僕の本来の実家がある福岡県三潴地域というのは、現在では合併合併を繰り返して、「大川市」「大木町」「柳川市」「久留米市」「筑後市」という5つの市町村になっているが、本来はもっと多くの二十ちかくの村が集まった地域のことを指す。
中でも観光地として有名なのが、北原白秋のふるさとでもある「水郷 柳川」である。この町もクリーク(堀割り)で有名で、柳川城をめぐる縦横無尽の堀が未だに残っているので、観光として「川下り」を楽しむことができる。
僕ら夫婦の福岡旅行の中で、旅の締めくくりは「柳川観光」となったのは、ある意味定番の流れであり、「本吉屋」でうなぎのせいろむしを食べ、「川下り」を楽しむことになった。
やや寒い季節に訪問したため、その時の僕らの川下りは貸切状態で、古い町の風情を十分に楽しんだのを覚えている。
柳川の川下りは、入り組んだ街の中の掘割を進んでいくのだが、そのラストは柳川城跡の堀をぐるりと廻って、柳川藩の旧藩主の屋敷である立花邸「御花」に到着して終了、という流れになっている。
御花
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この藩主の屋敷はとても素晴らしい建物で、現在では結婚式場や料亭のような使われ方をしているが、さすがに柳川藩藩主の屋敷だけあって、一見の価値がある。
さて、うちの実家は、柳川にもすぐ行けるところなので、その昔父親に
「うちって柳川藩やったっけ?久留米藩やったっけ?」
と尋ねてみたことがあるのだが、父親が言うには、
「いや、柳川にも近いけれど、うちは久留米藩だ」
という答えが帰ってきた。
「御花」の壮大さを見れば納得がいくのだが、もともと筑後の国は「柳川藩(柳河藩)」が一藩で支配していたのが、後に久留米藩ができたことで二つに分割されたような格好になったらしい。
筑後の国の領地は、その結果もともと似たような地域にあるはずのものが、「久留米藩」と「柳川藩」に分かれることとなり、そのため我が大塚家の地域は「久留米藩に属する」ことになっていたようなのである。
僕にとって、小さいときに何度か連れて行ってもらった「御花」はもとより、この結婚後の旅行は、ちょっとした刺激になった。
久留米藩成立前に、我が実家のある地域が柳川藩に属していた可能性があるとすれば、こりゃ縁もゆかりもないわけでもなかろう、というわけだ。
そこから、当時の九州一帯の戦国武将ならびに、諸藩の様相についても、俄然興味が沸いてきたのである。
その頃、僕が思い描いていた「想像」はこうだ。
「大塚一族は、九州にあって、周辺の武将たちの動乱・騒乱・力加減の中で三潴地域に定着していったと思われる。あるいは、立花家に仕えていた可能性もあるし、そこから久留米藩に仕えることになったと思われる。でもいったい、どこからやってきた一族なんだろう」
まあ、そんな漠然としたイメージで捉えていたわけだが、これは結果的には大間違いであったことが、のちのちわかってくるのである。
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