しかし、赤松氏そのものについては、歴史認識の上でも、かなりその出自に疑義がある存在で有名なので、そのこともあわせて紹介しておきたい。
「寛政重修諸家譜」に残っている大塚氏の記述は、「村上源氏赤松支流」ということになっている。
これは、赤松氏の先祖が村上天皇の子孫であり、臣籍降下して「源(みなもと)」姓を賜った「源師季」から始まるとされているからで、赤松一族はみないちおう源氏の末裔ということになっている。
だが、そもそも赤松氏が本当に源師季、またその子「源師房」に血縁の事実としてつながるのかどうかは、怪しいとされている。
このあたりは、赤松氏に関するどこの歴史書や説明を見ても、けっこう詳しく書いてあるので、誰でも簡単に調べることができると思う。
(もちろん、「怪しいぜ」という説と「それでも、やっぱり高貴な身分からスタートしたらしいよ」という説がどちらもあることを合わせて書いておこう)
このあたりの経緯を詳しくまとめてあるサイトがあるので、紹介しておこう。
兵庫県歴史研究会 さんのブログから
http://d.hatena.ne.jp/hyogorekiken/20050131
こちらの記事は、赤松氏の家系偽造の観点からの説明が詳しく載っている。
上に上げた「兵庫県歴史研究会」さんの赤松の謎シリーズはとても面白く、赤松氏が「村上源氏」ではないとしても、そのルーツがかなり興味深いことがわかる。
なかでも、播州近辺で一大赤松勢力を形成するときに、「秦氏」の末裔を取り込んでいった可能性についての言及は、かなりのわくわくさんである。ゴロリ。
というのも、このブログでも説明したが、「抱き茗荷」紋と摩多羅神信仰には、秦氏が関係してくるから、大塚氏はもしかしたら秦氏の末裔かもしれない、という新説が作れるからである。
というわけで、当ブログにおいても僕は
「わーいわーい、うちは天皇家の子孫で源氏だもんね」
と無邪気なことは全く言うつもりはない。
もしかしたら赤松氏の子孫ですらないかもしれないし、事実を問えばわからないことだらけだからだ。
記録上は、「赤松家」から分家した「大塚家」ということが伺えるのだが、正式な系図として「赤松の誰それが大塚になった」とは残っていない。むしろ、大塚氏の側から、「むかし、うちは赤松系だった」と主張しているのであり、(もちろん、家臣としては記録されているが)親族かどうかはわからないからだ。
もうすこし丁寧な言い方をすれば、赤松氏が勢力を拡大する折に、かなり初期の段階で取り込んだ地元の豪族として大塚氏が存在していて、それが家臣として姻戚関係を結んでいくうちに記録上「赤松支流」として取り込まれた、と考えることもできる。
しかし、そういう微妙な部分は別にして、大枠で語るときに、わが大塚家が、有馬家と関係があり、当然赤松家と関係があり、そのために現在九州に実家がある、というところまでは、おおむね確定だといえる。
これだけで既に室町時代~現代までの家系がだいたい判明したのだからたいしたものである。
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