先日より意気消沈していた私であるが、とても嬉しいことに三潴地域の「大塚」姓について知っておられる方からご連絡をいただき、かなり貴重な情報を教えてもらうことができた。
なんでも、三潴地域に「下がり藤に抱き茗荷」の家紋を持つ大塚氏がおられる、とのことで、その一族も、わが実家と同様に「武家」である、あるいは藩主に近しい立場だったとの伝承を持っておられるとのことだった。
ぶっちゃけ、とても嬉しくて泣きそうである。
というのも、少なくとも数百年の時空を超えて、かつての親族や血の繋がったどなたかとこうして交流できるということは、素晴らしいことだと思うからだ。
そして、全然ルーツの異なる「大塚さん」たちがメールを下さることも、すごいことだと思う。なんと言っても、
赤の他人
なのに、ただ苗字が同じというだけで、交流しあえるなんて、凄いことではないか。
インターネット全盛の時代において、離れた他者と交流することは簡単だが、こうして姓・氏や家紋で繋がることができるというのも、日本の素晴らしいところだと思う。
「mix氏」とか「家紋book」とか、苗字家紋別ソーシャルネットワークを作ってもいいほどである。
さて、「下がり藤に抱き茗荷」の家紋だが、後藤将監から大塚将監への改名のことを考えると、藤紋から抱き茗荷の接点といえなくもないので、
非常に気になる!
ところではあるが、もう少し慎重に調査を進めようと心に決めたのであった。(一喜一憂して、喜ぶと、落ち込んだときかなり凹むから)
ところで、下がり藤抱き茗荷の大塚さんたちにも気になるところの、久留米藩における「大塚氏」の立ち位置が少しだけ判明したので報告しておきたい。
またもや国立国会図書館の近代デジタルライブラリーより、
「久留米市誌 別冊」の巻に、久留米城下の絵図があったので紹介する。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1209649
写真をめくっていかなくてはいけないので大変だが、コマ数でいえば「56~59コマ」を見てほしい。
これが江戸時代天保期の久留米城下の地図で、城をはじめ藩士たちの居宅が書いてあるのである。
(実は、該当の文書には他の時代の地図も収録されているのだが、解像度の関係で見難いので、ここでは天保時代の地図を読んでみる)
コマで言えば、58コマをズームして見てほしい。
久留米城本丸御殿から、下に向かって見ていくと、重臣たちの居宅が区割りで描いてあるのがわかると思う。
その下の島が、上級家臣の居宅であり、ここには、右からざっくりさらっていくと、もちろん「有馬」をはじめ「淡河」「小河」「本庄」などの、このブログではおなじみの
赤松系苗字
が散らばっている。
そして、その堀を挟んで一周外側に「大塚」氏の居宅があるのがわかるだろうか。
(城から見るとななめ左下)
道を挟んで向かいには「赤松」の苗字も見える。
敷地の広さと城への近さから考えて、このあたりが中~上級家臣の邸宅で、おそらくこの大塚氏が「竹ノ間組」格の大塚家であろうと推測できる。
もう一軒、59コマの中央のごちゃごちゃした辺り、中・下級藩士の居宅として「獄屋」の左あたりに「大塚」氏の居宅がある。これが、中小姓格か、徒士格の大塚氏のものと考えられよう。
(大塚の書き方が、「塚大」と右からかいてあるので注意)
こうしてみると、久留米藩分限帳の記載と概ね一致することがわかるのだ。
もちろん、我々は久留米城下でなく、離れた場所に実家があるので、「彼らの子孫」ということだけしか言えないのであるが、それでも、いちおう
ご先祖さまが住んでいた場所
がわかっただけでも、嬉しいというものだ。
というより、現在の久留米市の同じ場所に「大塚さん」が住んでいたらどうしよう?!
