2013年12月29日日曜日

<17-2>【第三グループ】福岡黒田藩士大塚氏 官兵衛ちゃんと武蔵くん

(前記事よりつづく)


□ 第二話 【武蔵くん】

 
 剣豪、宮本武蔵は播磨国の生まれである。

 父が関が原以前から黒田家に仕官していたという文書が残っているため、武蔵も関が原の合戦時には、黒田官兵衛の下で従軍したと考えられている。

 ところが、さすがは剣豪武蔵である。そのまま福岡藩に留まっていた、となれば話は簡単なのだが、ともかくその後はあんなことやこんなことがあって、あっちへいったりこっちへいったり、あっちをうろうろこっちをうろうろしている。

 
 そうこうして、最終的には、武蔵の剣術「二天一流」は、弟子たちに受け継がれることになるのだが、主に晩年を過ごした肥後熊本藩、そして、孫弟子「柴任三左衛門」のおかげで黒田福岡藩に伝えられることとなったわけである。

 ウィキペディアより 柴任三左衛門 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B4%E4%BB%BB%E4%B8%89%E5%B7%A6%E8%A1%9B%E9%96%80
 
 
 さて、ここから大塚氏の登場である。福岡藩に伝えられた二天一流は、その後「立花家」「大塚家」「林家」に伝えられて、幕末に至った。

(ちなみに、肥後熊本藩の二天一流においても、別の「大塚氏」がワザを伝承されているのだが、それはまた別途解説したい)


福岡藩の二天一流の系譜は、


「宮本武蔵」 さんのサイトに特に詳しい。

THE MUSASHI http://www.geocities.jp/themusasi2g/gorin/gs00.html


 なんといっても、上の項では武蔵の「五輪書」の伝達状況なんかも示されているので、その中で福岡藩大塚氏が残した書物なんかについても説明されている。


 とにかくである。福岡藩の大塚氏は、うちなんかより、はるかに凄そうなのだ。

 さもありなん。この一連の調査で判明したことは、おなじ武家でありながら、

 うちは事務屋(竹ノ間組)

だったのだから(苦笑)

 むこうはバリバリの武術家たちだから、そりゃあ実力が違うというものである。


 さて、というわけで、福岡県内の大塚氏は、これでおおむね判明終了、ということになる。


 次回以降は、また別の観点でお話を進めていこう。

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