもあるわけです。



 というわけで、もちろん六文銭を家紋にした大塚氏も存在します。



<8>完全網羅 大塚姓・大塚氏・大塚さんのすべて! 全大塚氏族超まとめスペシャル
http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2013/12/blog-post_8828.html



でも既出で触れていますが、


Eに元真田を名乗る大塚氏がいる


ことがわかっています。



 しかし、厳密にはこの大塚氏、真田の名前が有名になったから「もと真田」を称しているだけで、本当は真田氏ではなく海野系の大塚氏だったのかもしれません。


  真田は滋野グループでも傍流ですが、海野から分かれた大塚氏もちゃんともともと存在するからです。




 日本の名字7000傑さんのサイト
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01210.htm


 だけでなく、


矢久長左衛門さんのサイト
www.geocities.jp/pmrpq000/iwasita.k.pdf


の系図にも出てきていますが、



 海野氏載という人物から、信州の大塚氏が始まっており、「岩下氏」や「矢沢氏」も、このあたりから分かれ出ていることがわかります。


 ちなみに、系図の流れで言えば、真田氏は後ろのほうで、ちょこっとくっつく感じですね。




 というわけで、真田家臣としての大塚氏もちゃんと存在していて、


真田家 家臣団 さんのサイト
http://www.geocities.jp/huckbeinboxer/sanada.html


にも、信繁と一緒に大阪城へ行く 大塚清兵衛 という人物が出ています。





また、加沢記 第一巻にも、そもそも村上義清の頃に



「禰津の親類であった大塚掃部介幸実が、村上家から諏訪に寝返ろうとした」


話なども出てきます。


 意外と、信濃の大塚氏は記録に出てきてるんですね!










2016年1月30日土曜日

<調査中> 福島県・新潟県(青森県も?)の大塚さん

 先日から、青森県のとある苗字について調べる依頼があり、古い資料を見まくっているのですが、どうも旧陸奥国エリアにもちらほらと大塚姓が見えるようです。


 郡誌とか町史レベルでも大塚氏がおられるし、たとえば、


会津藩の大塚氏 (呆嶷館さんのサイト)
http://homepage3.nifty.com/naitouhougyoku/


のように、会津藩士としても続いているようで。



 そもそも、北関東から東北地方にかけては、戦国時代から江戸時代初期まで、ごちゃごちゃしているため氏族の移動も追跡しにくいのが現状です。


 城郭放浪記さんのサイト
 http://www.hb.pei.jp/shiro/hitachi/tatsugoyama-jyo/


にもあるとおり、常陸・龍子山城を拠点にした大塚氏が、岩城氏に従ったり佐竹氏に従ったりしながら、伊達系について陸奥へ行ったりしているようです。


 このへんは動きが激しいので、追従するのが大変。



 この一族。茨城県多珂荘大塚郷を拠点とした氏族ですが、詳しいことは


 北茨城の歴史 さんのサイト
http://www.ujokinenkan.jp/history.htm


に詳しい説明があるのでご覧あれ。



 まあ、当ブログおなじみの完全網羅版では、



完全網羅 大塚姓・大塚氏・大塚さんのすべて! 全大塚氏族超まとめスペシャル
http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2013/12/blog-post_8828.html



Mコースの方々ですね。小野崎氏流としていますが、佐竹氏の縁者なのではないか、という説もあります。(あまりルーツはよくわかっていないらしい)



 いや~。ふだんは関西~九州にかけてを調べていることが多いのですが、関東以北は難しいですよ。まじで。




2015年6月3日水曜日

<調査中>長野県の大塚さん

 いつも、全国各地の大塚さんからいろいろ貴重な情報を頂くのですが、今回は長野県に関係する大塚さんから連絡を頂きました。


 なんでも、「島津氏」の家臣だった大塚氏が、帰農して長野に定着している、ということがわかってきました。


 さあ、島津ですよ島津!


 島津といえば、誰もが真っ先に思いつくのは鹿児島薩摩藩の島津家ですね。


 なんと言っても、幕末では大活躍の島津であり、琉球王国を支配した島津であり、家康ちゃんが最後まで倒すに至らなかった島津であります。


 島津&毛利といえば、戦国時代の恨みを幕末に晴らす的な因縁の一族でありますから、誰もが知っているところ。



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 ところが、その島津氏が長野県にいた、となると庶民は


「・・・へ?」


となるのが普通です。ここでニヤリと笑うのは歴史マニアだけなので(苦笑)



 というわけで、まずは「島津氏」の歴史について、おさらいしてみましょう。


 時は平安時代から鎌倉時代にかけてのこと、源頼朝の部下である御家人のひとりに


「島津忠久」


というおにいちゃんがおりました。(正式には惟宗忠久)