そんなことを想像したら、ドキドキしてしまうと同時に、本家本元長男の家系であろうから、我々末端の者は、ちいさく柱の陰から見るだけにしておこう。
<追記>
その後、前述の方より連絡があり、より詳しくは、「下がり藤の大塚氏」であり、「抱き茗荷」の家との婚姻で「下がり藤抱き茗荷」が生まれたとの旨、お知らせいただいた。
合体系の家紋は、後世になって何らかの由来で成立した可能性が高いため、そうした「いわれ」がはっきりわかるのは、とても貴重なことと思う。
しかしながら、当ブログ的には、後藤氏-大塚氏の線を念頭に置いているので、これもやっぱり貴重な情報である。
後藤将監あらため大塚将監が「下がり藤」であったとすれば、「下がり藤の大塚氏」がいてもおかしくないし、やはり播磨と筑後の接点と考えられるからである。
2014年2月5日水曜日
2013年12月31日火曜日
<21>【1】三木市大塚地区を訪ねて
実のところ、我が「赤松支流大塚氏」のルーツとして、個人的にいちばん「あやしい?!」と睨んでいるのが、この三木市大塚地区である。
兵庫県三木市大塚、はなんとウィキペディアにわざわざ一項を立てて下さっているくらい有名?!な地域で、ざっくりとした解説はそちらをご参照いただきたい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%A1%9A_(%E4%B8%89%E6%9C%A8%E5%B8%82)
この三木市大塚地区は、今は三木市役所となっている「三木城」跡のほど近くの地域であり、古くは播磨国久留美庄に属し、もと美嚢郡三木町にある。
この大塚地区、なぜ「大塚」と呼ばれているのかはよくわかっていない。もちろん、古墳があったとか、「王塚(王の墓)」があったとか、いろんな由来らしきものは残っているらしいが、決定的に現存しているものがないため、理由が不詳である。
また、この大塚地区に大塚さんはほとんど住んでいない。不思議といえば不思議だが、「この大塚地区から大塚氏が出た」といった伝承も全然残っていない。
つまり、三木大塚と「大塚氏」の関係性は記録にはぜーんぜん残っていないのだが、そこかしこに「ほのかな香り」が残っているのが興味深い。
まず、室町時代から探ってみよう。
三木一帯は、赤松家臣団の中でも有力であった「別所氏」が治め、三木城を建てた。別所氏は赤松氏の血縁分家ではないが、家臣としては高い地位にある、いちおう赤松軍団のメンバーである。
ところが、赤松軍団はでっかくなりすぎた故に、戦国時代になるといろんなしがらみや考え方から、敵味方に分かれるようになる。
最終的に、別所氏は、「織田軍」に敵対するようになり、三木城は「豊臣秀吉」によって、兵糧攻めに逢って滅びてしまう。
この戦いは「三木合戦」として有名で、もちろん当ブログにおいても、このネタはもう少し後まで引っ張ることになる。
三木合戦 ウィキペディアより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9C%A8%E5%90%88%E6%88%A6
さて、この三木城のとなりが「久留美庄」で、そのとなりが「淡河」という地域なのだが、赤松軍団が内紛している戦国時代には、あの有馬氏の分家が秀吉の部下となって「淡河城」に入り、ひっきりなしに「三木城」を落とすべく頑張っているが、うまくいかなかったので、秀吉が乗り込んだという経緯がある。
久留米藩分限帳には、「大塚」以外に「小寺」や「淡河」といった家臣の名が見えることから、三木大塚が「大塚氏」にゆかりがある、といってもあながち見当違いではないようにも思われる。
そう、有馬氏は美嚢郡と関わりが深いのだ。
========
さて、もうひとつ僕が個人的に「大塚=三木大塚」の関わりについて気になっているポイントがある。
それは、この地の寺のことだ。
三木大塚からほど近くの、志染町に今でも残っている645年開基といわれる「伽耶院(がやいん)」という古刹があるのだが、ここが天台系修験道の寺院として有名なのである。
