前回もまとめたが、「佐賀県史料集成 古文書編 第17巻」と「神代家伝記」に登場する大塚隠岐・大塚新兵衛の事績について、文書の翻訳をほったらかしにしていたのが、
なんと人工知能の力を借りると、かなり丁寧に訳出することができる、という発見をした。
もちろん、これまでもざっと雰囲気を掴むまではしていたのだが、前後の文脈があまりにも飛んでいて、どこからどこまでが関係しているのか、よくわからなかったのである。
ところが人工知能を使うと、逐語訳がかなり正確にできることがわかった。そこで、あらためてこれらの文書について、訳出してみよう。
まずは「神代家伝記」のほうである。
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知行所を年々交代(年替り)させているとのこと。この時勢に、刈野の田地作物の年貢米を大いに減らして他の土地に出しているという。その頃の役人は目先の利益に迷って、これまた彼ら(敵方など)の望むままに富裕な農民を引き入れて取り入れさせていた。それゆえに小城の城下や領内の田坪(農地)を敵に奪われることになったとのことである。
また曰く、我が方へ心を通わせる者に対して万事ご勘署(確認・承諾)があった。芦刈館の周辺にある小路・侍屋敷の地は、はじめから年貢免除の取り決めであった。しかし勘署が入ったことで、検地を行い、いずれも年貢をかけるようになった。このことが露見し、石高が増加した分の「地割(土地の配分)」は公収されることとなった。これも内通者の仕業とのことである。
また曰く、三郡(佐賀・神埼・養父など)の山内(山間部)や井里(人里)の一帯は、当家の領地とするならば何の不足もないだろう。佐嘉(佐賀)の城も、この三郡の山内にあるからこそ豊かなのである。一番の要害であり土産の特産品もある。毎日、佐嘉・小城・神埼の各市(まち)を往来しており、また今国中の5か所に領地の家臣5,6名がそれぞれ別々に居住し、万事親密に連絡・通行している。何事も内談のうえ決定しているため、自然と我が家(鍋島家等)のためにもなり、また事態もスムーズに運んでいる。家良公(鍋島家良)の御行跡(行動)について直茂公(鍋島直茂)より御異見(お小言・ご注意)の書状が、当家の家臣へ送られてきたとのこと。
熊野より申し達してまいりました。六兵衛の事、州濃(信濃・濃州)の居所からも申し聞こえてまいりましたが、今年一入(ひとしお)増長し、内損(内部の不利益)を被る原因となった経緯につき、お沙汰の限り(処罰・吟味の対象)に留まらず、是非・正邪を言い難く思っております。しかしながら、あのお方(六兵衛あるいは対象者)が召し置かれたイカ(伊賀)衆につきましても、結局は御苗字(家格・お家)を保ち難いと存じます。そうであるならば、各御召(召し出し・ご呼び出し)、あるいは長良公(鍋島長良)の御指示よりも無駄な処置(お沙汰)になるかと存じます。誠に似つかわしくないお考えではないかと察せられます。彼ら(伊賀衆など)につきましては、かねてより御請受(承諾)を今に引き継いでおりますところ、重恩の義を忘れて我が家の証文などを直ちに召し上げ、彼らが仕分・相続するのも不審に存じます。不肖の者どもがさらに異見を申し上げるようなこともなく、大酒をくらって道具袋を失ったり、あるいは我らの顔に泥を塗るような不届きな振る舞いはございません。どうかご差配・ご容赦いただきたく存じます。左右の者たちも首を吊って死を覚悟しており、命拾いをした者につきましては、その身の望み通りに苗字(家格)の相続を認められるよう、尾下より申し上げます。この中で、それぞれ御軍労(合戦のご功労)の儀につきましても御料人(お方様)あるいは各陣営へ相談したうえ、首尾よくお心安く(ご安心)願いたく存じます。なお、お二人へお伝え申し上げたく、恐々謹言。
五月二十七日 直茂(鍋島直茂) 御判
槓清右、江原平右、神太郎左、大隠岐、中野彦右、福五郎右、神源右
以上
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まず、大塚隠岐らの名前が見える箇所だが、その次のユニットについては島田氏の名跡についてであるので、ここはカットしたが、芦刈の知行の話の次からが本題のようだ。
つまり鍋島直茂から、神代六兵衛家良の品行について書状が来た、というところが本題に当たる。
この内容から六兵衛は大酒を飲んで、所行が悪いので、鍋島直茂からそれを問いただすような手紙が、神代家に届いて、その宛名が7人の神代家・家臣になっている、ということが判明した。大塚隠岐は筆頭ではないが、4番めに位置している。
そして、この直茂からの手紙に対しての「返事」も残っていて、そちらが「佐賀県史料集成」のほうに収録されているわけだ。
こちらの訳も見てみよう。
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【表題・小見出し】六兵衛不行跡の記録
十四 槓清右衛門尉(ゆずりは せいえもんのじょう)外六名連署書状案
【本文】
加州様(鍋島勝茂・加賀守)からの御書状を戴きましたので、謹んで拝見いたしました。 さて、六兵衛尉が大酒をくらって過ちを犯し、内部に損害を生じさせた件につきまして、お呼び出しがあって双方のお使者をお遣わしくださり、入念にお調べ・ご糾明をいただきましたこと、当家中の者共も等しく感服・恐縮いたしております。あわせて、このたび豊州様(鍋島直茂)ならびに信州様(鍋島信濃守勝茂)のお小言(ご異見)を賜りました後は、薬袋(薬の袋、または道具袋・武具等)を紛失したことも一切ございません。 主上(あるいは当主)のお考えのとおりに相成り、六兵衛からも聞き及びましたところ、これまでの不始末を改め、納得のいく申し開きの条々を信州様へ申し述べさせました。そのうえで、以上の趣旨を貴殿のお耳に入れていただくのが然るべきと存じ、お届け(ご披露)申し上げる次第でございます。恐惶謹言。 六月二十三日 槓清右衛門尉 江原平右衛門尉 神代太郎左衛門尉 大塚新兵衛尉 中野喜右衛門尉 福嶋五郎右衛門尉 神代源右衛門尉
★ 背景・ポイント: 1枚目の画像に出てきた「六兵衛の大酒や道具袋(薬袋)の失策」について、家臣団(槓清右衛門ら7名)が連署し、主君(鍋島直茂・勝茂ら)からの咎めに対して「六兵衛も反省して改心し、信州様へもしっかりと事情を申し述べました」と報告・弁明している書状の控え(案)です。
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(訳出はGeminiによる)
この2つの手紙は対になっていて、直茂からの問いただしと、それに対する申し開きがセットということがわかる。
また、それらは、全て六兵衛家良の家臣である6名を仲介してなされていることもわかる。
神代家良は、神代長良の養子であり、鍋島直茂の甥であるため、直茂から見ても、気にかけている存在であったようだ。
また家良の通称が六兵衛であることは、あまり挙がってこないが、
https://chibasi.net/kyushu29.htm
を参照すれば
■ 神代喜平次家良 直茂公御供にて今度朝鮮渡海の人数(『直茂公譜』)
■ 神代六兵衛家良 慶長五年伏見攻めの鍋島勢物頭(『勝茂公譜』)
の記述がある。
さて、今回判明したのは、(わかっていたことではあるが)大塚隠岐はこの時点でやはり神代家臣の重鎮として生き残っている、ということである。
文禄5年(1596)に喜平次を名乗った家良が、慶長5年(1600)年に六兵衛表記になっていることを勘案しても、大塚隠岐はおおむねこの時期くらいまでは生きているとわかるのである。
今回判明分はここまで。



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