 彼のお母さんは、源頼朝の乳母だったようで、その縁で頼朝に近しいところで活躍するのですが、結果

「日向国の地頭」
「信濃国の地頭」

などに任命され、最終的には「大隈国・薩摩国・日向国守護」として南九州を一手にゲットすることになるわけです。


 そのため、それぞれの地域に、系列の島津氏がおり、長野の島津氏は信濃島津氏としてこれまた広がってゆくのでありました。



 その信濃島津氏の家臣として大塚氏がいたことが判明したのですが、信濃を拠点とする国人としては



滋野氏流海野姓大塚氏

(一覧でいうところの

http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2013/12/blog-post_8828.html

Q/D/Eの系統)


が該当するのではなかろうか、と考えています。


 実は長野には、いくつか大塚氏の痕跡がありますので、このあたりはじっくりと調べたいところ。


 また新しいデータが出れば報告しようと思います!



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 ざっと信濃の大塚姓を概観すると、



佐久地域の歴史さんのサイトより
http://www1.ocn.ne.jp/~oomi/sakugun.html



 まずは現在の佐久市に大塚氏が水野氏の名主・代官に当てられたことがわかります。



国文学研究資料館のサイトより
http://base1.nijl.ac.jp/~eadfa/db/internal/ocl-JALIT-DHD/changeview.cgi?xmlfdir=ac1958002&xmlfname=33B_ead-src.xml&xslfname=EADFAentire.xsl


 それから、小県郡の高橋家に伝わる文書郡の中に、幕末から明治にかけて「名主→戸長」となった大塚氏の書類が残っています。



 大塚神社のルーツをさぐるさんのサイトより
http://nakamachi.nows.jp/hp/konjyaku/ootuka/ootuka2.htm



 いっぽうこちらは、地名や神社名として残る「大塚」について。氏族の名称と関連があるかどうかは、まだ調査中です。




  

2015年3月15日日曜日

<おまけ>兵庫・播磨大塚氏の痕跡を調べてきました~

 今日は久しぶりに、予定が入っていない日曜日だったので、ドライブがてら播磨地域へ出向き、

「赤松系と思われる大塚氏」

の所在地を3箇所巡ってきました。

  家族連れで行ったので、さすがに墓所調査などはしておりませんが、それでも3地域の町・ムラに入って地区の雰囲気を確認してきました。

 なるほど少なくとも中世から続いていそうな旧家がたくさん残っており、200年近く建っていそうないぶし瓦の邸宅をお持ちの「大塚さん」も住んでおられたので、おおよその地域の成り立ちも推測できそうな感じでした。


 だんだんと、リアルなエリアに入っていくので、地域名は今回は伏せておきますが、概ね後藤又兵衛のお兄ちゃん「大塚将監」の住んだ地域から、別の町へまたがった近辺ですので、この大塚氏ももとは後藤氏だと推測しています。


 町の図書館にかなり濃い資料がたくさんありましたので、ぜひ次回は時間を作って文献調査と墓碑調査をしてみたいなあ、と思っている次第。


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 この後藤又兵衛関係の大塚氏に「抱き茗荷」の家紋を持つ家があるらしい、という情報からスタートしたこの調査なのですが、今日はさすがに現物家紋を見てはおりません。


 推測レベルですが、この町の「文化財」レベルの寺院はやはり「天台宗」が多く、書写山と同じく法道仙人を開基とする寺もあります。

 これらの天台系信仰と抱き茗荷が関係しているのではないか、と思いながら調査中。


 というわけでこのネタは続行します~。

 

2014年8月18日月曜日

<91>ミッシング・リンクを探して ~久留米藩内大塚氏を調査中~

 お盆休みの間、あまりブログの更新はしていなかったものの、地道な調査は継続して行っていた。

 そんな折、前々回の記事に少し書いたのだが、「九州地方を旅して大塚さんの先祖を探している方」というのが登場したらしく、当家を取り巻く事態に大きな展開があったのだが、それは個人情報のこともあるので、まろやかにぼやかしながら書いておこう。


 なぜ、そのような方がいることを、兵庫県に住んでいる私が知っているのか、というミステリーのナゾが解ければ、意味がすぐ理解できるに違いない。


 そう!賢明な読者諸君ならもうおわかりのことと思う。


 その大塚さん、もしくは大塚さんに関わりがある方が訪ねていった先は、うちの先祖と共通なのである。



 というわけで、もし当ブログをお読みでしたら、ご連絡をいただきたい!