また、現存しないが、別に「高男寺(こうなんじ)」という天台宗の寺もあったという。(地名だけが残っている)
さらに、現在は曹洞宗だが、三木上の丸にある「雲龍寺」も天台宗の僧が開祖だという。
天台宗といえば、「抱き茗荷」である。
三木城を中心とした範囲は、めちゃくちゃ天台系の影響力が強い。ここが「大塚氏」の源流だとすれば、「抱き茗荷」紋の採用とも、整合性がある。
しかし、残念なことにそういったことの裏づけが何にも残っていないのである。
========
その大きな理由は、さっきも出てきた「三木合戦」だ。
秀吉はとにかく、三木城を落とすためにそこらへんに砦を築きまくり、その砦を作るために、そこらへんの寺院を焼き払った。
「伽耶院」も三木合戦の折に焼失、後々になってからの再建であり、「高男寺」は完全に消失。「雲龍寺」も秀吉のせいで「焼失」のち再建されたのである。
簡単に言えば、巨神兵のごとく、秀吉の猛火は、あたり一帯の歴史的遺構を
「やきはらえ!」
「なぎはらえ!」
してしまったのである。
だから、三木城周辺の寺社は、すべて三木城落城後の「再建」ばっかりなのである。
大塚氏の形跡がまったくこの地に残っていないのは、あるいは秀吉のせいかと疑ってしまう。
・・・・・・サルめ!
兵庫県三木市大塚、はなんとウィキペディアにわざわざ一項を立てて下さっているくらい有名?!な地域で、ざっくりとした解説はそちらをご参照いただきたい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%A1%9A_(%E4%B8%89%E6%9C%A8%E5%B8%82)
この三木市大塚地区は、今は三木市役所となっている「三木城」跡のほど近くの地域であり、古くは播磨国久留美庄に属し、もと美嚢郡三木町にある。
この大塚地区、なぜ「大塚」と呼ばれているのかはよくわかっていない。もちろん、古墳があったとか、「王塚(王の墓)」があったとか、いろんな由来らしきものは残っているらしいが、決定的に現存しているものがないため、理由が不詳である。
また、この大塚地区に大塚さんはほとんど住んでいない。不思議といえば不思議だが、「この大塚地区から大塚氏が出た」といった伝承も全然残っていない。
つまり、三木大塚と「大塚氏」の関係性は記録にはぜーんぜん残っていないのだが、そこかしこに「ほのかな香り」が残っているのが興味深い。
まず、室町時代から探ってみよう。
三木一帯は、赤松家臣団の中でも有力であった「別所氏」が治め、三木城を建てた。別所氏は赤松氏の血縁分家ではないが、家臣としては高い地位にある、いちおう赤松軍団のメンバーである。
ところが、赤松軍団はでっかくなりすぎた故に、戦国時代になるといろんなしがらみや考え方から、敵味方に分かれるようになる。
最終的に、別所氏は、「織田軍」に敵対するようになり、三木城は「豊臣秀吉」によって、兵糧攻めに逢って滅びてしまう。
この戦いは「三木合戦」として有名で、もちろん当ブログにおいても、このネタはもう少し後まで引っ張ることになる。
三木合戦 ウィキペディアより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9C%A8%E5%90%88%E6%88%A6
さて、この三木城のとなりが「久留美庄」で、そのとなりが「淡河」という地域なのだが、赤松軍団が内紛している戦国時代には、あの有馬氏の分家が秀吉の部下となって「淡河城」に入り、ひっきりなしに「三木城」を落とすべく頑張っているが、うまくいかなかったので、秀吉が乗り込んだという経緯がある。
久留米藩分限帳には、「大塚」以外に「小寺」や「淡河」といった家臣の名が見えることから、三木大塚が「大塚氏」にゆかりがある、といってもあながち見当違いではないようにも思われる。
そう、有馬氏は美嚢郡と関わりが深いのだ。
========
さて、もうひとつ僕が個人的に「大塚=三木大塚」の関わりについて気になっているポイントがある。
それは、この地の寺のことだ。
三木大塚からほど近くの、志染町に今でも残っている645年開基といわれる「伽耶院(がやいん)」という古刹があるのだが、ここが天台系修験道の寺院として有名なのである。
