2013年12月31日火曜日

<21>【1】三木市大塚地区を訪ねて

 実のところ、我が「赤松支流大塚氏」のルーツとして、個人的にいちばん「あやしい?!」と睨んでいるのが、この三木市大塚地区である。


 兵庫県三木市大塚、はなんとウィキペディアにわざわざ一項を立てて下さっているくらい有名?!な地域で、ざっくりとした解説はそちらをご参照いただきたい。

 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%A1%9A_(%E4%B8%89%E6%9C%A8%E5%B8%82)


 
 この三木市大塚地区は、今は三木市役所となっている「三木城」跡のほど近くの地域であり、古くは播磨国久留美庄に属し、もと美嚢郡三木町にある。


 この大塚地区、なぜ「大塚」と呼ばれているのかはよくわかっていない。もちろん、古墳があったとか、「王塚(王の墓)」があったとか、いろんな由来らしきものは残っているらしいが、決定的に現存しているものがないため、理由が不詳である。

 また、この大塚地区に大塚さんはほとんど住んでいない。不思議といえば不思議だが、「この大塚地区から大塚氏が出た」といった伝承も全然残っていない。

 つまり、三木大塚と「大塚氏」の関係性は記録にはぜーんぜん残っていないのだが、そこかしこに「ほのかな香り」が残っているのが興味深い。


 まず、室町時代から探ってみよう。


 三木一帯は、赤松家臣団の中でも有力であった「別所氏」が治め、三木城を建てた。別所氏は赤松氏の血縁分家ではないが、家臣としては高い地位にある、いちおう赤松軍団のメンバーである。

 ところが、赤松軍団はでっかくなりすぎた故に、戦国時代になるといろんなしがらみや考え方から、敵味方に分かれるようになる。

 最終的に、別所氏は、「織田軍」に敵対するようになり、三木城は「豊臣秀吉」によって、兵糧攻めに逢って滅びてしまう。

 この戦いは「三木合戦」として有名で、もちろん当ブログにおいても、このネタはもう少し後まで引っ張ることになる。


 三木合戦 ウィキペディアより

 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9C%A8%E5%90%88%E6%88%A6



 さて、この三木城のとなりが「久留美庄」で、そのとなりが「淡河」という地域なのだが、赤松軍団が内紛している戦国時代には、あの有馬氏の分家が秀吉の部下となって「淡河城」に入り、ひっきりなしに「三木城」を落とすべく頑張っているが、うまくいかなかったので、秀吉が乗り込んだという経緯がある。

 
 久留米藩分限帳には、「大塚」以外に「小寺」や「淡河」といった家臣の名が見えることから、三木大塚が「大塚氏」にゆかりがある、といってもあながち見当違いではないようにも思われる。

 そう、有馬氏は美嚢郡と関わりが深いのだ。



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 さて、もうひとつ僕が個人的に「大塚=三木大塚」の関わりについて気になっているポイントがある。

 それは、この地の寺のことだ。

 三木大塚からほど近くの、志染町に今でも残っている645年開基といわれる「伽耶院(がやいん)」という古刹があるのだが、ここが天台系修験道の寺院として有名なのである。

 また、現存しないが、別に「高男寺(こうなんじ)」という天台宗の寺もあったという。(地名だけが残っている)

 さらに、現在は曹洞宗だが、三木上の丸にある「雲龍寺」も天台宗の僧が開祖だという。


 天台宗といえば、「抱き茗荷」である。

 三木城を中心とした範囲は、めちゃくちゃ天台系の影響力が強い。ここが「大塚氏」の源流だとすれば、「抱き茗荷」紋の採用とも、整合性がある。

 

 しかし、残念なことにそういったことの裏づけが何にも残っていないのである。


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 その大きな理由は、さっきも出てきた「三木合戦」だ。

 秀吉はとにかく、三木城を落とすためにそこらへんに砦を築きまくり、その砦を作るために、そこらへんの寺院を焼き払った。

 「伽耶院」も三木合戦の折に焼失、後々になってからの再建であり、「高男寺」は完全に消失。「雲龍寺」も秀吉のせいで「焼失」のち再建されたのである。


 簡単に言えば、巨神兵のごとく、秀吉の猛火は、あたり一帯の歴史的遺構を

「やきはらえ!」

「なぎはらえ!」
 
してしまったのである。

 だから、三木城周辺の寺社は、すべて三木城落城後の「再建」ばっかりなのである。


 大塚氏の形跡がまったくこの地に残っていないのは、あるいは秀吉のせいかと疑ってしまう。


 ・・・・・・サルめ!



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