あ!っと驚くようなさらに深い真実と、綿密な調査に基づくものすごい情報を


お伝えできるのに、残念でならない。


メールアドレスは

samurai_otsuka@yahoo.co.jp


なので、心あたりのあなた!ぜひメールください。


==========


 さて、夏の間どこに引きこもっていたかといえば、当家、三潴の大塚家について


「ミッシング・リンク」


を探していた。


 おさらいがてら説明しよう。


 そもそも、当家に伝わる伝承は、久留米藩に仕えていた武士の大塚氏が当家の先祖である、というおじいちゃんの昔話であった。


 そこから、「久留米藩の藩士の名簿」、「久留米藩の藩士の系図」などをしらみつぶしに当たり、また「久留米藩内の浪人のリスト」や「久留米藩内の旧家の経歴」などまでガッツリ調査したのである。



 しかし!あえて言おう!


 どこにも当家の痕跡が出てこないのである。


 もちろん、久留米藩の藩士名簿に大塚氏は存在する。しかし、最も石高の高い馬廻りクラスの大塚氏は、天領日田から移動してきた幕府直轄の代官の手下であったし、それ以外の大塚氏も文献から判明する限りは、大分系からの移動者であった。


 そして、今回新たに判明したのだが、


「久留米藩 有馬家」が、関西から久留米に連れて行った武士の中に、「大塚」の苗字がなく、また久留米藩の初期体制の中にも、「大塚」の苗字の武士がいない


ということがわかったのである。


 つまり、お隣の黒田家と違って、久留米藩と大塚氏の関わりはそもそも薄いということがわかってきたのだ。



==========

 これは、ある意味では当ブログの調査結果と合致する。


 というのも、前半戦こそ「有馬家と大塚氏」の線で調べていたが、後半戦では「佐賀勢大塚氏」の線が色濃くなっている。

 三潴の大塚氏は、久留米藩よりも、佐賀系武士と関わりが強いことがわかってきているのだ。


 そこで、「ミッシングリンク」の話である。



 旧三潴地域は、


<天正の頃・戦国時代は> 龍造寺氏の支配化にあった(可能性が限りなく強い)

<秀吉の天下統一時は> 立花氏が柳川城に入った。

<江戸時代草創期は> 田中氏が三潴を領した。

<江戸時代初期以降は> 久留米藩有馬氏・柳川藩立花氏が分割統治


という流れになっている。


 そして、このブログの推論によれば、当家大塚氏は「龍造寺の現地駐留部隊として三潴地域に屋敷を構えたまま、帰農」した可能性が高い。


 ついでに言えば、有馬氏が田中氏から三潴を引き継いだ際、旧田中がらみの家臣をほとんど取り立てず、家臣団はすでに足りているという判断をしたので、


 この時点で三潴大塚氏(旧龍造寺家臣グループ)はおそらく「庄屋止まり」で完全に農民化されただろうと推測できるわけだ。

 
 さらに言えば、このあと江戸時代宝暦期を中心に、久留米藩内では大規模な一揆が起きており、その際に各三潴地域の庄屋たちが一揆の標的になったり、あるいは農民側についたり、大混乱が起きていることがわかっている。


 つまり、宝暦時点でも「庄屋としての仕置」に何らかの処分が行われた可能性もある。


(農民側についた庄屋は、打ち首になった者もいるし、藩側にいた庄屋も打ち壊しの被害や庄屋交代などの処分もあった)


 事実、当家に存在する江戸期の墓碑は、宝暦の時点で止まっており、それ以降に建立された墓碑が現存していないことが、何かの事情を指し示している可能性が高い。



==========

 つまりだ。


 田中藩政から有馬藩政の移行の際と、宝暦一揆前後の2つの時期に、当家をめぐる藩政上の処遇が大きく変わった可能性があるわけで、そこで情報が途切れているのである。



 そこをつなぐものが、まだ見つかっていない。



 頑張れ!大塚某!負けるな!大塚某!




 




2013年12月25日水曜日

<おまけ>全国の「大塚」な、みなさーん!

 今回はおまけです。

 日本全国の「大塚」さんに向けて発信しているこのブログ。

 いったい読者がどれくらいいそうなのかを調べてみました。

 
「同姓同名探しと名前ランキング」というサイトによれば、

 http://namaeranking.com/?search=%E5%90%8C%E5%A7%93%E5%90%8C%E5%90%8D&surname=%E5%A4%A7%E5%A1%9A&tdfk=%E5%85%A8%E5%9B%BD

(このサイトは電話帳データを元に、氏名の件数をカウントしているそうです)

全国に大塚さんは3万485人おられるそうです。


 もちろん、この件数はほぼ世帯主さんの数ですから、一家にざっと平均3人くらいいるかもしれないと仮定すれば、全国で大塚さんは約10万人弱、ということになりそうです。

 そのうち、何人がこのブログを読んでくれるのやら・・・(^^;