また、現存しないが、別に「高男寺(こうなんじ)」という天台宗の寺もあったという。(地名だけが残っている)
さらに、現在は曹洞宗だが、三木上の丸にある「雲龍寺」も天台宗の僧が開祖だという。
天台宗といえば、「抱き茗荷」である。
三木城を中心とした範囲は、めちゃくちゃ天台系の影響力が強い。ここが「大塚氏」の源流だとすれば、「抱き茗荷」紋の採用とも、整合性がある。
しかし、残念なことにそういったことの裏づけが何にも残っていないのである。
========
その大きな理由は、さっきも出てきた「三木合戦」だ。
秀吉はとにかく、三木城を落とすためにそこらへんに砦を築きまくり、その砦を作るために、そこらへんの寺院を焼き払った。
「伽耶院」も三木合戦の折に焼失、後々になってからの再建であり、「高男寺」は完全に消失。「雲龍寺」も秀吉のせいで「焼失」のち再建されたのである。
簡単に言えば、巨神兵のごとく、秀吉の猛火は、あたり一帯の歴史的遺構を
「やきはらえ!」
「なぎはらえ!」
してしまったのである。
だから、三木城周辺の寺社は、すべて三木城落城後の「再建」ばっかりなのである。
大塚氏の形跡がまったくこの地に残っていないのは、あるいは秀吉のせいかと疑ってしまう。
・・・・・・サルめ!
2013年12月27日金曜日
<14>家紋が「抱き茗荷」な大塚氏は4グループある?!
わが家系のルーツが、「赤松支流大塚氏(家紋 抱き茗荷)」であることは、すでに判明した。
しかし、それは僕の直接の先祖を遡っていった道筋と、「寛政重修諸家譜」を中心にした古文書から逆に降りてきた道筋が一点で結び合わさったということにすぎない。
実は、この調査を進めてゆくうちに、広い意味での僕らの親族・一族に相当する「赤松支流大塚氏」には、少なくとも4つのグループというか分派というか、流れがあることがわかってきた。
【第一グループ】 赤松支流大塚氏 本流
赤松氏の家臣であったが、戦国時代を生き抜く間に、赤松一族から分かれて播磨に残った大塚氏。
【第二グループ】 赤松支流大塚氏 久留米藩所属 有馬軍団
有馬氏に姓を変えた赤松氏の家臣であり、播磨~摂津を経て、最終的に久留米藩へ移った大塚氏。
これがうちの家系である。
【第三グループ】 赤松支流大塚氏 福岡藩所属 黒田軍団
赤松家臣のうち、小寺家に仕えた大塚氏であり、今度の大河ドラマ「黒田官兵衛」の活躍のせいで福岡藩へ移った一族。宮本武蔵の武術流派である「二天一流」を継承する。
【第四のグループ】 それ以外の赤松支流大塚氏
播磨地域から外に出て、あるいは他の主君に仕えた赤松支流大塚氏。
★重要ポイント★
「寛政重修諸家譜」に掲載されている「赤松支流大塚氏」は、どれかわからない。
ただ、久留米藩家臣、福岡藩家臣の一家来に過ぎない弱小士族のことをわざわざ収録するとは思えないため、第一グループか、第四グループに当たると考えることもできる。
千鹿野茂さんの著作では「幕臣が出る」との記述があるから、第一もしくは第四グループから将軍家に入ったものがいる可能性がある。
残念ながら、現時点では、4つめのグループを確認できていないが、もし「自分も抱き茗荷の大塚姓で、これこれこういう経緯を持っているよ」という方がおられれば、ぜひお教えいただきたい。
さて、かくかくしかじかで、次回からは上の3つのグループに着目して話をまとめてみたい。
しかし、それは僕の直接の先祖を遡っていった道筋と、「寛政重修諸家譜」を中心にした古文書から逆に降りてきた道筋が一点で結び合わさったということにすぎない。
実は、この調査を進めてゆくうちに、広い意味での僕らの親族・一族に相当する「赤松支流大塚氏」には、少なくとも4つのグループというか分派というか、流れがあることがわかってきた。
【第一グループ】 赤松支流大塚氏 本流
赤松氏の家臣であったが、戦国時代を生き抜く間に、赤松一族から分かれて播磨に残った大塚氏。
【第二グループ】 赤松支流大塚氏 久留米藩所属 有馬軍団
