今年の大河ドラマは、「鎌倉殿の13人」で、源頼朝や北条氏を取り巻く鎌倉幕府の面々が陰謀に継ぐ陰謀で殺しあうバトルロイヤルになっています。
実はその裏面としてアニメの「平家物語」も放送されていて、メインの放送は終了したものの、いろいろなサブスク系メディアで現在も視聴できるようになっているので、ぜひどちらもご覧になってください。
というわけで、我らが九州の「大塚氏」も、実はこの「平家物語」と「鎌倉殿の13人」に絡んできます。
さすがにご先祖さま本人が登場人物にはなっていないのですが、 かなり近い人たちがドラマとアニメに登場しています。
九州少弐系大塚氏のルーツは、源頼朝に仕えた「武藤資頼」ですが、実は奥さんが「梶原景時」の娘です。
その前段階として、武藤資頼は、「平知盛」の武将でしたが、一ノ谷の合戦の時に、資頼は平家方を脱出して「梶原景時」のもとへ駆け込むんですね。降参する、と。
ここで中村獅童が登場です(笑)
そのまま、三浦義澄の預かりになります。つまり、佐藤B作です。
平知盛は、その後壇ノ浦で、碇を自らにくくりつけながら水中へ自害します。
武藤資頼は、その後源頼朝の家人となり、大友能直とともに九州へ送り込まれるわけですが、能直の養父となったのが「中原親能」です。川島潤哉さんが演じています。
能直から見て、実父の弟(つまり、おじさん)が武藤頼平で、この人が資頼の養父ですね。
というわけで、うちの先祖が九州にいるのは、すべてこの時の政策のせいということになってしまいます。
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さて、そんなあたりから再び戦国の世へと話は移ります。
三潴郡近辺は、龍造寺氏亡き後、けっこうごちゃごちゃして、そのまま秀吉配下の黒田官兵衛ちゃんがやってきたり、強制的に戦が収束へ向かいます。
肥前のくまモンこと「龍造寺隆信」は、その直前に死んでしまい、佐賀勢の権力は「鍋島信生」つまり直茂へと移ります。
天正16年には、旧龍造寺氏の権限を実質的に直茂が掌握したと見られています。
この頃、うちの先祖と思われる「大塚隠岐」は、なぜか直茂のもとには帰参せず、佐賀城ではない別のどこかにいて直茂からどうやら
「おまえ、どこにおるねん、帰ってこい!」
という命令を受けているらしいのですが、それを無視してうちのおじいちゃんの家の地域に留まったのではないのか?と推定しています。
さて、すこし話を戻しましょう。うちのおじいちゃんの家は、現在の福岡県三潴郡であり、佐賀とは筑後側を挟んで対岸。天正年間は、龍造寺が柳川あたりまで支配圏を広げていたので、ぶっちゃけ佐賀エリアでした。
いわば、佐賀勢の駐留エリアとしての筑後国内ということになりましょう。
ところが、この天正年間に、まず隆信が死んで(天正12年)しまいました。おまけに秀吉勢がやってきて(天正14年)
「はい、そこまで、ストップストップ!」
と戦乱を強制的に止めてしまいます。なので、三潴郡などへ駐屯していた佐賀勢の武将たちは、佐賀へ帰れず、あるいは帰らずに、おいてけぼり、もしくは自立することになります。
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さて、ここで「福岡県史資料 第6輯」には、
”因みにいわく、御国大庄屋の始まりは天正15年寅年、小早川隆景より石井和泉・古賀伊豆・田代興膳三人に命ぜらる。これ大庄屋の始まりという”
とあります。天正14年からの九州征伐で、小早川隆景には筑前・筑後・肥前が与えられたので、その折のことでしょうが、天正15年(1587)から慶長5年(1600)まで隆景は九州を支配することになります。この間13年間です。
(その後、関ヶ原の戦いの後備前へ移封)
古賀伊豆と大塚隠岐が三潴へやってきたのは天正年間とされていますが、おそらくは天正10年前後と推測され、天正15年には秀吉政権下へ移り、彼らの立ち位置も確定したと思われます。
古賀伊豆は、大庄屋として帰農したと推測して間違いではないと思います。(少し領地、場所を移動した?)
「久留米市史 第2巻」では
”地侍出身の古賀伊豆・石井和泉・興膳善右衛門三名が初めて大庄屋に任命されたという”
とあり、同じ内容の記述ですね。
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さて、ここで、今回からしばらく、この3人の正体について探ってゆきたいと思います。
彼らはそれぞれに特徴的な名前を持っていて、由来を探ることで見えてくるものがあるかもしれません。
特に「田代興膳」は「興膳善右衛門」とも呼ばれています。苗字なのか名前なのかよくわからないこの部分にも、謎が隠れていますよ~。
そのあたりもじっくり探ってゆきましょう。
(つづく)
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