<10> W(ダブル)赤松、そして誰とでも赤松

 前回、自分のルーツが播磨の赤松氏にあることを知り、驚きのあまりに、のたうち回った僕だったが、さらに大河ドラマな展開が待っていることに衝撃を受けた。

 いくら日本史で有名とはいえ、いくら日本史で大学受験したとはいえ、播磨の「赤松氏」のことを都合よく覚えていた、というのはちょっと出来すぎている。

 そう、僕にはそれ以外に「赤松氏」のことをよく知っている理由があったのである。


 まだ、小さかった頃、母方の親戚の家に遊びにいったことがあるのだが、そこのお父さんは郵便局長さんをなさっていて、某播磨地域の端っこに住んでいた。

 いまから思えば、特定郵便局だっただろうから、かのお父さんは地元の名士の一家の末裔であったのだろう。

 そう、そのおうちの名前が「赤松」さんだったのである!


 なんでも、聞くところによれば、うちの母の一族とその赤松さんの家とは縁があって、母の母の母が、赤松家から母の家に嫁いできたらしい。


 ということは、めぐりめぐって僕や僕のきょうだいは、なんということでしょう!父方からも母方からも「赤松」一族の血を受け継いでいるらしいことになる。


 まさにW(ダブル)赤松!!

 そして、赤松の倍返しだ!!


・・・・・・2013年でしか通用しない冗談はさておき、それから僕は「赤松氏」のことをより調べるようになった。


 赤松氏族大塚氏とは、いったいどんな歴史を持つ一族なのか!

 そこには、さらなる歴史の深みが待ち受けていたのであった!



<9>驚愕の新事実! わが大塚家は九州出身ではなかった!

 前回の記事、「完全網羅 大塚氏・大塚姓のすべて! 全大塚氏族超まとめスペシャル!」


http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2013/12/blog-post_8828.html



は、文学部国文学科卒業ならではの、変態的執着系古典研究によって明らかにした日本中の「大塚」さんのまとめデータである。

 その調査とまとめ作業を終えるや否や、僕は驚愕の事実に驚くことになってしまった。

 僕の苗字である「大塚」のうち、うちの家紋である「抱き茗荷」紋を使っているのは、全37大塚氏族のうち、たったひとつしかない、ということに行き着いたのである。


 それは、リストでいえば<C>の「村上源氏赤松支流の大塚氏」だけなのだ。

 いや、厳密に言えば、<AC>の加賀国の山上氏あらため大塚氏も「隅切角に抱き茗荷」を用いるのだが、我が家の場合は、「隅切角」(角を落とした四角形の枠)なんて装飾はついていない。純粋な「抱き茗荷」であるから、<C>に該当で間違いないと思われる。

 もちろん、家紋には「定紋」と「替え紋」があり、定紋のほうが正式な家紋、替え紋がサブ家紋ということになっている。その定紋・替え紋ともに、「抱き茗荷」を使うのは<C>の「村上源氏赤松支流の大塚氏」のみであるから、これまたこの一族こそわが一家だと考えざるを得ないわけである。


 しかし!んがしかし!

 赤松、という名は、日本史好きであればすぐに「ああ、あの赤松か」と思い浮かべるくらいのビッグネームである。

 僕が昔図書館でハマった「まんが日本史」にもバリバリ登場する、そして、山川出版社の日本史教科書にも当然登場し、受験で日本史を取った人なら今でも覚えているはずのあの、赤松以外に赤松はない!

 ・・・・・・そう。鎌倉時代から活躍し、一休さんでおなじみの足利将軍家のバックアップをつとめ、挙句の果てには、将軍足利義教を暗殺してしまっちゃったりした、あの「赤松」一族である!!

 そのせいで、戦国時代が始まっちゃったりしたので、なんともえらいことをしでかした赤松一族だったりする、あの「赤松」である!


赤松氏 ウィキペディアより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E6%9D%BE%E6%B0%8F



だが、だがだがだが!

 赤松氏といえば、播磨の守護からスタートして大名になったわけなので、兵庫県姫路を本拠地とする氏族ではないか。

 うちの家系は代々、九州筑後三潴地方に住んでいるわけだから、わけがわからない。何ゆえに、我らの家が、「赤松氏族の分派」であると言えるのか!



 ・・・・・・ふふふふ。ふはははは!ぬははははは!

 その時、僕は急に高笑いをはじめてしまった。


 そうか!そういうことだったのか!!!!


 謎は、すべて解けた!!!じっちゃんの名にかけて!