有馬氏に姓を変えた赤松氏の家臣であり、播磨~摂津を経て、最終的に久留米藩へ移った大塚氏。
これがうちの家系である。
【第三グループ】 赤松支流大塚氏 福岡藩所属 黒田軍団
赤松家臣のうち、小寺家に仕えた大塚氏であり、今度の大河ドラマ「黒田官兵衛」の活躍のせいで福岡藩へ移った一族。宮本武蔵の武術流派である「二天一流」を継承する。
【第四のグループ】 それ以外の赤松支流大塚氏
播磨地域から外に出て、あるいは他の主君に仕えた赤松支流大塚氏。
★重要ポイント★
「寛政重修諸家譜」に掲載されている「赤松支流大塚氏」は、どれかわからない。
ただ、久留米藩家臣、福岡藩家臣の一家来に過ぎない弱小士族のことをわざわざ収録するとは思えないため、第一グループか、第四グループに当たると考えることもできる。
千鹿野茂さんの著作では「幕臣が出る」との記述があるから、第一もしくは第四グループから将軍家に入ったものがいる可能性がある。
残念ながら、現時点では、4つめのグループを確認できていないが、もし「自分も抱き茗荷の大塚姓で、これこれこういう経緯を持っているよ」という方がおられれば、ぜひお教えいただきたい。
さて、かくかくしかじかで、次回からは上の3つのグループに着目して話をまとめてみたい。
2013年12月24日火曜日
<6>紛れもない「抱き茗荷」紋
”我が大塚家の家紋は、口伝では「抱き茗荷」と伝えられているが、実際は「抱き杏葉」かもしれない。”
とまあ、そんな仮説をもとに考えていた、「大塚家-立花家-大友家」の関係であったが、その真実は意外にあっさりと解決することになった。
というのも、父親の長兄(僕にとっては伯父である)が亡くなったおり、一家で葬儀に参列した際、実際にかの「墓所」へ確認しに行ったからである。
※「墓所」というのは、http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2013/12/blog-post_21.htmlで説明した大塚家の墓のことである。
僕も実際に確認するまで気がつかなかったのだが、確かに墓所の中心の大きな墓石には、家紋の刻印が彫りこんである。
「ああ、やっぱり『抱き茗荷』に間違いないわ」
とその場にいた、僕も父も弟も同意した。風雨にさらされて多少角がとれてはいるものの、刻印が判別できないほどではなく、まぎれもなく「抱き茗荷」のデザインがそこにあった。
僕らは念のため紙と鉛筆を持ってきていて、その場で拓本を取り、もちろんデジカメで写真を撮って持って帰った。
この刻印が
「紛れもなく、抱き茗荷」
であることが示す事実はひとつである。それは、我が家の家紋は「杏葉」紋と混同されてはいない、ということに他ならない。
たしかに、前回引用した立花家の説明においても、杏葉紋を「茗荷紋」と間違えて読むことはあっても、家紋のデザインそのものが混乱したり誤用されたりしたことはない、とのことであるから、この時点で、杏葉系の氏族とは無関係であることが確定したわけである。
九州に一大勢力を築いた「大友」氏・家との関わりは、一旦否定せざるを得ない。となれば、必然的に、いくら柳川藩が近くにあるとはいえ、立花家の「抱き杏葉」紋とも偶然似ていただけ、ということになるわけだ。
つまり、ある意味我が家のルーツ探しが振り出しに戻ってしまったような感じになったのである。
★コラム★ 抱き茗荷紋を知る
あなたのお家の家紋が「抱き茗荷」だった時に、読むと面白いサイトをいくつか紹介しておきます。
☆「播磨屋」さんのページより
http://www.harimaya.com/o_kamon1/yurai/a_yurai/pack2/myouga.html
戦国武将と家紋について、膨大なデータベースと解説をお持ちの「播磨屋」さんのサイトは、家紋調べの入門編としてたいへん役に立ちます。
☆きもの屋さん「みなぎ」さんのページより
http://minagi.p-kit.com/page136576.html
茗荷紋の変種がたくさん掲載されています。基本的にシンプルな家紋が古い紋で、それからどんどん装飾が増えたり、他の形と組み合わさって新しい紋が出来上がるようになります。
