すっかり全国の大塚姓の方に知られてしまった当ブログだが、何度も「わたしも大塚です」という方から情報提供を頂くことがあるので、可能な範囲で紹介できるところは紹介している次第である。
さて、今回、とても興味深いお話を教えていただいた。もちろん、個別の事情については、苗字と言うとても個人情報に関わることであるので、十分配慮しながら取り扱いする所存。
今回のお話は、なんとあの織田信長と大塚氏にまつわる新情報!
信長の家臣である大塚氏には、すでに3氏がよく知られ、戦国武将系の書物やサイトでもよく言及されている。まずはおさらい。
<調査中>織田信長と大塚氏
https://samurai-otsuka.blogspot.jp/2014/05/blog-post_13.html この記事でも取り上げているとおり、
■ 大塚新八郎(資料によっては新八)
■ 大塚孫三(資料によっては弥三)
■ 大塚又一郎
の3氏は、とくによく引用されていると言ってよい。
さて、大塚新八郎であるが、「相撲取りであったらしく、信長主催の相撲大会で何度か出場し、召抱えられた」という話が信長公記あたりの引用でよく語られる。
そのあたりの経緯は、信長の記録についてまとめておられる書物やサイトをご参照願いたい。
ところで今回、この大塚新八郎について、新しい情報が見つかった。
教えてくださった方は、大塚新八郎のそれ以前の経緯とその子孫について言及した文書の写しを所有しておられ、今回拝読させていただいた次第。
では、信長の真実に迫るかもしれない新情報を、まとめてみよう。
<新事実1>
大塚新八郎の父親の名前は、大北重兵衛という。
・・・相撲大会に出たという縁で信長家臣となった件は既出だが、新資料によれば「信長から大塚姓を拝領し、大塚を名乗った」とある。
ということは本来は大塚姓ではなく「大北姓」の人物だった、ということである。
ちなみに父親の本姓も記載があり「藤原氏」。
大北重兵衛は、近江佐々木氏に仕え、のちに信長家臣となったらしい。
<新事実2>
大塚新八郎は、本能寺で死んでおらず、関が原にて戦死したらしい。
・・・信長家臣の大塚氏のうち、残りの二人は本能寺で死んだ説があるが、大塚新八郎については言及がなかった。それもそのはず、亡くなったのは関が原の合戦においてだというのである。
新八郎が信長に召抱えられてからの経緯は次のとおり。
■ 天正7年 蒲生氏付きになる。(蒲生氏郷は信長家臣。近江国蒲生郡。)
ということは、天正9年の天正伊賀の乱には、氏郷の下で参戦したか?
■ 天正18年 蒲生氏の奥州入りへついてゆく
■ 不明 のち、滋賀へ戻ってくる。
■ 慶長5年 関が原の合戦にて死去
どういう立場で参戦したかは明記がない。
・・・・・・文禄4年に、蒲生氏郷の子、秀行は、秀吉によって会津領を没収の上、近江へ2万石で封されたという説があり、これに関連するのか気になるところ。
しかし最終的には、蒲生秀行は関が原前に宇都宮に封されていたため、このとき近江がどうなっていたのか、あるいは大塚氏がどうしていたのかは要調査であると思われる。
蒲生秀行は、関が原の合戦では徳川秀忠の指揮下で動いている。(しかし、宇都宮周辺で守りについていたらしい)
とすれば、大塚新八郎が、どの立場で関が原戦死ということになるのか、いろいろな可能性が考えられる、ということになろう。
さらに、興味深いのは、新八郎の子が「安藤対馬守」付きになっていることである。これはおそらく安藤重信のことであろうと推測され、彼は慶長16年より秀忠の老職を務め、のちに上野高崎藩主となっている。
安藤重信は、慶長5年時点では秀忠軍下で真田の上田城攻めに参戦している。
どうもこの秀忠家臣団の中で、大塚氏が活動している感触がある。
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まだまだこの大塚新八郎をめぐっては考察すべき部分が多いと思われる。
情報がまとまりしだい、またご紹介する予定!
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