2014年1月17日金曜日

<29>大塚太蔵と久留米絣 謎の出自をめぐって<追記あり>

 久留米藩と大塚氏の関係を探っていくうちに、もう一人、「大塚姓」の人物を発見した。その名を「大塚太蔵」といい、久留米の特産品「久留米絣(かすり)」の製法を発明した一人、ということになっている。

 久留米絣は、久留米地方で生産される「綿織物」の一種で、日本の三大絣のひとつに数えられるほど有名なのだそうだ。


 ウィキペディアさんより 
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E7%95%99%E7%B1%B3%E7%B5%A3


 その久留米絣、なかなか面白い由来を持っている。そもそも、この久留米絣は、井上(伝)デンという女性によって製法が考案され、井上デンは、さまざまな人たちと協力しながら、さらに新しい製法を生み出してゆく。

 
 井上デンの創意工夫については、

 筑紫次郎の世界 さんのサイトに詳しい。
 http://www5b.biglobe.ne.jp/~ms-koga/01den-000top.html


 また、

 風のおくりもの さんのサイトにも、詳細が記してある。

 http://www.kazenookurimono.jp/kasuri/story.html



 さて、この久留米絣を発展させる上で、一人は田中久重という天才が大きく関わっている。田中久重は「からくり儀右衛門」として有名な東芝の創始者であり、誰でも「弓曳き童子」や「文字書き人形」のからくり人形をテレビなどで見たことがあると思う。

 井上デンは、機織機の製作を当時14歳の久重に依頼しており、こうしたことから、久重は機械づくりの道へのめりこんでいったという。


 ところで、もう一人、久留米絣の発展に寄与した人物がいる。それが井上デンの後継者のひとり、大塚太蔵で、彼は絣の反物に絵柄を配置する「絵絣」の製法を発明したといわれている。


 太蔵の伝記はなかなか興味深い。一般に久留米絣の紹介をしている現代の文献では

「大塚太蔵は、三潴の農家の子として生まれ、・・・・」

「大塚太蔵は、足軽上がりであり、・・・」

の二種類の記述があり、その出自については軽くスルーされている。ところが、身分制度の厳しい江戸時代のことであるから、農家の子と、いくら足軽とはいえ武士とでは大きな違いがある。

 それよりも、当ブログ的には、

 久留米藩における「大塚氏」は赤松家臣の武家である、という前提に立っているため、農家「大塚家」の存在はぜひとも調査しておきたい部分に感じられたのである。


 しかし、この謎は、古文献を探るうちに概ね解けた。 

 久留米絣と大塚太蔵に関する現代の文献やサイトでは、大塚太蔵の出自については、ほとんど書かれていないのだが、ありがたいことに、またまた「国立国会図書館」の近代資料に文献が残っていた。


 明治36年に久留米商業学校同窓会が発行した「久留米絣」という本の中に、大塚太蔵のたどった軌跡が詳しく書かれている。

 
 近代デジタルライブラリー 「久留米絣」
 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/900995


 これによると、太蔵は、文化3年に三潴郡津福村(今は久留米市)に農家の子として生まれている。父親の名は林右衛門、母親の名はタカという。

 ここからの太蔵の行動が面白い。代々農家の家に生まれた彼は「農家として一生を過ごすのは、いやだ。俺はビッグになりたいんだ」と、立身出世を夢見て、あろうことか妻子を捨てて藩主有馬頼永の小人となり、なんと、参勤交代についていって江戸まで行ってしまうのである。

 その江戸で、どうやら絵織物に触れその手法を応用することを思いついたらしいのだが、帰ってきてせっかく得た士分を「痔になった」せいでお勤めできなくなり、また転身して機織の道に入ったというのである。



 太蔵は、絵絣を発明したのちも、なかなか苦労しているようで、着物に夢中になっているものだから「女太蔵」だの「狂太蔵」だのとバカにされ、これではいかんと考えた挙句、自分の娘に最新モードの服を作っては着せて、人が多いところ、集まるところへわざと出向かせて評判にさせる、という裏ワザを使ったらしい。

 38歳で死んだ太蔵は、むしろ亡くなってから後に評価され、表彰されるようになったという。



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 ところで、古文献にはもうひとつ、大塚太蔵についての記述がある本がある。

 おなじ近代デジタルライブラリーで読むことができる昭和10年刊行の「郷土資料」というものである。


 近代デジタルライブラリー  「郷土資料 修身の部 久留米初等教員会」
 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1026935


 これは、おそらく久留米の小学校の先生たちがつくった教科書副読本であろうが、時代背景を反映して天皇家の業績から始まる。


 こちらの記載は、「太蔵の家は代々足軽で、太蔵は藩主の馬丁を勤めていたが、後に病気で職を辞し、実業を興して家計を支えようとした」となっている。

 
 これもまた当ブログ的には面白い。

 『大塚家は代々足軽で、有馬家の馬の世話をしていた』という話は、おそらく正しい。


 僕の実家は、おなじ三潴地域といっても、津福村ではないのだが、これまた似たような話も伝わっているのだ。


 当大塚家が「馬廻り役」であった、という伝承とともに「えー、そうやなくて馬の世話係だったらしいで」とか「足軽頭やったらしいで」とか、そういう話もあるのだ。

 ぶっちゃけ、「馬」ということばだけが一人歩きして、「馬廻り」だの「馬を飼ってた」だの話があっちこっちへ飛んでいるのだが、当家が久留米城下に居を構えているわけではない以上、直接の先祖は、すでに家格が落ちていたとしても不思議ではない。

 馬廻りは相当前の先祖であって、近代の先祖は足軽(徒士)であっても、全然おかしくないわけである(笑)


 これも今となっては我が先祖「大塚喜平次」の役職・身分がわからない以上どうしようもないのだが、なかなかどうして大塚太蔵に親近感を覚えずにはいられないのである。


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 大塚太蔵について、詳しく記載されていると思われる文献を発見したので追記しておく。


 『久留米人物誌』 篠原正一 久留米人物誌刊行委員会 菊竹金文堂S56


 によると、ざっくりまとめるが”太蔵は文化3年5月生まれで、父は林太郎、母はタカ。農を嫌い、武士になりたくてつてを頼って藩主の馬丁になり、のち士分に取り立てられた”、とある。

 この資料上では、大塚家は農家であると読める。全体的には前述の「久留米絣」の記載を踏まえているように感じられる。

 
 さらに同書には大塚太蔵の孫である「大塚猪之助」の項があり、こちらでは久留米絣の発展に息子も関わっていたことが記されている。

 
★2014.5.8 記事追加・修正しました。

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