紋を少しずつ変えることで、「本家とは違う分家だよ」等、オリジナルとの違いを示すことができるからです。
☆「民のかまどはにぎはひにけり」ブログさんより
http://dakimyouga111111.blog.fc2.com/blog-entry-50.html
http://dakimyouga111111.blog.fc2.com/blog-entry-51.html
茗荷紋は、摩多羅神という天台密教系の神様の信仰と深い関わりがある、ということは、いろんなサイトでも説明されているのですが、ちょっと詳しい突っ込んだ記述がありましたのでご紹介。
実は僕は、大学時代この「摩多羅神」を祀った謎の奇祭を見たことがあります。大学時代、下宿アパートが京都太秦の広隆寺の近くにありましたので、
「太秦の牛祭り」
を見に行ったことがあるのです。
詳しくは、
☆「摩多羅神は何処から来たのか」さんのサイトより
http://hwbb.gyao.ne.jp/akione-pg/Japanese/Frame_N_J.html
に説明があるので、ご興味のある方はどうぞ!
とまあ、そんな仮説をもとに考えていた、「大塚家-立花家-大友家」の関係であったが、その真実は意外にあっさりと解決することになった。
というのも、父親の長兄(僕にとっては伯父である)が亡くなったおり、一家で葬儀に参列した際、実際にかの「墓所」へ確認しに行ったからである。
※「墓所」というのは、http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2013/12/blog-post_21.htmlで説明した大塚家の墓のことである。
僕も実際に確認するまで気がつかなかったのだが、確かに墓所の中心の大きな墓石には、家紋の刻印が彫りこんである。
「ああ、やっぱり『抱き茗荷』に間違いないわ」
とその場にいた、僕も父も弟も同意した。風雨にさらされて多少角がとれてはいるものの、刻印が判別できないほどではなく、まぎれもなく「抱き茗荷」のデザインがそこにあった。
僕らは念のため紙と鉛筆を持ってきていて、その場で拓本を取り、もちろんデジカメで写真を撮って持って帰った。
この刻印が
「紛れもなく、抱き茗荷」
であることが示す事実はひとつである。それは、我が家の家紋は「杏葉」紋と混同されてはいない、ということに他ならない。
たしかに、前回引用した立花家の説明においても、杏葉紋を「茗荷紋」と間違えて読むことはあっても、家紋のデザインそのものが混乱したり誤用されたりしたことはない、とのことであるから、この時点で、杏葉系の氏族とは無関係であることが確定したわけである。
九州に一大勢力を築いた「大友」氏・家との関わりは、一旦否定せざるを得ない。となれば、必然的に、いくら柳川藩が近くにあるとはいえ、立花家の「抱き杏葉」紋とも偶然似ていただけ、ということになるわけだ。
つまり、ある意味我が家のルーツ探しが振り出しに戻ってしまったような感じになったのである。
★コラム★ 抱き茗荷紋を知る
あなたのお家の家紋が「抱き茗荷」だった時に、読むと面白いサイトをいくつか紹介しておきます。
☆「播磨屋」さんのページより
http://www.harimaya.com/o_kamon1/yurai/a_yurai/pack2/myouga.html
戦国武将と家紋について、膨大なデータベースと解説をお持ちの「播磨屋」さんのサイトは、家紋調べの入門編としてたいへん役に立ちます。
☆きもの屋さん「みなぎ」さんのページより
http://minagi.p-kit.com/page136576.html
茗荷紋の変種がたくさん掲載されています。基本的にシンプルな家紋が古い紋で、それからどんどん装飾が増えたり、他の形と組み合わさって新しい紋が出来上がるようになります。
紋を少しずつ変えることで、「本家とは違う分家だよ」等、オリジナルとの違いを示すことができるからです。
☆「民のかまどはにぎはひにけり」ブログさんより