 日本史フェチのうち、戦国マニア、戦国大名マニアの方なら、すでにこの「点と線」がつながった松本清張的展開にお気づきになったに違いない。


 そうだ。大きなヒントが有馬温泉。冗談ではなく、有馬温泉を治めることになった戦国大名「有馬」氏が、その点と線をつなぐポイントだったのだ。


 赤松則祐の5男、義祐は1391年の明徳の乱の戦功によって、摂津有馬荘の地頭職になり、そこから「有馬」を名乗るようになる。

 その子孫である、有馬豊氏が関が原の合戦の戦功でもらった領地がどこだと思う?

 そう、そうなのだ。

 有馬豊氏がもらった領地。それこそが筑後久留米21万石なのである!!!




 ミステリーの謎解きはこうだ。わが大塚家のもとの苗字は当然「赤松」、そして、久留米藩主「有馬」氏のもとの苗字も当然「赤松」だ。

 歴史的には、赤松氏は「赤松三十六家」なんて呼ばれたりするほどの支流を持つ大所帯である。


 赤松氏について(播磨屋さんのサイトより)
 http://www2.harimaya.com/akamatu/html/ak_rekisi.html
 
 赤松三十六家
 http://www2.harimaya.com/akamatu/html/ak_36ke.html
 

 しかし、赤松三十六家に「大塚」は入っていないので、そこまで取り上げられない弱小支流であったのだろうが、とにかく、「大塚」氏は大きな意味で赤松一族・赤松軍団のメンバーであったと思われる。

 その中で、同族赤松氏の中でも力のあった「有馬のおっちゃん(いちおう親族なのでおっちゃんと呼ぶ)」の家臣になっていたのが、おそらく僕らの先祖の「大塚」氏だったのだろう。

 それが、久留米藩に領地替えになった時に、いっしょにくっついていったに違いないのだ!

 だから我が家の実家のある地域は「久留米藩領」であり、我が家は近しい家臣なので「久留米藩の馬廻り役(藩主の親衛隊)」ということになるわけだ。

 
 もちろん、直接系図を見たわけでもなんでもないので、物的証拠があるわけではない。しかし、状況証拠としては、すべてが一直線に繋がったではないか!!!


 そして、何より、「自分、不器用ですから」な九州男児だと思っていたうちの家系が、今の僕とおんなじ関西人だったことに、驚きを隠せなかったのである。

2013年12月23日月曜日

<3>ご先祖様の痕跡を求めて

 とまあ、これまでの記事に書いたように、大人(=社会人)になるまで、僕のルーツ探しの旅は完全に停滞していたのだが、事態はちょっとした成り行きで大きく動き始めたのだった。

 というのも、自分が結婚することになり、妻になった女性にとっては、「姓が変わる」という一大イベントを迎えたわけであり、当然、彼女にとっても自分が嫁ぐ「大塚家」なるものが興味の対象になる、というのは自然な流れなわけで。

 ようするに、そんな話をネタにしながら、遊びがてら九州旅行に行くことになったのである。

 旅行そのものは、博多でとんこつラーメンを食べたり、大宰府天満宮へ行ったりするという至極オーソドックスな福岡満喫旅行だったのだが、ついでに親父の実家を説明したり、ちょっとした調査を実行してみた。

 調査、というのはこういうことだ。そもそも、父親から聞いていた我が家の「大塚家」像というのは、ある意味では話だけだったので、ざっくりとした感じではあるが、

「あ、そうだ。地元の図書館に行けば、なんか資料らしきものがあるのではないか?」

と思いついてしまったのである。


 ・・・・・・というわけで、実家のある市町村の図書館で、「市町村史」のようなものを調べてみたのだが、残念なことに我が家の家系につながりそうな人物の名前は残っていなかった。

 ただ、おなじ集落の何がしかの功績があった人物として、大塚某さんの名前があったので、後で父親に訊いてみたら、

「ああ、その人は昔合ったことがあるなあ。たしかに近くに住んでた」

と知っている、とのことではあった。しかし、その人が親戚ではあっても、残念ながら村長さんをしていたらしい曽祖父の名前は見つからなかったし、町内や地域で我が一族が目立った働きをしたような記録が見つからないもんだから、「成果なし」に等しい結果だと言わざるを得ない。


 というわけで、僕ら夫婦は、とりあえず先祖探しの調査を横に置いておいて、観光の旅へと戻ったわけである。





★コラム★ 自分の先祖を探す方法


 自分の先祖の痕跡を探す方法、というのには実は2つのアプローチがあります。今、話の中で取り上げているのは一つ目のアプローチ、つまり

「自分の側から、親・親戚などの一族に伝わっている話を聞く」

という方法です。結局のところ、自分の家のことは自分たちしかわからないわけですから、自分の家のこれまでの歴史が、どのように口伝されているか、をまずは大切にしましょう。

