2013年12月28日土曜日

<16-2>【第二グループ】 久留米藩士大塚氏 久留米小史を読む

(前記事よりつづく)


 さて、今度は「久留米小史」より江戸時代の久留米藩の「官制」を読んでみたい。

 官制、とは簡単に言えば階級制度のランクわけ、仕事の分担内容のようなものである。なぜ、これを見たいかといえば、「竹ノ間組」という職が、どうも久留米藩独自のものらしいので、この仕事がいったい何なのかを判断したかったからである。

 しかし、その謎は、官制を見れば概ね解けた。



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 家老 - 奏者番十六人 - 竹之間組四十三人 

(略)

 家老 - 六組番頭六人 - 馬廻組頭十一人

                 - 馬廻百九十八人

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 久留米藩の官制からいえば、竹ノ間組は家老から奏者番の下に仕えることになっている。

 参考までに馬廻り役についても挙げてみたが、官制の並びでいえば竹ノ間組より少し後に書かれていて、こちらは、全6グループ設定されており、チーフ、兵士の順に制度が敷かれていることがわかる。


 しかし、前回の記事の「分限帳」を見ると、竹ノ間組格の大塚さんたちより前に「馬廻り組」の藩士たちが書かれているので、 

「ん?序列的に、『竹ノ間組』と『馬廻り役』とどちらが格が上なのか?下なのか?」

という疑問が生じることになる。



 これを解く鍵は「馬廻り」ということばにある。


 まずは、次のサイトを参照してほしい。



 「写真で見る久留米城」 さんのサイトより



 
 このサイトに、当時の久留米城内の見取り図が掲載されているのだが、これを見ると「竹ノ間」とは家老部屋のすぐ近くに配置されていることがわかる。

 また、歴史に詳しい人ならすぐにピンとくるだろうが、「竹ノ間組」の上司が「奏者番」となっていることが大きなヒントになる。

 奏者番とは、江戸幕府においては大名や旗本が将軍に謁見する際の取次ぎ役である。上使いとして将軍の代わりに派遣されたり、代理に参列するなどの「大使」のような役割を果たしていたので、竹ノ間組も同様の仕事をしていた、と推測できよう。



 さて、「馬廻り」についてである。

 「馬廻り」という言葉そのものは、主君の周囲にいる「親衛隊」のような存在であり、騎馬に乗る兵士が出発点である。
 
 ところが、平和な時代になってくると、格式としての馬廻と実務部隊としての馬廻の間に相違が生じるようになり、「藩主に直接仕える親衛隊としての馬廻格」と「馬上資格のある馬廻」、また「馬上資格のない馬廻」、あるいは、「役職としての馬廻」など、多少幅のあるニュアンスで捉えられるようになった。

 上級武士(上士)としての「馬廻」あるいは「馬廻格」は、家老をはじめ、大小姓など、「主君に直接仕える立場」を示すものと考えてよい。

 逆に、役職としての馬廻は現代で言えば警察機動隊(白バイ隊や交通機動隊=警部以上)のような立場であり、中小姓格(中士)が相当であろう。

 また、下級武士(下士)として、「徒士格」「足軽」などがあり、本来であれば騎馬勤務をしないため馬廻役になることはないが、藩によっては馬上資格のない「馬廻」職もあったようである。これらは「巡査」などに相当するものであろう。
(場上資格がなくとも、馬廻役は藩主への謁見が可能だったらしい)


 馬廻役は戦争時には主君護衛隊として機能するが、平時には側近として事務の取次ぎを主な仕事としていたため、天下泰平の世が続くにつれて、だんだんと武官としての馬廻りの重要性は、薄れてくるようになったという。



 これらのことを総合的に考えると、久留米藩において「竹ノ間組と馬廻組」はほぼ同格であり、藩主に近い親衛隊軍団のうち、事務方サイドに立つのが「竹ノ間組」、警備・軍事実務サイドに立つのが「馬廻組」だったと考えることができる。



 だとすれば、我が家に伝わっている「大塚家は馬廻り役だった」という伝承は、実職としての「馬廻組に属していた」というよりは「格式が馬廻格相当だった」というニュアンスのほうがより近いことになる。


 だが、そうした小さな差異はあれど、概ね我が家に伝わっている話が、あながち間違いではない、ということが公的な文書上からも確認できたといえよう。



閑話休題


 さて、当家の出自が久留米藩分限帳の上でもざっと確認できたところで、もう一点だけ久留米藩士の「大塚氏」について押さえておきたいことがある。

 それは「久留米藩士 大塚敬介」のことである。

 彼は幕末の志士として、日本史上「ちょびっと」だけ登場する。



 ウィキペディア 「禁門の変」 より
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%81%E9%96%80%E3%81%AE%E5%A4%89



  幕末の動乱の際、長州藩の処遇について朝廷に建白書を奏上したのが、薩摩藩士吉井幸輔、土佐藩士乾市郎平、久留米藩士大塚敬介たちであり、彼の名前はこのときだけ歴史上に登場する。


 吉井幸輔なんかは、坂本竜馬のともだちみたいなものであり、のちに「えらい人」になるのだが、大塚敬介くんは、その後ちっとも姿を見せないので、大塚氏らしいといえば大塚氏らしい。

 
 歴史の一ページにちょっとだけ「いっちょ噛み」しながら、けしてメジャーにはなれないのが、わが大塚氏の運命なのかもしれない。



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