http://dakimyouga111111.blog.fc2.com/blog-entry-50.html
http://dakimyouga111111.blog.fc2.com/blog-entry-51.html
茗荷紋は、摩多羅神という天台密教系の神様の信仰と深い関わりがある、ということは、いろんなサイトでも説明されているのですが、ちょっと詳しい突っ込んだ記述がありましたのでご紹介。
実は僕は、大学時代この「摩多羅神」を祀った謎の奇祭を見たことがあります。大学時代、下宿アパートが京都太秦の広隆寺の近くにありましたので、
「太秦の牛祭り」
を見に行ったことがあるのです。
詳しくは、
☆「摩多羅神は何処から来たのか」さんのサイトより
http://hwbb.gyao.ne.jp/akione-pg/Japanese/Frame_N_J.html
に説明があるので、ご興味のある方はどうぞ!
2013年12月23日月曜日
<5>家紋の怪 ~抱き茗荷は二つある~
「そういえば、えらい大事なことを忘れていた!」
それを思い出したのは、福岡旅行から帰ってしばらくのことであった。そういえば、かねてより父親から聞いてはいたのだが、これまた漠然と右の耳から左の耳に抜けていただけで、改まって意識したことのない、でも大切なポイントである。
そう、それは我が家の家紋についてであった。
父親によれは、うちの家紋は、
「抱き茗荷」
であるという。
ところが、言葉では知っていたものの、それがどんな紋であるのかは、インターネットを見て後から知ったくらいで、ああ、お恥ずかしい限りである。
それもそのはずで、うちの父親はすでに実家を出て何年も経っているので、だいたい家紋の入った何かを持っているはずもなく、今時正装する機会もなければ、末っ子の父だから紋付を持っているわけでもない。
正規の家紋がついた所持品が何一つないわけだから、僕らが見たことがないのも当然と言わざるを得ない。
そこで、僕の中では、「うちの家紋は抱き茗荷」という言葉だけが記憶に残ることになり、そしてこの言葉によって、結構苦しめられちゃうことになるのである。
そう、「抱き茗荷」は歴史上稀に見るややこしい家紋でもあるのだ。
抱き茗荷とは、こんな家紋である。
(引用元 ウィキペディアより http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Japanese_crest_daki_Myouga.svg)
「抱き茗荷」紋は日本の十大家紋に入っているので、メジャーなほうの家紋らしいのだが、実はこれにそっくりな紋がもう一つあって、よくその紋と混同されることが多い。
それが「抱き杏葉」紋であり、そっちはこんなデザインになっている。
(引用元 ウィキペディアより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Japanese_Crest_Daki_hana_Gyouyou.svg)
調べていくと、この「抱き茗荷・抱き杏葉」はどんどん深みに入っていくようなややこしさを持っている家紋だということがわかってきた。
まず、形が似ているので、「抱き杏葉」の家紋を持っている家でも、その呼び名を「抱き茗荷」だということがあるという。
このあたり、わかりやすい説明をしてくれているのが、前回登場した柳川藩当主「立花家」のサイトである。
立花家十七代が語る立花宗茂と柳川 「杏葉紋のこと」
http://www.muneshige.com/column/05.html
この説明によると、もともと杏葉紋は豊後の戦国大名「大友家」が用いており、そこから肥前佐賀「鍋島家」が用いるようになった、という。
そして、大友家軍団は、大友家からこの紋を用いる許可を与えられたので、(それを同紋衆というらしい)、柳川の「立花家」でも杏葉紋を用いるようになったとのこと。
ついでに江戸時代を通じて、杏葉紋なのに「抱き茗荷」だと混同する例も多く、ややこしいなあ、と率直に思わざるを得ないのである。
