これまでの調査で、福岡県と兵庫県の「大塚姓」のルーツとして「赤松支流大塚氏」のことがかなり明らかになってきたように思う。
しかし、だとしても肝心なことがまだ不明瞭である。それは、「赤松から大塚へ」の分岐点である。
赤松氏の勢力は絶大であったため、その影響力も膨大、多岐に渡っている。
「赤松三十六家」なる言葉があり、赤松から分れ出たたくさんの分家が、また新しい姓を名乗っているが、残念ながら「大塚氏」は赤松三十六家には含まれていない。
福岡黒田藩と関わりの深い「小寺」氏や、久留米藩「有馬」氏、また三木市周辺に勢力があった「別所」氏など、赤松氏との系統が比較的はっきりしている氏族に対して、どうしても「大塚」の出自証明は弱いと言わざるを得ない。
あるいはまた「赤松八十八家」なることばもある。こちらは厳密に88家を数えているというよりは、「それくらいたくさんの庶流があるよ」という比喩に近いものだと考えられるから、とにかく赤松系を「名乗る」氏族は多いのである。
しかし、赤松氏の勢力にあやかって「後だしジャンケンで『うちも赤松系に混ぜてよ』」と後世名乗った氏族よりは、どうも早くから赤松の支配下にあったような気配がする。
それは、室町時代から「大塚」の名が見えることや、有馬氏・小寺氏などの有力な赤松氏の臣下として、ちょこちょこいろんな所に姿を見せていることからも伺える。
簡単に言えば、赤松が多様に分流する以前の初期段階から、「大塚氏」は赤松氏に従っていたと考えられるのである。
だとすれば、可能性はいくつかある。
① 血縁上も赤松氏であるが、何かの理由によってその裏づけとなる記録が残っていない。
② 早い段階で赤松の臣下に下った地方豪族(播磨国)であり、血縁が薄い。
大きくは、この2つの理由が考えられないだろうか。
大塚氏は、赤松・有馬・小寺各家において、家老などの重鎮クラスではない。しかし、黒田家でも、有馬家でも「親衛隊クラス」「中堅家臣クラス」ぐらいには置かれている。
これを「古くからの赤松さんだけど、傍流だった」とみるか、「古くからの家来だった」と見るかは、微妙なところである。
「寛政重修諸家譜」をまとめる際に、各家からデータを中央へ吸い上げたわけだが、基本的には各家の申し出を信じるしかないため、いわゆるDNA的な正確さがあるわけではない。
歴代の大塚家の人間にとっては、史実上の「正解」は赤松氏の血縁であったろうが、事実は単なる赤松氏に「あっという間に負けてしまった」一族であると解することもできる。
そこで、僕は播磨に向かったわけである。
0 件のコメント:
コメントを投稿