 その時、核になるのは「苗字・名字」と「家紋」です。それから、「地域・村・地区」などの住んでいるところも、ポイントになります。

 この「名字・家紋・地域」を軸にしながら、自分の家に伝わる物語を肉付けすることで、過去に遡ることができます。

 本家筋であれば、「親戚のだれそれさんが家系図を持っている」などの情報に当たることもできますが、次男三男の家系だと、いつのまにかそれらはわからなくなっていることが大半です。

 
 ちょっとマニアックな方法としては、戸籍に載っている記録を遡っていくという手もありますが、こうした方法は行政書士の手助けを借りたりしないと、難しいかもしれません。

 自分の父や祖父くらいまでは記録を辿れますが、そこから先はどんどん閉じた戸籍になっていくからです。



 さて、もう一つのアプローチは

「公的な記録・古文書等から逆に自分の家を辿っていく」

方法です。

  この方法については、このブログの記事の中でこれからどんどん効果を発揮していきますから、解説を楽しみに待っていてください。

 全国の「大塚」さんにとって、自分がどの、どこの、どんな大塚なのか探るテクニックを、どどんと公開してしまいますよ!

(ただ、話がまだそこまで行かないので、もう少し待って下さいね)


2013年12月21日土曜日

<1>父の昔話

 九州のお屋敷に比べて、僕ら家族が関西で住んでいたのは、小さな国鉄アパートだった。それはもう古いアパートで、僕らが住んでいる当時から「ボロっちいなあ」という印象だったから、いったい築何年だったろうか。

 もちろん、今では取り壊されていて、付近は新しく住宅地に生まれ変わっているが、実は1棟だけ今でも当時の建物が残されている。さすがに今は使われていないように聞いているが、最後はJR職員の独身寮かなんかに利用されていたらしい。



 父が国鉄職員になったのは、祖父が敗戦まで南満州鉄道の運転士だった関係である。父の長兄も、某市役所に勤めていたり、次兄も某公社に勤めていたりと、基本的に大塚家は公務員・準公務員一族なのがとても面白い。

 「うちは武家の子孫だから、”官”な家系なのかもしれない」
みたいなことを父親が言っていたのだが、どうやら父によれば我が大塚家は武士の家系だったという。

 九州、福岡県三潴地域の「大塚家」の実家が、子供のだった僕らの目に「城のようなお屋敷」に見えたことは前回書いたとおりだが、それ以外にもいろんな話を父から聞いている。

「うちは、久留米藩の馬廻り役の家柄で、実家のあたり一帯は、もともとは全部うちの土地だった。ところが、他の人に小作させて米を作らせていたせいで、戦後の農地解放の際に全部取り上げられてしまい、今の実家の敷地のあたりだけが残ったと聞いてる。うちの親父は長男ではなかったので満州へ行ったが、いろいろあって最終的にはもとの実家の土地屋敷を継ぐことになった。だからあそこは大塚家の本家筋の家屋敷であることは間違いない」

「親父のお父さん、つまりお前らから見たらひいおじいちゃんは、合併する前の小さな村の村長とか、それくらいの地位にいたので、俺が小さかった時は、近所のおばあちゃんに「村長さんとこの坊や」とよく可愛がってもらった。もちろん、親父は引き揚げしてきて財産は全部失っていたんだけれど、この家には空気銃があったり、バイオリンや三味線が何台もあったり、たぶん刀のようなものもあったような気がする」

「だから、うちの兄たちは、食べ物が少なかったから、よく空気銃で雀を打ち落として焼き鳥にして食べてた。親父もバイオリンを弾いたりしていたので子供心にハイカラな父だなあ、と思っていた」

「村長をしていた親父のお父さんは人格者だったらしいが、その前の先祖が困った人で、なんでも相撲が大好きだったらしく、各地から相撲の巡業を呼んでは興行させていたので、うちの財産がどんどんなくなっていくというえらい目にあったらしい」

そんなことを父は折に触れ話して聞かせてくれた。


 のちに、僕は大学で三味線を弾くようになり、その際には実家のおじ・おばに頼んで三味線を一棹譲ってもらった。今でも僕の手元にあるが、この楽器は歴代大塚家に伝わっていたものである。
 これがまた、超お宝だったら面白いのだが、全然高級な楽器ではなさそうだから、ちょっくら残念な気持ちもある。ところがこの楽器、一風変わった仕上げになっている。

