さて、実は三木市には、もうひとつ「大塚」にかかわりのある地名がある。
前の記事にも出てきた「三木合戦」のわかりやすい図があったのでリンクしておくが、
YORIさんのホームページより
http://www.eonet.ne.jp/~yorisan/newpage43.htm
秀吉がどんな感じで三木城を取り囲んだのかが、この図からざっくりとわかるようになっている。
まず、大塚町の位置が、三木城から東方向にすぐ示されている。そして、もうひとつの「大塚」が、城から南西方向に図示されているのがわかるだろうか。
これが「高木大塚城」とよばれる砦の位置である。(三木市別所町朝日ヶ丘)
たびたび城たび100選 さんのサイトより
http://www.hyogo-tourism.jp/shirotabi/100castles/areas/detail.php?pageid=45&page=1
ここでいう「大塚」とはもちろん古墳のことである。古墳の丘を利用して砦を築いたために「高木大塚城」の名で呼ばれるのだが、ここが古来より「大塚」と呼ばれていたのなら、もしかしたら「大塚氏」と関係あるかも、と思わざるを得ない。
この時期、小寺氏(本家)は、信長に従うかどうか、うにょうにょやっていたのだが、最終的には反旗を翻して、御着城(小寺の居城、姫路城のとなり)を落とされてしまう。その結果、家来筋の黒田官兵衛の今度は部下にならざるを得なかった、というわけだ。
========
こうして2つの三木「大塚」について見てきたが、どちらも有馬・小寺(黒田)両氏との接点は三木合戦の前後に起きており、「大塚氏」との接点を見つけ出すのは難しい。
仮に、大塚氏が三木出身だとしても、この時点で「有馬・小寺(黒田)」氏と繋がったのではないと思う。
大塚が「赤松の家臣」として記録に残るのは、もっと前だからだ。
室町期の「大塚重太夫」も、のちの「大塚将監」も姫路市内に痕跡を残していて、三木周辺ではない。
百歩譲って、大塚氏の出自が三木大塚周辺だとしても、相当早い段階で赤松本家と合流している可能性が高い。
いよいよもって、謎が謎を呼ぶのであった。
0 件のコメント:
コメントを投稿