前回と同じく「同姓同名探しと名前ランキング」さんのサイトを用いながら、今度は福岡県における「大塚さん」の分布を調べてみた。それが次の結果である。
http://namaeranking.com/?search=%E5%90%8C%E5%A7%93%E5%90%8C%E5%90%8D&surname=%E5%A4%A7%E5%A1%9A&firstname=&tdfk=%E7%A6%8F%E5%B2%A1%E7%9C%8C
これがなかなか興味深い。
まず、このリストの読み方にちょっとくせがあるのだが、市町村レベルで一番多いのが飯塚市149人、次が嘉麻市86人・久留米市85人、八女市65人・・・、といった具合になっている。
ところが、このリストは、北九州市と福岡市が区分けされているので、本来的には、福岡市が合計157人、北九州市が180人ということになる。
もう少し噛み砕いて説明すると、こういうことだ。福岡県における「大塚さん」の分布は、旧福岡藩領がとても多く、そして、旧久留米藩領にも多数の「大塚さん」がいる、という見立てができる。
このブログの早い段階で出てきた柳川藩関係にいたっては、例えば「柳川市3人(少ない)」という具合だから、やはり柳川藩に「大塚氏」はいなかった可能性が高い。
ここで、一旦ひとつの大きなポイントを提起しておきたい。
それは、我が家のように「久留米藩に属する大塚氏」がいるのと同様、あるいはそれ以上の勢力として「福岡藩に属する大塚氏」がいる、という発見である。
この「福岡藩系大塚氏」は【第三グループ】として別項を立てて詳細に説明するので、そちらをご期待いただきたい。
==========
話を久留米藩に戻そう。今回僕は、福岡市内の古書店で「久留米藩分限帳」を入手した。
「分限帳」とは、簡単に言えば、久留米藩士の「名簿・リスト」である。この分限帳は、「久留米小史」という久留米に関わる歴史書の別冊として付録されているもので、
「久留米小史 戸田乾吉著 鶴久二郎編」
として1974年に刊行されたものである。
九州の各市町村図書館や九州大学・福岡大学などの一部の図書館で読むことができるが、基本的にはあまり出回っている冊数が多くない「古本」である。ただ、学術的には誰でもどこでも読めるので、まあ目にしやすい本であることは間違いない。
さて、結論から言えば、「久留米藩分限帳」には有馬氏の家臣として「大塚」の名前がきちんと掲載されている。
=========
☆ 寛文六年版(1666年)
大塚次兵衛 の記載が読める。(影印)
☆ 文久二年版(1862年)
竹之間組 三百石 大塚平十郎
(略)
中小性組 拾五石三人扶持 大塚九兵衛
(略)
荒巻太左衛門組 拾二石三人壹歩扶持 大塚處平
(略)
御納戸役支配 御徒士並格 拾石三人壹歩扶持 大塚忠兵衛
☆ 弘化三年版(1846年) 「手鑑」
竹之間御番 大塚伸左衛門
(略)
御進物方 大塚九兵衛
(略)
馬廻組 (一番組~六番組)
竹ノ間組 大塚伸右衛門
(略)
御徒士 文化十二亥四 大塚九兵衛
(略)
御徒士御雇 二人扶持銀五枚 大塚処平
(略)
集徒士 御徒士並 文政十二丑十二 大塚忠兵衛
(略)
御能役者 九石 大塚陽次郎
☆ 明治二年版(1869年)「久留米藩御記録分限帳」
御馬廻 壱~六番 ならびに 並
竹之間組 三石(百の誤りか?)石 大塚平十郎
(略)
中小性組 片山兵左エ門組 成産方 大塚処平
☆ 明治五年版(1872年)「元久留米県官禄取調帳控」
現六石六斗 士族 大塚処平
(略)
貸銭方 二石三斗一升宛 大塚福蔵
===========
これらの記述から、久留米藩の大塚氏は大きく分けて3身分の者が存在したことがわかる。
「竹の間組」の三百石クラスの一家
「中小姓」クラスの一家
「徒士」クラスの一家
の約3家である。
もちろん、子が生まれるごとに長男はともかく、次男三男はより下位の役職に就かざるを得ないため、これらの大塚家が元は同族であることも十分ありうるが、やはり基本となるのは「竹ノ間組」に属した大塚平十郎や伸左衛門(伸右衛門)たちであろう。
(この章つづく)
0 件のコメント:
コメントを投稿