”我が大塚家の家紋は、口伝では「抱き茗荷」と伝えられているが、実際は「抱き杏葉」かもしれない。”
とまあ、そんな仮説をもとに考えていた、「大塚家-立花家-大友家」の関係であったが、その真実は意外にあっさりと解決することになった。
というのも、父親の長兄(僕にとっては伯父である)が亡くなったおり、一家で葬儀に参列した際、実際にかの「墓所」へ確認しに行ったからである。
※「墓所」というのは、http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2013/12/blog-post_21.htmlで説明した大塚家の墓のことである。
僕も実際に確認するまで気がつかなかったのだが、確かに墓所の中心の大きな墓石には、家紋の刻印が彫りこんである。
「ああ、やっぱり『抱き茗荷』に間違いないわ」
とその場にいた、僕も父も弟も同意した。風雨にさらされて多少角がとれてはいるものの、刻印が判別できないほどではなく、まぎれもなく「抱き茗荷」のデザインがそこにあった。
僕らは念のため紙と鉛筆を持ってきていて、その場で拓本を取り、もちろんデジカメで写真を撮って持って帰った。
この刻印が
「紛れもなく、抱き茗荷」
であることが示す事実はひとつである。それは、我が家の家紋は「杏葉」紋と混同されてはいない、ということに他ならない。
たしかに、前回引用した立花家の説明においても、杏葉紋を「茗荷紋」と間違えて読むことはあっても、家紋のデザインそのものが混乱したり誤用されたりしたことはない、とのことであるから、この時点で、杏葉系の氏族とは無関係であることが確定したわけである。
九州に一大勢力を築いた「大友」氏・家との関わりは、一旦否定せざるを得ない。となれば、必然的に、いくら柳川藩が近くにあるとはいえ、立花家の「抱き杏葉」紋とも偶然似ていただけ、ということになるわけだ。
つまり、ある意味我が家のルーツ探しが振り出しに戻ってしまったような感じになったのである。
★コラム★ 抱き茗荷紋を知る
あなたのお家の家紋が「抱き茗荷」だった時に、読むと面白いサイトをいくつか紹介しておきます。
☆「播磨屋」さんのページより
http://www.harimaya.com/o_kamon1/yurai/a_yurai/pack2/myouga.html
戦国武将と家紋について、膨大なデータベースと解説をお持ちの「播磨屋」さんのサイトは、家紋調べの入門編としてたいへん役に立ちます。
☆きもの屋さん「みなぎ」さんのページより
http://minagi.p-kit.com/page136576.html
茗荷紋の変種がたくさん掲載されています。基本的にシンプルな家紋が古い紋で、それからどんどん装飾が増えたり、他の形と組み合わさって新しい紋が出来上がるようになります。
紋を少しずつ変えることで、「本家とは違う分家だよ」等、オリジナルとの違いを示すことができるからです。
☆「民のかまどはにぎはひにけり」ブログさんより
http://dakimyouga111111.blog.fc2.com/blog-entry-50.html
http://dakimyouga111111.blog.fc2.com/blog-entry-51.html
茗荷紋は、摩多羅神という天台密教系の神様の信仰と深い関わりがある、ということは、いろんなサイトでも説明されているのですが、ちょっと詳しい突っ込んだ記述がありましたのでご紹介。
実は僕は、大学時代この「摩多羅神」を祀った謎の奇祭を見たことがあります。大学時代、下宿アパートが京都太秦の広隆寺の近くにありましたので、
「太秦の牛祭り」
を見に行ったことがあるのです。
詳しくは、
☆「摩多羅神は何処から来たのか」さんのサイトより
http://hwbb.gyao.ne.jp/akione-pg/Japanese/Frame_N_J.html
に説明があるので、ご興味のある方はどうぞ!