 三味線は、いちおう使われている木材によってランクが分かれるようになっている、高級なものだと紅木、それから紫檀、ランクが下がって花梨というのが簡単な分類で樫なんかも入門者用に用いられる。

 僕の持っている大塚家の三味線は、材は「樫」である。仕上げもめちゃくちゃ上等というわけでないので、ランクの低い楽器だと思われるが、おかしなことに、表面は薄く漆が塗ってあるものの、そのさらに表に朱漆で模様がつけてあるのだ。

 模様というのは「木目」である。そう、ふつうの木の木目のことだ。そりゃ木の楽器なんだから、木目があって当然だ、と思うかもしれないが、そうではない。
 僕も最初、まさしくそんな風に思っていて、棹に木目が出ているなあ、くらいに思っていたのだが、あるとき、よーーーくその三味線を見て驚いた。

 大塚家の三味線の木目は、全部手描きで描き込まれている!ということに気付いたのである。よくよく見ると、数千本に及ぶ木の目が、極細の面相筆を使って朱漆で手描きされている。なんというマニアックな仕上げだろう。

 楽器そのものがあまり上ランクでないことを考えると、この仕上げは一種の「遊び」なのだと思う。そう、いわゆる「通」とか「粋」な仕上げになっていると考えられるのだ。

 そんなおかしな楽器が眠っている大塚家だから、相撲狂いの当主がいたり、数寄者の家系であったとしてもあながち変ではない。

 
 とにもかくにも、僕の印象では大塚家は「昔はそこそこの家格だったようだけれど、戦後は落ちぶれた普通の家」くらいのイメージで、いちおう元は武士だったらしい、その状況証拠はポツポツ転がってるなあ、ぐらいの感覚だったのだ。

 そうこうしながら、僕はだんだんと大人になっていった。





<プロローグ>

<プロローグ>


 山、というのはすぐ背後に迫っているものだ、と僕は幼い頃から思っていた。

 生まれた町が阪神間の西宮市だったから、南へ行けば海、北へ上ればすぐに山というのが、当たり前の風景だったし、小学校の遠足は近くの「甲山」へ登り、ちょっと大きくなれば神戸寄りの「六甲山」へ遊びに連れていってもらうのが、ここいらの子供達の共通体験だったからだ。

 西宮市、芦屋市、神戸市を経て明石市に至るまで、海沿いの平野部はほんの狭い距離しかない。特に神戸に入ると、この狭さは尋常じゃなくなり、右を見ればそそり立つ山、左を見ればすぐ海、という景色になってゆく。

 「すぐ近くに山がある」というこの感覚は、あるいは兵庫県民の多くに共通するイメージかもしれない。阪神間、つまり旧摂津地域は、大阪平野に連なる平地に見えて、その実、意外と山に囲まれている。宝塚市から三田市にかけても、かなり急激な上り坂を経て入っていくし、六甲山の裏へ廻っても、狭い谷あいを抜ければまた山々の連続である。

 丹波地方、但馬地方は言うまでもない。近年グーグルのCMなどで全国区になった天空の城竹田城は、雲海の山の中から顔を出す。

 逆に、兵庫県内で平野(へいや)らしい平野といえば、小野市・三木市・姫路市周辺の播州平野一帯が思い浮かぶ。
 その姫路も、相生あたりまで行けば切り立った崖に囲まれ、新幹線は山の中を走り抜けていくイメージになる。

 とにかく、僕らは山を見ながら育ったのだ。


 僕の父親が、兵庫県出身の母との結婚を気に、関西地方へ移ってきたのは、もう40年ぐらい前のことになる。
 父親は九州の出身で、見渡す限り広大な筑後平野のなかで育ったため、まず当地の「山」に驚いた。
 母親の実家が兵庫県の中ほどにあったたため、父が、母の両親に挨拶に行って一晩泊めてもらったおりには、
「ああ、あの山の向こうからゴジラが現れそうだ」
と思い、なかなか寝付けなかったと聞いている。



 関西で生まれ育った僕だが、父親の実家が九州福岡県にあるため、僕の本籍地もまだ福岡のままになっている。最近は免許証の中の本籍地を示す欄が消されるようになったが、ついこの間までは、毎日のように福岡県のその住所を見ていたものだ。


 福岡県三潴地方のその土地に、代々我が大塚家は居を構えている。

 
 うちの父は末っ子だったため、長男のように実家を継ぐこともなく、勝手に関西へ飛び出してもいっこうに問題なかったのだが、おかげで僕らの一家は、実家サイドの親戚と数年に1回程度しか交流できずに過ごしてきた。

