九州のお屋敷に比べて、僕ら家族が関西で住んでいたのは、小さな国鉄アパートだった。それはもう古いアパートで、僕らが住んでいる当時から「ボロっちいなあ」という印象だったから、いったい築何年だったろうか。
もちろん、今では取り壊されていて、付近は新しく住宅地に生まれ変わっているが、実は1棟だけ今でも当時の建物が残されている。さすがに今は使われていないように聞いているが、最後はJR職員の独身寮かなんかに利用されていたらしい。
父が国鉄職員になったのは、祖父が敗戦まで南満州鉄道の運転士だった関係である。父の長兄も、某市役所に勤めていたり、次兄も某公社に勤めていたりと、基本的に大塚家は公務員・準公務員一族なのがとても面白い。
「うちは武家の子孫だから、”官”な家系なのかもしれない」
みたいなことを父親が言っていたのだが、どうやら父によれば我が大塚家は武士の家系だったという。
九州、福岡県三潴地域の「大塚家」の実家が、子供のだった僕らの目に「城のようなお屋敷」に見えたことは前回書いたとおりだが、それ以外にもいろんな話を父から聞いている。
「うちは、久留米藩の馬廻り役の家柄で、実家のあたり一帯は、もともとは全部うちの土地だった。ところが、他の人に小作させて米を作らせていたせいで、戦後の農地解放の際に全部取り上げられてしまい、今の実家の敷地のあたりだけが残ったと聞いてる。うちの親父は長男ではなかったので満州へ行ったが、いろいろあって最終的にはもとの実家の土地屋敷を継ぐことになった。だからあそこは大塚家の本家筋の家屋敷であることは間違いない」
「親父のお父さん、つまりお前らから見たらひいおじいちゃんは、合併する前の小さな村の村長とか、それくらいの地位にいたので、俺が小さかった時は、近所のおばあちゃんに「村長さんとこの坊や」とよく可愛がってもらった。もちろん、親父は引き揚げしてきて財産は全部失っていたんだけれど、この家には空気銃があったり、バイオリンや三味線が何台もあったり、たぶん刀のようなものもあったような気がする」
「だから、うちの兄たちは、食べ物が少なかったから、よく空気銃で雀を打ち落として焼き鳥にして食べてた。親父もバイオリンを弾いたりしていたので子供心にハイカラな父だなあ、と思っていた」
「村長をしていた親父のお父さんは人格者だったらしいが、その前の先祖が困った人で、なんでも相撲が大好きだったらしく、各地から相撲の巡業を呼んでは興行させていたので、うちの財産がどんどんなくなっていくというえらい目にあったらしい」
そんなことを父は折に触れ話して聞かせてくれた。
のちに、僕は大学で三味線を弾くようになり、その際には実家のおじ・おばに頼んで三味線を一棹譲ってもらった。今でも僕の手元にあるが、この楽器は歴代大塚家に伝わっていたものである。
これがまた、超お宝だったら面白いのだが、全然高級な楽器ではなさそうだから、ちょっくら残念な気持ちもある。ところがこの楽器、一風変わった仕上げになっている。
三味線は、いちおう使われている木材によってランクが分かれるようになっている、高級なものだと紅木、それから紫檀、ランクが下がって花梨というのが簡単な分類で樫なんかも入門者用に用いられる。
僕の持っている大塚家の三味線は、材は「樫」である。仕上げもめちゃくちゃ上等というわけでないので、ランクの低い楽器だと思われるが、おかしなことに、表面は薄く漆が塗ってあるものの、そのさらに表に朱漆で模様がつけてあるのだ。
模様というのは「木目」である。そう、ふつうの木の木目のことだ。そりゃ木の楽器なんだから、木目があって当然だ、と思うかもしれないが、そうではない。
僕も最初、まさしくそんな風に思っていて、棹に木目が出ているなあ、くらいに思っていたのだが、あるとき、よーーーくその三味線を見て驚いた。
大塚家の三味線の木目は、全部手描きで描き込まれている!ということに気付いたのである。よくよく見ると、数千本に及ぶ木の目が、極細の面相筆を使って朱漆で手描きされている。なんというマニアックな仕上げだろう。
楽器そのものがあまり上ランクでないことを考えると、この仕上げは一種の「遊び」なのだと思う。そう、いわゆる「通」とか「粋」な仕上げになっていると考えられるのだ。
そんなおかしな楽器が眠っている大塚家だから、相撲狂いの当主がいたり、数寄者の家系であったとしてもあながち変ではない。
とにもかくにも、僕の印象では大塚家は「昔はそこそこの家格だったようだけれど、戦後は落ちぶれた普通の家」くらいのイメージで、いちおう元は武士だったらしい、その状況証拠はポツポツ転がってるなあ、ぐらいの感覚だったのだ。
そうこうしながら、僕はだんだんと大人になっていった。
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