2013年12月24日火曜日
2013年12月23日月曜日
<5>家紋の怪 ~抱き茗荷は二つある~
「そういえば、えらい大事なことを忘れていた!」
それを思い出したのは、福岡旅行から帰ってしばらくのことであった。そういえば、かねてより父親から聞いてはいたのだが、これまた漠然と右の耳から左の耳に抜けていただけで、改まって意識したことのない、でも大切なポイントである。
そう、それは我が家の家紋についてであった。
父親によれは、うちの家紋は、
「抱き茗荷」
であるという。
ところが、言葉では知っていたものの、それがどんな紋であるのかは、インターネットを見て後から知ったくらいで、ああ、お恥ずかしい限りである。
それもそのはずで、うちの父親はすでに実家を出て何年も経っているので、だいたい家紋の入った何かを持っているはずもなく、今時正装する機会もなければ、末っ子の父だから紋付を持っているわけでもない。
正規の家紋がついた所持品が何一つないわけだから、僕らが見たことがないのも当然と言わざるを得ない。
そこで、僕の中では、「うちの家紋は抱き茗荷」という言葉だけが記憶に残ることになり、そしてこの言葉によって、結構苦しめられちゃうことになるのである。
そう、「抱き茗荷」は歴史上稀に見るややこしい家紋でもあるのだ。
抱き茗荷とは、こんな家紋である。
(引用元 ウィキペディアより http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Japanese_crest_daki_Myouga.svg)
「抱き茗荷」紋は日本の十大家紋に入っているので、メジャーなほうの家紋らしいのだが、実はこれにそっくりな紋がもう一つあって、よくその紋と混同されることが多い。
それが「抱き杏葉」紋であり、そっちはこんなデザインになっている。
(引用元 ウィキペディアより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Japanese_Crest_Daki_hana_Gyouyou.svg)
調べていくと、この「抱き茗荷・抱き杏葉」はどんどん深みに入っていくようなややこしさを持っている家紋だということがわかってきた。
まず、形が似ているので、「抱き杏葉」の家紋を持っている家でも、その呼び名を「抱き茗荷」だということがあるという。
このあたり、わかりやすい説明をしてくれているのが、前回登場した柳川藩当主「立花家」のサイトである。
立花家十七代が語る立花宗茂と柳川 「杏葉紋のこと」
http://www.muneshige.com/column/05.html
この説明によると、もともと杏葉紋は豊後の戦国大名「大友家」が用いており、そこから肥前佐賀「鍋島家」が用いるようになった、という。
そして、大友家軍団は、大友家からこの紋を用いる許可を与えられたので、(それを同紋衆というらしい)、柳川の「立花家」でも杏葉紋を用いるようになったとのこと。
ついでに江戸時代を通じて、杏葉紋なのに「抱き茗荷」だと混同する例も多く、ややこしいなあ、と率直に思わざるを得ないのである。
このあたりから、僕は当初大きな誤解をしてしまう。この誤った推測というのはこうだ。
「大塚家も、もしかしたら大友家の支配下にあって、それゆえに抱き茗荷紋を使うようになったのではないか?だとすれば、そもそも柳川藩の支配地域であったこととも繋がってくる。大友-立花-の流れと大塚家の関係性があるのではないか?」
そんな仮説から追っていったルーツ探しだったが、結果としてはNOだった。
なぜか?!それは、後に一発で覆される仮説だったからである。
それを思い出したのは、福岡旅行から帰ってしばらくのことであった。そういえば、かねてより父親から聞いてはいたのだが、これまた漠然と右の耳から左の耳に抜けていただけで、改まって意識したことのない、でも大切なポイントである。
そう、それは我が家の家紋についてであった。
父親によれは、うちの家紋は、
「抱き茗荷」
であるという。
ところが、言葉では知っていたものの、それがどんな紋であるのかは、インターネットを見て後から知ったくらいで、ああ、お恥ずかしい限りである。
それもそのはずで、うちの父親はすでに実家を出て何年も経っているので、だいたい家紋の入った何かを持っているはずもなく、今時正装する機会もなければ、末っ子の父だから紋付を持っているわけでもない。
正規の家紋がついた所持品が何一つないわけだから、僕らが見たことがないのも当然と言わざるを得ない。
そこで、僕の中では、「うちの家紋は抱き茗荷」という言葉だけが記憶に残ることになり、そしてこの言葉によって、結構苦しめられちゃうことになるのである。
そう、「抱き茗荷」は歴史上稀に見るややこしい家紋でもあるのだ。
抱き茗荷とは、こんな家紋である。
(引用元 ウィキペディアより http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Japanese_crest_daki_Myouga.svg)
「抱き茗荷」紋は日本の十大家紋に入っているので、メジャーなほうの家紋らしいのだが、実はこれにそっくりな紋がもう一つあって、よくその紋と混同されることが多い。
それが「抱き杏葉」紋であり、そっちはこんなデザインになっている。
(引用元 ウィキペディアより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Japanese_Crest_Daki_hana_Gyouyou.svg)
調べていくと、この「抱き茗荷・抱き杏葉」はどんどん深みに入っていくようなややこしさを持っている家紋だということがわかってきた。
まず、形が似ているので、「抱き杏葉」の家紋を持っている家でも、その呼び名を「抱き茗荷」だということがあるという。
このあたり、わかりやすい説明をしてくれているのが、前回登場した柳川藩当主「立花家」のサイトである。
立花家十七代が語る立花宗茂と柳川 「杏葉紋のこと」
http://www.muneshige.com/column/05.html
この説明によると、もともと杏葉紋は豊後の戦国大名「大友家」が用いており、そこから肥前佐賀「鍋島家」が用いるようになった、という。
そして、大友家軍団は、大友家からこの紋を用いる許可を与えられたので、(それを同紋衆というらしい)、柳川の「立花家」でも杏葉紋を用いるようになったとのこと。
ついでに江戸時代を通じて、杏葉紋なのに「抱き茗荷」だと混同する例も多く、ややこしいなあ、と率直に思わざるを得ないのである。
このあたりから、僕は当初大きな誤解をしてしまう。この誤った推測というのはこうだ。
「大塚家も、もしかしたら大友家の支配下にあって、それゆえに抱き茗荷紋を使うようになったのではないか?だとすれば、そもそも柳川藩の支配地域であったこととも繋がってくる。大友-立花-の流れと大塚家の関係性があるのではないか?」
そんな仮説から追っていったルーツ探しだったが、結果としてはNOだった。
なぜか?!それは、後に一発で覆される仮説だったからである。
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