 それでもまだ、祖父が存命の折には、小さい僕たちを連れて新幹線に乗って帰省をしたものだが、祖父が亡くなり、父の長兄が亡くなり、そして祖母や父も亡くなってしまったため、いよいよ今では九州へ帰る機会はなくなってしまいそうだと思う。



 大塚家、僕らの父親の実家は、三潴地方の某地区にある。見渡す限りの田んぼとクリーク(堀)が縦横に走っている平野の中に、小さな集落があって、その中にそこそこ広い敷地を持った「お屋敷」のような家が建っている。

 堀が屋敷の土地とリンクした形になっているので、一見すると「堀に囲まれた小さな城」のような風情がある。小さい頃の僕と弟は、「うちの実家は城なんだ!」妙に興奮していたのを覚えている。

 敷地はやたら広いのだが、その一角に墓があり、いや墓というより「墓所」というべきスペースが設けられていて、これまたやたら大きい「大塚家の墓」が中央にそびえている。そびえている、という表現も云い得て妙で、墓石に辿りつくには、数段の高い階段を上らないと上までいけないようになっていて、壇上が少しだけテラス(回廊)状になった墓の形状であるため、とにかく威風堂々とした墓になっているのだ。
 墓の台座部分は空洞になっているらしく、後ろに扉がついている。父親が小さいころに覗いてみたそうだが、そこに遺体や骨壷が安置してあるというよりは、すでにこれまでの時代の中で、中身はあらかた整理されていたらしい。


 そして、その周囲には、これまで亡くなったであろういろいろな人たちの小さい墓石が、あちらこちらに建っている。そのどれもが、かなり古いもので、表面の文字は読めなくなっているものが多い。
 とにかく、由緒ある墓所なんだろうな、という感じがして、小さかった僕ら兄弟は「怖い」とかそういう感情よりも、「なんか、すげえ!」という印象を持ったものだ。


 まさに、実家には大きなお墓がある。だからうちの名前は「大塚(おおつか)」なんだ、と僕は勝手にそう思っていた。

 大塚、という苗字の由来は、基本的には「大きなお墓」で問題ないだろう。しかし、もちろん、この場合のお墓は、うちの実家のような近世の墓所や墓石ではなく、もっと古い時代の「古墳や古塚」のようなものだと考えられる。

 大きな塚のそばに住んでいたから「大塚」とか、古墳のある地域・場所に由来する氏姓だから「大塚」とか、そういう由来で「大塚」姓は生まれたと考えられている。


 ところが、残念ながらうちの実家の近所には、それらしい「古墳」なんかは全然なく、やっぱり大きい塚はうちのお墓しかなかったので、子供の僕にはよくわからないままだった。
 どんな子供だって、小さいうちは自分の苗字の由来なんかより、もっと面白そうな・興味関心のあることが山ほどあるのだから、そんなもんだとしかいいようがない。


 ともかく、僕は大塚一族の一員で、今では遠く離れてしまっているけれど、僕の出所はこの九州の小さな町のこの家なんだ、ということだけは、間違いなかった。

 そして、ずっと、僕は九州出身の一族の人間だと思い込んでいたのだ。そう、40年近く、ずっと!



<ごあいさつ> 全国の”大塚”さんへ

みなさんこんにちは

そして、全国の「大塚」さん、どうもどうもこんにちは。


当ブログは、hidari-Dこと大塚某である私が、自分の一族の家系について調べた際の情報を、ややドラマチックかつ、やや感傷的にまとめあげた記録です。


記事はちょっぴり物語風にしてありますので、できるだけ読み易く書いていくつもりです。


もしこれを読んでおられるあなたが「大塚姓」「大塚氏」「苗字が大塚」「名字が大塚」さんだったら、ほんの少し足を止めて、自分の一族のことが載っていないかどうか、まったりと立ち読みして行ってください。


残念なことに、全国の「大塚な、大塚っぽい、大塚的な」みなさんは、先祖に有名な武将がいるわけでもないし、高名な政治家がいるわけでもないし、かといって苗字ランキングの5本の指に入るとか、逆に国内でとっても珍しい苗字であるとか、そういうことも全くなく平凡な日々を過ごしておられることと思います。


そんな微妙な立ち位置の大塚さんですが、このブログではいよいよ満を持してわれらが「大塚一族」にスポットをあて、激動の日本史を紐解いてゆきます。



おそらく、これまで誰もあんまりやっていない「唯一・随一の”大塚”研究」になることは間違いありません(笑)


それではみなさん、はじまるよ!




★お願い★

 読者のみなさんの中で、「大塚」さんに関する資料や情報をお持ちの方は、遠慮なく当ブログまでご一報くださいませ。

 随時、検討、調査の上、より正しい記事内容へと更新して参ります。