2013年12月29日日曜日

<17-1>【第三グループ】福岡黒田藩士大塚氏 官兵衛ちゃんと武蔵くん

 これまでの記事で、福岡県内における「大塚氏」のルーツについて、我が家の属する「久留米藩」系統以外にも、別の流れがあることがわかってきた。

 現在の福岡県内における「大塚」さんの居住状況・分布とも合致するが、「福岡黒田藩」(ならびに同族の「秋月藩」)を中心にした黒田家臣の「大塚氏」について調べてみたい。




 □ 第一話【官兵衛ちゃん】



 まず、この話の主人公は、2014年の大河ドラマの主役「黒田官兵衛」その人である。


 NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」
 http://www9.nhk.or.jp/kanbe/


 僕も、まさかうちの家系調査から話がそんなところへ飛ぶとは思ってもいなかったので、驚いているのだが、こりゃ、来年は大河を見まくらなくてはなるまい!

 
 僕の解説より先に、NHK大河ドラマの人物相関表をみていただくのが早いので、リンクしておこう。


 「軍師官兵衛」人物相関図
 http://www9.nhk.or.jp/kanbe/cast/index.html


 簡単に言えば、黒田官兵衛という人は、「赤松支流の小寺氏」とものすごく関係が深い。つまり、黒田家は、赤松家と関わり、その絡みで「大塚氏」とも接点がある、というわけだ。

 

 黒田官兵衛の経歴は、彼の祖父の時代に備前国から播磨に入ったことに始まり、黒田氏は、まず「赤松晴政」に仕えている。晴政は永生年間から永禄年間にかけて赤松家の当主(本流)であり、播磨・備前・美作の守護を務めた。



 孫の官兵衛の代になると、次に赤松家分家の「小寺政職」に仕えることになる。小寺臣下としての黒田氏は重臣として重用され、姫路城を守らせたり、姻戚関係を結んで黒田氏の一部に「小寺姓」を名乗らせたり、橘紋を与えたりしている。
(小寺氏はのちに信長に滅ぼされ、小寺氏が逆に福岡藩黒田臣下として生き延びることとなる)


 さて、姫路城に入っていた官兵衛は、信長・秀吉軍の播州戦に対して服従し、姫路城を秀吉に使わせるなどで織田軍に服するようになる。のち、別所氏や主君の政職などが三木合戦の結果滅びることで、完全に秀吉の部下となり、自分は「黒田」姓を名乗るようになる。


 のち豊前国主として九州へ赴任、子の黒田長政がおなじ九州の筑前福岡藩に転封になることで、福岡藩当主としての黒田家は、幕末まで続くことになるのである。


 官兵衛の子、長政についても見てゆこう。播磨姫路城で生まれた長政は、織田家臣として近江で過ごすが、のち播磨へ戻る。その後河内国を与えられるが、すぐ九州討伐へ向かい軍功により豊前国中津を与えられ、のち筑前福岡藩の初代当主になる。


 ちなみに、長政が中津城を作った山は、「大塚山」と呼ばれており、大塚山の旧塁(昔の城)を基にして「丸山城」の名で築城。のち中津城となっている。中津の「大塚姓」はこの地に関わりがあると思われる。


 
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 このように、基本的に福岡藩における「大塚氏」は、我が一族とおなじく「赤松支流」であり、戦国時代の播磨地域において、群雄が割拠する中で、黒田氏に従っていったものと考えられる。

 実際、久留米藩においても、有馬家臣の「小寺氏」や、三木の豪族「淡河氏」の名前が分限帳にあることから、播磨一帯の中小武家は、有馬氏や黒田氏に取り込まれながら命を繋いでいったのであろう。



 福岡藩の大塚氏について、いくつかピックアップしておこう。


 
 「福岡藩士分限帳」をご覧になった行政書士の方のサイトでは、黒田氏家臣に「大塚姓」が見えることがわかる。

 
 「武士の先祖探し・家系図作成中」 さんのサイトより





 また、九州歴史資料館の「福岡藩関係資料」の中に、「弓頭江尋」という文書があり、作成者として大塚夘兵衛の名がある。

 また、「家筋申図控」には筑紫氏・小川氏などと並んで大塚氏の家臣系図も記されている。

 
 九州歴史資料館  http://www.fsg.pref.fukuoka.jp/kyureki/




★福岡藩内の「大塚さん」の家紋を知りたいです。誰か教えて~。

 
(この章つづく)

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