2013年12月31日火曜日

<22>【2】もうひとつの三木「大塚」 高木大塚城

 さて、実は三木市には、もうひとつ「大塚」にかかわりのある地名がある。


 前の記事にも出てきた「三木合戦」のわかりやすい図があったのでリンクしておくが、


 YORIさんのホームページより 

 http://www.eonet.ne.jp/~yorisan/newpage43.htm


 秀吉がどんな感じで三木城を取り囲んだのかが、この図からざっくりとわかるようになっている。


 まず、大塚町の位置が、三木城から東方向にすぐ示されている。そして、もうひとつの「大塚」が、城から南西方向に図示されているのがわかるだろうか。

 これが「高木大塚城」とよばれる砦の位置である。(三木市別所町朝日ヶ丘)

 
 たびたび城たび100選 さんのサイトより
 http://www.hyogo-tourism.jp/shirotabi/100castles/areas/detail.php?pageid=45&page=1


 ここでいう「大塚」とはもちろん古墳のことである。古墳の丘を利用して砦を築いたために「高木大塚城」の名で呼ばれるのだが、ここが古来より「大塚」と呼ばれていたのなら、もしかしたら「大塚氏」と関係あるかも、と思わざるを得ない。


 
 この時期、小寺氏(本家)は、信長に従うかどうか、うにょうにょやっていたのだが、最終的には反旗を翻して、御着城(小寺の居城、姫路城のとなり)を落とされてしまう。その結果、家来筋の黒田官兵衛の今度は部下にならざるを得なかった、というわけだ。


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 こうして2つの三木「大塚」について見てきたが、どちらも有馬・小寺(黒田)両氏との接点は三木合戦の前後に起きており、「大塚氏」との接点を見つけ出すのは難しい。

 仮に、大塚氏が三木出身だとしても、この時点で「有馬・小寺(黒田)」氏と繋がったのではないと思う。

 大塚が「赤松の家臣」として記録に残るのは、もっと前だからだ。

 室町期の「大塚重太夫」も、のちの「大塚将監」も姫路市内に痕跡を残していて、三木周辺ではない。


 百歩譲って、大塚氏の出自が三木大塚周辺だとしても、相当早い段階で赤松本家と合流している可能性が高い。

 いよいよもって、謎が謎を呼ぶのであった。


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