このあたりから、僕は当初大きな誤解をしてしまう。この誤った推測というのはこうだ。
「大塚家も、もしかしたら大友家の支配下にあって、それゆえに抱き茗荷紋を使うようになったのではないか?だとすれば、そもそも柳川藩の支配地域であったこととも繋がってくる。大友-立花-の流れと大塚家の関係性があるのではないか?」
そんな仮説から追っていったルーツ探しだったが、結果としてはNOだった。
なぜか?!それは、後に一発で覆される仮説だったからである。
それを思い出したのは、福岡旅行から帰ってしばらくのことであった。そういえば、かねてより父親から聞いてはいたのだが、これまた漠然と右の耳から左の耳に抜けていただけで、改まって意識したことのない、でも大切なポイントである。
そう、それは我が家の家紋についてであった。
父親によれは、うちの家紋は、
「抱き茗荷」
であるという。
ところが、言葉では知っていたものの、それがどんな紋であるのかは、インターネットを見て後から知ったくらいで、ああ、お恥ずかしい限りである。
それもそのはずで、うちの父親はすでに実家を出て何年も経っているので、だいたい家紋の入った何かを持っているはずもなく、今時正装する機会もなければ、末っ子の父だから紋付を持っているわけでもない。
正規の家紋がついた所持品が何一つないわけだから、僕らが見たことがないのも当然と言わざるを得ない。
そこで、僕の中では、「うちの家紋は抱き茗荷」という言葉だけが記憶に残ることになり、そしてこの言葉によって、結構苦しめられちゃうことになるのである。
そう、「抱き茗荷」は歴史上稀に見るややこしい家紋でもあるのだ。
抱き茗荷とは、こんな家紋である。
(引用元 ウィキペディアより http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Japanese_crest_daki_Myouga.svg)
「抱き茗荷」紋は日本の十大家紋に入っているので、メジャーなほうの家紋らしいのだが、実はこれにそっくりな紋がもう一つあって、よくその紋と混同されることが多い。
それが「抱き杏葉」紋であり、そっちはこんなデザインになっている。
(引用元 ウィキペディアより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Japanese_Crest_Daki_hana_Gyouyou.svg)
調べていくと、この「抱き茗荷・抱き杏葉」はどんどん深みに入っていくようなややこしさを持っている家紋だということがわかってきた。
まず、形が似ているので、「抱き杏葉」の家紋を持っている家でも、その呼び名を「抱き茗荷」だということがあるという。
このあたり、わかりやすい説明をしてくれているのが、前回登場した柳川藩当主「立花家」のサイトである。
立花家十七代が語る立花宗茂と柳川 「杏葉紋のこと」
http://www.muneshige.com/column/05.html
この説明によると、もともと杏葉紋は豊後の戦国大名「大友家」が用いており、そこから肥前佐賀「鍋島家」が用いるようになった、という。
そして、大友家軍団は、大友家からこの紋を用いる許可を与えられたので、(それを同紋衆というらしい)、柳川の「立花家」でも杏葉紋を用いるようになったとのこと。
ついでに江戸時代を通じて、杏葉紋なのに「抱き茗荷」だと混同する例も多く、ややこしいなあ、と率直に思わざるを得ないのである。
このあたりから、僕は当初大きな誤解をしてしまう。この誤った推測というのはこうだ。
「大塚家も、もしかしたら大友家の支配下にあって、それゆえに抱き茗荷紋を使うようになったのではないか?だとすれば、そもそも柳川藩の支配地域であったこととも繋がってくる。大友-立花-の流れと大塚家の関係性があるのではないか?」
そんな仮説から追っていったルーツ探しだったが、結果としてはNOだった。
なぜか?!それは、後に一発で覆される仮説だったからである。
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